仕入屋錠前屋と犬

 快晴の日曜。
 哲がペット用のトイレとペットシーツ、そしてピンクの服を着てピンクのリードをつけた十四歳のポメラニアンを小脇に抱えて秋野の部屋を足でノックしたのには訳がある。
 もっとも、理由もなく取るような行動ではないのだが。

 

 ポメラニアンは名前を花という。彼女は、哲のアパートを仲介している不動産屋川端の妹の犬である。
 川端の妹はアンティークショップを経営しており、古い箱や何かの解錠を頼んでくることがたまにある。しかし、品物の受け渡しも依頼そのものも川端を経由されるため、哲は直接顔を見たことがない。本当に川端に妹がいるのかどうか定かではないのだが、哲に嘘をついても仕方がないから、多分本当なのだろう。
 その妹が商品の入った重たい段ボールを持ち上げてぎっくり腰になったらしい。妹は独身で一人暮らし。そのため、飼い犬の花の世話が兄である川端に託された。
 しかし、せいぜい一週間程度とはいえ、川端に小型愛玩犬の世話が務まるわけもない。そんな時に運悪く事務所に家賃を届けに行った哲が、今月分の家賃は要らないから何とかしてくれと花と備品一式を押し付けられたというわけだ。
 川端に勝るとも劣らず犬については無知な哲だが、川端が来月分もタダにする、仕入屋なら何とかしてくれるんじゃないか、いや何とかしてくれと涙目で拝むに至って渋々ながら引き受けた。
 安アパートだから家賃も安い。だから、別に二ヶ月家賃なしに惹かれたわけではない。川端のネクタイの緩んだ襟元と乱雑なデスクの上から、生活全般のだらしなさは容易に推し量れる。こんな人間に世話をされる年寄り犬が可哀相になったせいもあるし、それに秋野なら犬の世話ができる人間くらいすぐに見つけられるだろうから押し付けてしまえばいいと思ったのだ。
 そういうわけで、元々自分で世話をする気は皆無だからここに直行したのである。セカンドバッグのように小脇に抱えた犬が不機嫌に吠えるのをそのままに、通行人から向けられる視線をものともせずに、だ。こんなに秋野に会いたかったことは、出会って以来、未だ嘗てなかっただろう。
 扉を開けた秋野は哲と花の顔の間に数度視線を往復させ、顔をしかめた。

 

 秋野は、噛まれた手の甲を見下ろして眉を寄せ、不機嫌に言った。
「……噛むなよ」
「てめえに言われたくねえと思うぞ。なあ?」
 噛み癖のある奴が言う台詞ではない。そう思いながら哲が頭を撫でると、花は歯茎を剥いて唸った。
「唸ってるぞ」
「同意してんだろ」
「いや、威嚇だと思うね」
「花は女の子だ。威嚇なんかしねえ」
「女の子っていうか、老女じゃないのか。十四歳だろ?」
 溜息を吐く秋野に眼を向けた花は、唸りながら尻尾を振った。
「お、尻尾振ってる。好かれてんじゃねえの?」
「唸ってるが」
「気のせいだろ」
 哲は花を片手で持ち上げ、秋野の上に載せた。秋野は嫌そうな顔をしたが、花はソファにだらしなく寝そべる秋野の腹の上で四度回って大人しく腰を下ろした。今日の秋野はジーンズに黒いTシャツ、その上に黒いチェックのタイトなシャツを着ていた。花の被毛はクリーム色だから、腹のあたりが抜けた毛で真っ白になるに違いない。
「にやにやするなよ。気持ち悪いな」
「ポメラニアンがお似合いだ、仕入屋」
「俺は何でも似合うんだよ」
「冗談だ。似合ってねえ」
「どっちでもいいよ」
 溜息を吐きながら、秋野は花に手を伸ばす。ふわふわした尻を押しやり、位置をずらそうとしたのが気に障ったのか。花は唸りながら振り向くと、歯のない口で思い切り秋野の手を噛んだ。
「……」
「動物虐待断固反対」
「何もしとらん」
「しそうな面だった」
「失礼な」
 噛まれた手を哲に向けてひらひらと振りながら、秋野は不機嫌そうに低い声を出した。
「電話」
 テーブルの上の携帯電話を取れということだろう。横柄な物言いに携帯をぶつけてやろうかと思ったが、間違って花の小さな頭蓋骨に当たったら可哀相だからやめておく。電話を受取った秋野は暫くして相手と話し始めた。今までとは打って変わって随分優しげな口調で話しかけている。多分女だ。
 哲は秋野と花をそのままに用を足しに立った。居間に戻ってきたら丁度電話が終わったところだったようで、秋野は携帯を閉じて哲に眼を向けた。
「一週間は預かってくれる。後で番号教えるから、料金は川端さんに自分で交渉してもらえ」
「悪ぃな。犬好きの女がいるのか」
「性別は女だが、俺の女じゃない」
「何だ」
 秋野は何だって何だ、と呟いて花の尻尾の毛に指を絡めて引っ張った。
「ペットホテルみたいなもんだ。自宅で、ケージに入れないで犬を預かってる。スペースに限りがあるんで大抵予約でいっぱいなんだけどな。おい、噛むな」
 花が尻尾の毛を摘まむ秋野の手に噛みついているが、何せ歯がないので攻撃力はいまいちである。秋野は花の顎から手を抜いて眉を寄せた。
「まったく、行儀の悪いばあさんだな」
「住所教えてくれ。持ってくから」
「歩かせろよ」
「スパンコールつきのピンクの服着てピンクの紐つけたふわっふわの小型犬を俺が歩かせるのか。この俺が」
「マッチョ発言」
「うるせえ」
「ピンクも似合うぞ、錠前屋」
「死んでくれ」
「口が減らないねえ。感謝しろよ。はいお礼」
「は……うわっ」
 いきなり手首を掴まれて引っ張り寄せられ、哲は秋野の上に倒れ込んだ。秋野が首筋に齧り付いたと思ったら、押し潰されかけた花までが、抗議の唸り声とともに哲の脇腹に歯のない顎で食いついてくる。
「いってえ!! てめえらぶっ殺すぞ!!」
 おかしそうに笑う秋野の頭をひとつ殴りつけ、哲は憤然と立ち上がった。
「住所!」
「あのな、最後まで聞け、哲」
「ああ!?」
 秋野は花の頭を撫でながらにやにや笑う。
「一週間預かってくれるが、明日からだ」
「え?」
「だから、言ったろ。いつも予約でいっぱいだって。明日まで空きがないんだそうだ」
「…………」
「明日連れてけ」
「……今日は?」
 なんだか情けない声になった哲を眺め、秋野は片眉を上げて見せる。
「さあ? 俺には関係ない」
「何かあんだろ、何かこう、いい案が!」
「一晩くらい何とかなるだろ」
「自分で面倒見られるならそもそも連れて来てねえっつの!」
「明日までなら預かってやらんこともないが」
「…………何やらせる気だ」
 こいつの魂胆など見え見えだ。睨みつける哲に向かって、秋野は女なら蕩けるような笑みを浮かべた。

 

「も、マジ勘弁……」
「何も難しいことは頼まなかったろう」
 ぐったり疲れて座り込んだ哲は、長い溜息を吐いた。
 秋野が哲に要求したのは、花を散歩させること、それからドッグカフェで食事をさせてくること、この二つだった。
 散歩は歩いていればいいわけだし、ドッグカフェというのも頼めば犬の飯が出てくるのだというから別に哲が何かすることはない。秋野も同行するというから、一人で悩むこともないだろう。一体何を提案されるのかと思ったらたいしたことではなかったから安堵した。
 だが、やはり秋野は秋野だったのだ。
 ピンクの服とリードで着飾った花は年寄りだから長時間は歩けない。だから、ドッグカフェに向かう途中で、哲が抱えることになった。秋野の家にくるまでは小脇に抱えてきたのだが、秋野からきちんと抱けと指導が入った。
 ピンクできらきらでふわふわ。
 そんなものを抱っこしていると、どうにも身体中がむず痒い。通り過ぎる女子高生にきゃあきゃあ言われ、オヤジに笑われて危うく殴りかけ、カフェに着く頃には花を放り出す寸前であった。
 ドッグカフェはドッグカフェで、やたらと洒落ていて落ち着かない。犬用のメニューを見て思わず眩暈がした。ワンプレートランチだとか、ハンバーグだとか、ドッグフードとは程遠いのだ。おまけにケーキまであって、選べと言われても一体何を食わせたらいいのかも分からない。結局何を頼んだのか覚えていないが、金を払ったことは思い出せた。
「難しくねえけど、なんだ、あれは……もうなんつーか、とにかく、無理」
 テーブルに缶が当たる音がした。目を上げると、秋野が哲の前にビールを置いたところだった。片手にタオルを数枚持っている。風呂にでも入るのかと思ったら、秋野はソファの横に畳んだバスタオルを置き、ひょいと花を抱え上げた。
「おやすみ」
 犬の小さな身体を壊れもののように抱え上げるその仕草は、利香に対するそれと似ている。花をバスタオルの上に置き、掛け布団のように別のタオルを掛けた。
「寒いのか。毛皮着てんのに」
「さあ? 年寄りだからな。念のため。俺のとこでぽっくり逝かれちゃ川端さんに恨まれる」
「あー、まあな」
「ただでさえ色々心配させてるからな」
「はあ?」
 哲を見下ろし、秋野は薄茶の目を細めた。
「……くだらねえ」
「そうでもない」
 哲の隣に腰を下ろし、秋野は哲のうなじに手をかけた。蝿を追うように手で払ったが、指はしつこく首筋に纏わりつき、犬の毛を弄ぶように哲の髪に絡みついた。
「鬱陶しい。どっか行け」
「おいおい。一晩預かってもらうんだろう。感謝しろ」
「……」
 横目で睨むと、間近の瞳が笑みを含んで金色に瞬いた。
「——本気にするんじゃないよ、馬鹿だね」
 低い声が近付いて、押し付けられた鼻先が、犬がするように哲の肌の匂いを嗅ぐ。
「お前が頼むなら何でもするさ」
 ぞわりと粟立った肌を舐め上げながらざらついた舌が移動して、耳朶を舐め取る。哲はビールの缶を開け、炭酸ガスが抜ける音に眉を寄せた。
「嘘吐け、このろくでなしが」
「嘘じゃない」
「じゃああっち行け」
「嫌だね」
「嘘じゃねえか」
「そうかもな」
 長い指がビールの缶を押しやり、哲の手から遠いところへと移動させた。抗議の声を発する前に肩を押され、床に転がる。
「重てえ!」
「うん?」
「何でもすんだろ、退けっつーの」
「四つん這いで犬の真似でもしてみせようか?」
「要らねえ!!」
「じゃあ、お前がしろよ」
 耳の中に囁きを押し込まれ、同時に侵入してくる濡れた感触に背が反った。圧し掛かる男に噛みつくように口づけられ、押さえ込まれて上げた不満と威嚇の呻き声は、我ながら花の唸る声にそっくりだった。