2006年 ホワイトデー仕入屋錠前屋

それはもう久し振りに店に来たミキが、
「ササキくーん、ミキにお返しは?」
 などと言い出したから、一体何をして頂いたのか、結構前のベッドの中でのあれやこれやかと真剣に考え込んでしまったのは、別に俺の悪い頭のせいじゃない、と哲は内心で呟いた。
「なんてねー、あげてないもんね、チョコ」
 その台詞で哲はようやく話が見えた。そう言えば今日がホワイトデーなのか。
 ミキは最近きれいになった。本気で付き合っている男がいるのだそうだ。そんなわけでミキとの後腐れない関係はすっぱり終わり、哲とミキは居酒屋の客と店員に戻っている。
 相変わらずあっけらかんとした女だから、気まずいとかいう気持ちはまるでないらしいのが哲にとっては楽だった。
「ねえねえ、ササキくんこれから暇ぁ? お店ひけたら飲みに行こうよ」
「いいけど、お前彼氏は」
「今日は仕事遅いんだって。つまんないんだもん、行こうよー」
 子供のように駄々を捏ねるミキに押し切られ、哲の予定は勝手に決められた。

「ササキくんはさ、今付き合ってる子いるの」
 ミキはとろんとした目で気だるげに哲を見上げた。散々のろけを聞かされて、要するに誰かに彼氏自慢をしたかっただけのミキにまんまと捕まったということだ。
 間接照明だけの薄暗い店の中は、平日のせいか空いていた。ミキは彼氏の残業を罵りながらも終始上機嫌で、三杯目のディタモーニで頬を赤く染めている。
「いや、相変わらず」
「そうなんだぁ」
 ミキはけらけらと笑って何故かグラスを上げて見せた。
「じゃあ、溜まっちゃってるんじゃないのぉー」
「……別に……」
 忌々しげな声になったのは、致し方ないところだ。
 正直言って、猛烈にむかつく話ではあるのだが、あのクソ馬鹿のせいで女を相手にする体力も精力もなかった。
 哲は元来どちらかと言えば淡白な方だし、最初の頃に比べて秋野と寝る頻度は増えている。わざわざ好き好んでしているというのともちょっと違うが、それでも一応——ここらへんが微妙ではあるが——出すもん出さして頂いて、経過はどうあれ結果そのものは変わらない。
「なんだあ、ちゃんといるんじゃん、オンナノコ!」
 何故か嬉しそうに笑うミキに唸りながら、哲は不機嫌に酒を呷った。日付はとうに変わっていて、ミキと哲のホワイトデーは、特別な何かもないまま、いつの間にか終わっていた。

 

 掌を辿り、指先を舐め上げる舌の感触。いい加減慣れたそれに、時折酷く腹が立つ。昨晩ミキと会ったせいか、ミキの愛撫を思い出したりもして、何やら妙な心持ちだった。
 怒ったような哲の表情に、秋野は片眉を上げて哲の顔をじっと見た。睨み返すと小さく笑って身体を離し、煙草の箱に手を伸ばした。
「昨日はホワイトデーだったんだってな」
「何だ、いきなり?」
「別に」
 白い煙に、秋野のシャツの濃い色が霞んで見えた。ジーンズに包まれた長い脚がだらしなく投げ出されて、狭い部屋が更に狭く思える。
「誰かに何かやったか?」
「さあな。秘密」
 秋野は歯を剥いてにやりと笑うと目を眇めて哲を見た。
「気になるか?」
「有り得ねえ……。阿呆なこと訊くな」
「それもそうか」
 哲はミキのことを考える。例えば未練とか、そういうものはまるでない。ただの女友達でしかなかったミキに特別な感情はないのだが、抱いた分だけ、彼女の何かが自分の中に残っている気がするのだ。それはミキが哲にくれた何かであるのかもしれないし、そうであれば自分は彼女に何かを返せたのだろうかと意味もなく考えてみたりもする。

 訝しげな秋野の顔に、ぼんやりと視線を返した。灰皿の縁に置かれた煙草の穂先が赤く光る。食いつかれた喉元に、ひりつくような痛みが走った。頑丈な顎が喉をくわえ込み、悪態すら吐けなかった。
 以前に一度、同じようにされたことを思い出す。あの頃は、まだこいつとやってはいなかった。だが、噛まれようが突っ込まれようが、感じるものは同じだった。秋野が哲の体に残す、欲望と興奮の残滓。それに何を返してやろうか。決して満足することなどない強欲なこの動物に。

 蹴り上げた足に、秋野の肋骨が当たる。それでも緩まない顎の力にどこか快感にも似た怒りと敵意を覚えながら、哲は掠れた呻きを絞り出した。