10,000打御礼 06-10

06.その男

 酔った勢い、というのは、結構恐ろしいものだ。

 酔い方には色々あって、哲の場合、普段は殆ど変わらない。多分人より強いのだろう。顔色も変わらないし、普通に飲む分にはあまり気分も高揚しない。
 度を超えると、いきなり胸が悪くなる。しかし吐いてしまえばすぐに治るし、記憶を失ったこともほとんどない。所々曖昧になっても、ぽっかり抜けた、と言うのは経験したことがない。

 何故その時に限ってぐっすり眠ってしまったかと言うと、前日がほぼ徹夜だったせいだ。
 バイトの後に急に誘われて飲みに行き、帰り道で見知らぬガキに絡まれた。足腰立たないほどのしてやったのは今更語るまでもないが、興奮したせいか寝付けなかった。そうこうする間に一日が経ち、再び飲んだのがいけなかった。

 目が覚めたのは、コンクリートと頭が激突した衝撃のせいだ。
 秋野はとりあえず階段を昇る前に一息つき、哲を座らせようとしたらしい。その手が滑って地面に頭がぶつかったらしいのだが、それを責めるのは確かにお門違いなのだろう。しかし、分かってはいても痛いものは痛いし、寝惚けた頭でむっとしたのは致し方ない。
「痛えな!」
 階段下の地面に転がされたまま、横に立つ秋野の脛を蹴り飛ばす。秋野の呆れた声が降ってきた。
「起きたなら自分で歩けよ」
「るせえ。思いっきり転がしやがって」
「多少こぶになるくらいだ、死にゃしない」
 哲はぐらぐらする頭を振ると、上半身を起こしてみた。頭が揺れるのは酒のせいで、痛いのは硬い地面のせいだ。秋野は横に立ったまま、哲の顔を見下ろしている。
「くそったれ」
「俺のせいじゃないよ」
 何故か酷く腹が立つのは、酔っているからなのだろうか。哲はそう思いながらも、無理矢理その場に立ち上がった。膝が少々心許ないが、立てないほど酔ってはいない。
 秋野の薄茶の目を見ていたら、どうにも凶悪な気分になる。徹夜と酒が悪いのか、それとも目の前の男の顔が悪いのか、考えても仕方がない。

「殴らせろ。死ぬほど思いっきり殴りてえ」
 秋野は眉を上げて哲を見たが、力の入らない膝に目をやると口の端を曲げて笑った。
「その足じゃ踏ん張れないぞ。思いっきりは無理じゃないか」
 確かに、言われて見れば会心の正拳突きをお見舞いするのは無理かも知れない。
「殴れないならやりてえ」
 秋野が僅かに首を傾げた。酔った勢いとは言え、普段なら有り得ない哲の発言に、何とも言えない妙な顔をする。
「からかうんじゃないよ、酔っ払いが」
「別に、からかっちゃいねえよ」
「喧嘩出来ないかわりにやろうってか?」
「悪ぃか?」
 秋野は哲にぎりぎりの距離まで近づいた。それでも手は伸ばさない。触れているのはお互いの前髪のほんの一部、それだけだ。所々に金色の散る虹彩が、街灯の明かりに淡く光る。
「酔っ払いの言うこと真に受けて後で四の五の言われるのも嫌なんだが」
 ごく低い小さな声は、深夜の路上に落ちて消えた。
「やるのかやらねえのか、はっきりしろよ」
 自分で言っておきながら、どこか面倒臭くもある。哲は投げやりに吐き捨てた。目の前に立つその男は、陰になった精悍な顔に薄ら笑いを浮かべて囁いた。
「……どうして欲しい?」
「どうもこうもねえ、馬鹿野郎」
 ゆっくりと押し付けられた秋野の身体に、哲は不機嫌な唸りを上げる。
「勃ってんじゃねえか、結局」
「そりゃあそうだろう」
「クソ野郎が」

 

 喉を鳴らす秋野の声が、哲の鼓膜を震わせる。
 下らない男の生理現象だ。女と違って、愛がなくても勃つときゃ勃つし、出すもん出せばそれで終わる。子供を産まない男と言う生き物は、どこまでも手前勝手で幼稚なもんだ。
 それでも、誰彼なく反応するというわけでもないのが事実でもある。

「誰がここでするって言った? 阿呆かお前は」

 腹を押さえて呻く秋野をその場に置いて、哲はふらつく足で階段を昇った。頭が痛いのは地面のせいで、頭が揺れるのはこいつのせいだ。

 

07.ことのは

 言葉は必ずしも必要か?

 探り合う腹の中、汚泥に沈めた指先のように、得体の知れないその深みでもがく時も。

 身体に張り付いた布地はじっとりと重く、剥がすことさえ容易ではない。
 その水分が冷たい雨を含んだものか、それとも今身体に降り注ぐシャワーの湯なのかは、既に判然としない。狭い風呂場に立ち込める湯気の中で、半開きの唇に容赦なく水が入り込む。
 すべての衣服をつけたまま流れ落ちる生温い湯に打たれ、一体どれくらい経ったのか。下着まで水が染み透り、不快に肌に纏わりつく。衣服のために溺れることがあると言う。今、それを身をもって実感する。
 水を吸って重たい綿と、荒い息を吐く腕の中の何者か。水溜りで溺死することすら可能であれば、今ここで溺れ死んでも、何一つ不思議はない。
 悪態か、それとも非難か、吐き出そうと開く唇を手で覆う。濡れそぼった髪から、水の帯が頬を伝う。涙のためのその道筋に、通るはずのないものを擬したかのような細い流れ。瞬く度に、睫毛が細かい飛沫を散らした。
 着衣のままの哲の身体を強く抱く。二人分の布地と水分を間に挟み、それでも感じる頑丈で潔い雄の骨格。二百以上あるというその骨を、一つ残らずばらしてやりたい。額に張り付く濡れた髪を指で避けた。露になった額の上を、水滴が転がり落ちた。

 土砂降りになった雨の中、ただ言いたいことを言うためだけに立っていた哲の強情そうな顎の線。
 幾らでも開けられる玄関を敢えて開けず、びしょ濡れの惨めな姿でそれでも平然と佇む痩せた身体。
 口に出したたった一言、電話でも十分伝わるそれだけのために。

「何してるんだ、馬鹿が」
「だから、言うのに待ってたって言ったろ」
「勝手に上がってりゃよかっただろうに……。早く入れ」
「帰る。言いに来ただけだ。用は済んだ」

 肩をつかみ、半ば抱えて部屋に上がる。浴室にそのまま放り込み、シャワーの栓を捻った。哲は顔を拭い、怒りの滲む罵声を発した。
「どうせ濡れてんだから放っとけ、くそったれ」
「濡れついでなら温まったほうがましだ。大人しく入ってろ」
「いちいち指図すんな。むかつくんだよ、てめえのそういうところが」
「指図じゃない」
「指図じゃねえか」
「分かってるくせに絡むな!」
 思わず上げた怒鳴り声に、哲は唇を引き結んだ。片手で覆い、仰向けた顔に水の筋が降りかかる。唇の端を、鼻梁を、手の甲を伝って流れ落ちる透明な川。焦点を失い溢れ出すままの言葉の流れに酷似したそれ。

 壁に押し付けた身体を抱き締めたまま、ただそのままに濡れていく服と髪と肌、すべて。

 

「はなせ」
 哲の低い声がくぐもって聞こえた。濡れたシャツの肩口に押し当てられた額の下、胸骨の辺りを振るわせる。
「離せ、秋野」
 先程よりははっきりと聞こえるそれに、腕の力を強くする。
「嫌だね」
「離せっつってんだよ」
「嫌だ」
「秋野」
「喋るな。聞きたくない」
「お前——」
「うるさい」

 言葉は何かを伝える手段だ。うまく行けば、より多くのものをもたらしもする。
 だが、今それが必要か。
 水の流れのように溢れる言葉をより分けて、残った小さなかけらを集めるのは今でなくても構わない。
 このまま融けて流れてしまえたら、それで楽になれるのに。
「黙ってろ。動くな。抱かれてろ。言っておくが、指図じゃない」

 水の跳ねる音だけが、狭い空間にこだまする。哲の返事は、聞こえなかった。

 

08.鼻声

「佐崎くんがインフルエンザなんだよ」
「……だから?」
「だからって、お見舞いに行かないのか」
「何で俺が」
「かなり弱ってたぞ」
「お前真面目に薬出したんだろう? じゃあそのうち治るだろ」
「冷たいねえ」
「今移されたら仕事に支障が出るから困るんだ。第一俺が行ったところで喜ぶようなやつじゃないよ」
「……何だかなあ」

 そんなわけで、秋野は手塚のお節介にも惑わされることはなく、インフルエンザに罹ったという哲を見舞いに行くことはなかった。
 霍乱とは日射病のことらしいが、鬼の霍乱という言葉はすべての病気に使えるんだっただろうか。普段は風邪を引いたという話も聞いたことがないが、まさかインフルエンザとは。しかし、人の出入りの多い居酒屋に勤めているから、貰ってきてもおかしくはないのだろう。
 手塚の電話から五日経って、秋野はやっと哲の顔を見た。

 かなりこけた頬に相変わらず険しい目が、病人というより兵隊のようだ。顔色は悪くないから治りかけの状態には違いない。
「もう大分いいのか?」
「ああ」
 答えた声は、まだかなりの鼻声だった。
「さすがに三日も熱出るときついな。成人してから初めてじゃねえかな」
 別人のような哲の声に、どうにも違和感が拭えない。店の裏口にしゃがんだ哲はいつものTシャツだけの格好ではなく、調理のために腕まくりはしているものの、長袖を重ねていた。
「こんなとこで油売ってねえで、さっさと帰れ」
 犬を追い払うように秋野に向かって手を振る哲の目の下は、静脈が透けたように青く隈が浮いている。周囲には誰もいなかった。手を伸ばして薄い皮膚に触れてみる。隈の部分に唇を寄せると、哲が厭わしげに何か言う。
 その鼻にかかった低音に、こういうのも悪くはないかとふと考えた。

「ずっと風邪ひいてりゃいいんじゃないのか」
「はあ? 何で」
「結構かわいい声じゃないか。なあ?」

 哲の掌が、思いきり秋野の顔にぶつかった。

「いてっ」
 万力のようにこめかみの骨を締め付ける哲の指に、痛いながらも笑ってしまう。哲は左手の煙草をコンクリートで消しながら、秋野の顔をぎりぎりと締め上げた。不機嫌そうな、至っていつも通りの顔のままに。
「下らないことばっかり言ってるんじゃねえ、ボケ」
 やっと引き剥がした掌は、最後にもう一度頭を殴って離れて行った。立ち上がって秋野を見下ろす哲の顔が、突然にやりと下品な笑みを浮かべる。
「お前、可愛いのが好きだったのか。じゃあ今度実演してやるよ」
 想像したら余りの恐怖に眩暈がした。
「……遠慮する」
「よく考えて物を言え、馬鹿が」
 嘲るような笑い声と共に音を立てて裏口が閉まり、秋野は一人取り残された。苦笑しながら立ち上がり、締め付けられた頭を振る。鼻声は悪くない。正直言って結構好きだが、可愛い哲は想像だけでかなり背筋が寒くなる。
 どちらにしても、早く全快すればいい。
 本人には言わないが、そう胸のうちで呟いて。秋野は一人、踵を返した。

 

09.エンサイクロペディア

【アムールトラ】 Carnivor/Felidae 学名:Panthera tigris altaica
アムール、ウスリ地方に生息。全長四メートル、体重三百五十キログラムに達する最大級の亜種。

「お前これに似てるよな」
「……これって、アムールトラ?」
「今映ってんのはそれだけだろうが」
「俺は三百キロもない」
「阿呆か。誰が重さの話してんだよ」
「そういやお前よく虎男とかクソ虎とか言うよな」
「上から下までぴったりじゃねえか」
「そうですか」
「いつも思うけどよ、ライオンは百獣の王って言うけど虎は言わねえよな」
「ライオンの方が強いんだろ」
「トラの方がえげつないんじゃねえのか」
「トラに失礼だ」
「やっぱり親戚なんじゃねえの?」
「……」

 

【ヒツジ】 Artiodactyla/Bovidae 学名:Ovis aries
羊毛、食肉用などのために飼育される家畜。角を持つ。

「トラもだけど、ヒツジ見てもお前のこと思い出す」
「それは何を見ても俺に見えるって意味なのか?」
「ああ? んなわけねえだろうが、馬鹿たれ。あの横長の瞳孔が」
「意味が分からん」
「バケモノ臭くて気味悪ぃとこがお前を連想させる」
「瞳孔が横長なのは草食動物だぞ、馬とか。あんなに目離れてないと思うのは自惚れなのか?」
「別に顔が似てるってわけじゃねえよ。怖えだろうが、似てたら。人外な感じが似てんだよ」
「まさか褒めてないよな?」
「褒めてねえよ。けなしてるんだよ、心の底から」
「光栄だねえ」

 

【タバコ】 煙草/烟草/莨 学名:Nicotiana tabacum L
ナス科の一年草。黄色種、バーレー種などがあり、葉を乾燥させて嗜好品であるタバコが作られる。

「悪ぃ、煙草一本くれ。切れた」
「その箱やるよ」
「あ、そ。どうも」
「そういや煙草の葉っぱってナス科だって知ってたか?」
「さあ」
「ナス科ってアルカロイド含有なんだってな」
「知らねえよ、そんなの。だったら何なんだよ」
「別に、何でも」
「何かつっかかんな。トラか? ヒツジか? 根に持つ男は嫌われるぞ」
「別に根に持ってない」
「へえ」
「お前に好かれたって仕方ない」
「まあな」
「で?」
「ああ?」
「俺のこと好きか?」
「全然」
「だろうな。……」
「…………」
「…………——何だ?」
「……このタイミングでこういうことをするてめえの脳内が理解できねえ」
「なぜ?」
「にやけた面してんじゃねえよ」
「地顔だよ」
「馬鹿野郎」
「殴るなよ、痛いな」
「死ね」

 

【接吻】 キス/口づけ Kiss 医学的定義:弓状筋肉の収縮状態における構造的並列
親愛の情を表現するために、相手の頬、額などに唇で触れること。

「ああもう鬱陶しいな、てめえは!」
「うるさいよ、お前は」
「触んな、くそったれ」
「なあ」
「何だよ」
「する場所によって意味違うって知ってたか?」
「知らねえよ。知りたくもねえんだよ」
「ここは尊敬、だろ」
「人の話聞いてねえな、お前」
「聞いてるよ。尊敬だ、尊敬」
「仕方ねえ奴だな、まったく。——なんかあれだろ、身分の高い女とかにするやつだろ」
「そうだな。映画なんかでよく見るだろ。で、これが親愛の情だろ。ロシア式だな」
「気持ち悪ぃな、止めろ。胸悪くなるじゃねえか」
「変な奴だな、別に無害だろ」
「お前にされると鳥肌立つんだよ。ガラじゃねえんだっての」
「失礼な」
「もういいから離せっつってんだよ」
「まだあるんだよ。こっちが挨拶」
「はいはい」
「で、愛情は、まあ言うまでもなく唇だな」
「それはいらねえ」
「そう毛嫌いするな」
「てめえの場合は愛情じゃなくて欲情じゃねえか」
「ま、何事にも例外がありますから」
「触んなって言ってんだろうが!」
「お前本気で蹴るなよ、肋骨が折れるだろうが」
「折れちまえ。アバラの一、二本折れたって死にゃしねえんだよ」
「痛いだろう」
「俺の知ったことか」
「大人しくしろ」
「冗談じゃねえ」
「痛っ! 人の頭を物みたいに、……」
「いってえな!」
「お前の方が力入ってたぞ」
「このクソ虎が」
「哲」
「ああ?」
「……ここへのキスは、どういう意味かって言うとな」
「何だよ」
「——お願い、だ」
「……お前は質が悪すぎる。俺の人生から締め出したほうがいい気がして来た。猛烈に」
「まあ、そう言うな」
「いや、かなり本気でそう思うぜ、俺は」
「思うのは勝手だ」
「だろ?」
「思うのは、な」

 

【百科事典】 Encyclopedia
幅広い分野の知識を、簡潔にまとめたもの。主に言葉と用法を解説する辞典とは異なり、写真や図を用いて総合的な解説を行う。

「むかつくな、てめえ」
「むかつくのもどうぞ、ご自由に」
「おい」
「ん?」
「右と左に意味の違いはあんのか」
「さあ? あったとしても知らんが、ないんじゃないか? 両方したいだけだ」
「適当だな」
「俺は百科事典じゃないからな。都合のいいことしか知らないし、覚えてない」
「何を」
「“お願い”してるかって?」
「……」
「さあな。俺にも分からん。取り敢えずは殴らないでくれ、と」
「必ずしも願いが叶うとは限らねえぞ」
「知ってるよ。なるべくいい子にしてお願いするさ」
「そりゃクリスマスだろうが」
「欲しいものがあるんだ」
「誰にだってあるだろ」
「願えば叶うのか、お前知ってるか」
「さあな。知らねえよ」
「無駄な努力かも知れんがね」
「じゃあ潔く諦めろ」
「手に入らないのがまたいいんだよ」
「変態め」
「お前が欲しい」
「前に聞いた」
「お願いだ」
「勝手に願え。知ったことか」
「そうだろうな」
「いい加減に手ぇ放せ、秋野」
「……お願いしといて損はない。だろう?」

 

10.ありがとう

 英治の墓前には、既に花が供えてあった。喜美子か寛子が来て行ったのだろう。簡素な灰色の墓石に薄紫の花がよく映えていた。仏花にしては寂しげな色合いの可憐な花が、風にそよいで花びらを震わせる。青と紫、そして白。墓前の花は華やかな色が選ばれる。寂しげに見えては悲しすぎるからなのだろう。
 しかし、祖父に華やかなものは似合わないし、花の色の寂しさに悲しみに暮れるものもいない。喜美子か寛子か、どっちが選んだか知らないが、なかなかいい趣味だと思う。

 今年は特に法要もない。やったところで来るのは丁度片手の指で足りるくらいの人数で、死んだ祖父も別に喜びはしないだろう。大体が、満二年でやるべき三回忌を故意に三年まで持ち越したくらいだ。佐崎家の祖父に対するわだかまりは、存外根が深い。墓に入れてもらえただけでも幸運なのかも知れなかった。
 カラスが荒らすので、供え物の放置は禁止されている。哲も手ぶらでやって来た。カップ酒でも持って来ようかとも思ったが、置いていった所でどうせ誰かが持ち去るだけだ。死んだ祖父が飲めるわけでもないし、そんな行為に意義を見出すほど細やかな情緒を持ち合わせているわけでもない。
 どうせ風に吹き消される蝋燭を一応点し、墓の前で煙草を銜えた。線香も煙草も、手向けるという意味が同じならばどちらでもいいだろう。祖父の墓に纏わりつく煙を眺めながら、哲はぼんやりと風に髪を揺らしていた。

「今日はじいさんの命日か」
 川端のだみ声を聞きながら、安物のソファに腰掛ける。大して体重があるわけでもない哲が座ってもスプリングが悲鳴を上げる代物で、いい加減寿命が近い。
「ああ。もう四年」
「早いもんだな」
「ああ」
 川端は珍しく書類らしきものと格闘しつつ、哲の方へ目をやった。
「そういや最近結構いい部屋に空きが出たぞ。お前、移るか?」
「いいよ、面倒臭え。別に今のとこ不満はねえよ」
 哲の住む古いアパートは川端の会社が仲介している。入居して結構経つが、元々屋根さえあればどんな家でも構わないと思っているから、引越し自体が面倒だ。
「ならいいけどな。……あのなあ」
「ああ?」
 川端は何度か口を開いたり閉じたり不審な動きを繰り返し、手の中のボールペンを回したり止めたりしてやっとそれを机に置いた。
「俺は、言うなって言われたことは言わないんだ」
「何?」
「だから、普通は口止めされたら言わないんだよ。けどなあ、こういうのはそれでも言っておいた方がいいよなあ」
「だからなんだよ、おっさん」
 強い毛の生えた指で頭を掻くと、川端は溜息を吐いた。
「昨日仕入屋が来てったんだよ」

 

 秋野の部屋は、相変わらずの物のなさだ。そういえば、一年前に三回忌の帰りに立ち寄った時にも同じことを思った気がする。確か、自分が投げ出した喪服がやけにだらしなく見えたような気がしたのではなかったか。
「よう」
 秋野はいつもと同じ顔で哲を迎えた。
「今川端のおっさんとこ寄って来たんだけどよ」
 秋野が眉間に皺を寄せて小さく唸った。
「……口が堅いと踏んでたんだがな」
「普段はな」
 哲は秋野の前に立つと、その顔を見下ろした。川端が哲に教えたのは、口止めするまでもないような小さなことだ。秋野が川端の所に来て、佐崎の墓のある場所を聞いた、ただそれだけ。川端がそこから何を読み取ったのかは知らないが、困ったような顔をして哲に言った。
「何で知りたかったのかは知らんけどな。理由が何にせよ、俺が言わなきゃ言うつもりがないんだろう、あの男は。けどなあ、お前さんが知らないままってのが何だか嫌というか、あの男が可哀相と言うか」

 

「あの花はお前か?」
 哲の低い声に、秋野が仕方ないと言ったふうに頷いた。
「何で」
 無表情な哲の問いに、秋野は肩を竦めて煙草を銜えた。
「さあ。お前の大事なじいさんだから」
 だから何だ、と言った風情の秋野の口から、白い煙が吐き出された。哲自身、どう思えばいいのかいまいちよく分からない。余計なことだと思いもするし、あの花の佇まいを思い出してなぜだか胸が詰まるような思いもある。
 好かれているとも愛されているとも思いはしないが、理解されているという感覚は強烈に存在し、それに対する苛立ちもまた本物だった。
 格段に増えた抱き合い傷つけ合う回数も、根本を変えるものではないにせよ。
 秋野に向かう感情や関心の色合いはいっかな変質しない代わりに、身体に占めるその男の割合の微妙な増分がやけに生々しく感じられるのは一体なぜか、我が事ながら、哲にはどうにも分からない。
「——ありがとう」

 哲の呟きに、秋野が軽く目を瞠った。
「……初めて聞いた気がする」
「何が」
「だから、」
「俺だって礼を言うべき時くらい弁えてる」
 秋野が、口の端を曲げて笑った。銜えた煙草を手で挟み、伸ばした手で哲の指の先に触れた。払い除けると喉の奥で低い笑い声を上げる。
 肩口を蹴り飛ばしても、秋野は目を細めたままだった。
「たまに礼を言われるのも悪くないな」
「お前は日ごろの行いが悪ぃから聞けねえんだよ。それに」
 片眉を上げて見上げてくる薄茶の眼差し。食い殺されそうなその視線に身内に熾る数々の衝動。この目の持ち主を愛しく思う日はきっといつまでも来ないだろう。
 それでも、こいつを知らぬままの人生より、歪んでいても今あるそれは上等だと、言ってやる気は毛頭ない。
「行いが悪いくらいが丁度いい」
 吐き捨てた哲の言葉に凶悪な笑みで応えながら、秋野は獣のように喉を鳴らす。黄色く光る双眸を一瞥し、哲は秋野に背を向けた。馴れ合う気はどこにもない。そんな温いものが欲しいわけでは決してない。

 

 後ろ手に閉めた扉の向こう、秋野の気配は動かない。哲は思わず口の端を吊り上げながら階段を降りる。
 俺を欲しがってせいぜい足掻けと、哲は冷めた頭で思う。くれてやる気はまったくないが、噛み付くくらいは許してやろう。感謝するのはお前のほうだ。
 礼など二度と言うものか。