2006年 バレンタインデー仕入屋錠前屋

「さあ、では、皆さんにお聞きします! バレンタインの定番は?」

 

「……チョコレートだろう」
「他になんかあんのかよ」
「プレゼント?」
「ああ、ネクタイとか、何とか」
「あたしをプレゼントするわ、なんつってな」
「気持ち悪ぃからやめろ……」
「最近は酒も多いらしいよな、甘いもの食えない男に贈るのにさ」
「どうせ貰うならそっちのがありがてえよな」
 甘さとは程遠い、いがらっぽい煙が部屋に充満している。テレビでは、定番のシチュエーションはっ、とやけに勢い込んだ司会者がゲスト芸能人にフリップとマジックを持たせて叫んでいる。

 

「シチュエーションって?」
「さあ」
「あー、なるほどね、フレンチとか行くのか。まあそう言われりゃ」
「女ってほんと横文字のメニューに弱えよな。メニューも読めねえのによく何食ってるかわかると思うぜ」
「お前が読めないだけなんじゃないのか」
「うるせえよ、どうせ俺は馬鹿だよ」
「そんなこと言ってな——ああ、チョコ食ってキスして、君のクチビルは甘い、ってか。ありがちだな」
「気障ったらしいな。ぞっとしねえか? そんな男で本当にいいのか俺は聞きてえ、全国の女子供の皆様に」
「何で子供が入ってるんだよ」
 一杯になった灰皿に舌打ちして哲が立ち上がった。意外と几帳面にビニール袋に吸殻を入れ、ティッシュで拭って戻ってくる。乱暴にテーブルの上に戻すと、灰皿の縁で長くなった灰を払った。
 次々と発表されていく答えは、どれも目新しくはない。

 

「で? 今日がバレンタイン?」
「哲、お前なあ……。まだだよ、まだ」
「曜日感覚はあるけど日にちはすぐ忘れんだよ、俺は」
「誰かくれないのか、チョコレート」
「貰ってもほとんど食わねえし、要らねえよ。言えばくれそうなのはいるけどな」
「ふうん」
「お前貰ったら悪いから、とか言って食うほうか?」
「いや、食わん」
「——見かけの割りに意外と冷血だからな」
「うるさいよ」
 哲は短くなった煙草を揉み消した。少し薄れた煙がゆらゆらと漂っている。照明が当たった部分だけ、妙に浮き上がってはっきり見えた。まるで手を伸ばせばつかめそうな質感を伴って。

 

「お前知ってた、これ」
「知らねえ」
「軍隊を強くするのに結婚させないって、意味がよくわからんな」
「ローマ人の考えることはわからん」
「ローマ人と知り合いなのか」
「近所には住んでねえ」
「……お前がわからん」
「俺だってお前の考えてることはよくわかんねえよ」
「そういう意味じゃない」
「わかってるよ、馬鹿」
「どっちなんだ」
「るせえなあ、黙って聞いとけ、バレンタインデーの由来。テストに出るぞ」
 秋野はわざとらしく、煙と一緒に大きな溜息を吐いた。哲は隣の秋野の脛を軽く蹴飛ばし、尻をずらしてソファに深く沈みこむ。秋野にそう言いながら、哲はテレビの声を半分以上聞いていない。

 

「由来もバレンタインデーも別にどうでもいいんだが」
「じゃあ消せば」
「見てない?」
「見てねえよ」
 秋野がリモコンを手にとったが、思い直したのか音量を絞るだけに留めた。司会者は下らない質問を次々と繰り出し、芸能人のバレンタインの思い出を執拗に聞き出している。台本どおりなのかアドリブなのか、それは視聴者には分からない。

 

「結婚しなくたって、好きな女がいたら心が残るのは同じ気がするがねえ」
「——ああ、今の話か? ガキができねえだけいいってことじゃねえの」
「結婚しなくたって子供は作れる」
「知らねえよ、何でもいいわ、ローマ人は」
「——ローマ人な」
「何だよ」
「いや、お前がローマ人とか言うと何か物凄く違和感があるんだが」
「アメリカ人イギリス人ドイツ人フランス人スペイン人」
「……そうでもない」
「ローマ人」
「やっぱりおかしい」
「悪かったな、ローマ人が似合わなくてよ」
 哲は仏頂面でテーブルの上に両足を乗せた。灰皿が踵に触れて少しずれる。秋野が左手を伸ばして灰皿を引き寄せ、煙草を押し付けた。細く真っ直ぐな煙が上がる。

 

「本当に似合わないな」
「しつこいな、お前。じゃあ何なら似合うんだよ」
「悪態」
「くそったれ」
「ほら、似合うだろう」
「にやにやすんな、馬鹿」
「あと、」
「ああ?」
「俺の名前」
 秋野は、薄く揺らめく煙の向こうで薄茶の目を哲に向けた。

 

「お前、処置なしだな。病院行け、病院」
「そうか?」
「そうだろ」
「呼べよ」
「ああ? 救急車?」
「違う、俺の名前」
「嫌なこった」
「なぜ?」
「別に」
「呼んでくれ」
「知るか」
「哲」
「死ね、クソ虎が」
 不機嫌そうな哲の低い声に、秋野はおかしそうに笑った。哲と同じようにしてテーブルに足を上げる。
 テレビには有名ブランドのチョコレートが次々と映し出されていく。これはスイスからご紹介する、日本初登場のブランドです! うわ~、可愛いですねえ! これは彼氏にあげるのは勿体ない!

 

「甘ったるいのは死ぬほど嫌いだ」
 哲が不意に呟いた。
「吐き気がする」
「そうだな」
 同感だ、と肩を竦めた秋野の足を、哲の足が思い切り蹴飛ばした。勢いで灰皿が床に落ち、二本の吸殻と灰がそこいら中に飛び散った。

 

 

 

 

 

「秋野」

 

 哲の低く苛立たしげな声がそう呟く。

 

 秋野は獲物を見つけた虎のように、前を見たままにたりと笑う。
 哲はその笑顔を横目で眺め、床に落ちた灰皿をもう一度蹴飛ばした。