10,000打御礼 01-05

01.オーヴァードーズ

 いつになく、ひどくしつこいセックスに、哲は息も絶え絶えだった。今日は特別に不機嫌な仕入屋は、殴っても蹴っても噛み付いてもまるで意に介さない。切れた唇に赤い血の塊をこびりつかせたそのままに、粘着質なやり方で哲を追い込み、容赦なく突き落とす。
 快感を与えられて不満を感じるというのもおかしな話なのかもしれないが、事実なのだから仕方がない。大していいとも思えない、喧嘩の延長のようないつもの行為のほうが好きだった。
 無理矢理鋭敏にさせられた神経を引き千切るように刺激してくる秋野のすべてに対し、とにかく猛烈に腹が立つ。
 不機嫌なのは勝手だが、八つ当たりもいい加減にして欲しかった。秋野がここ何日か溜め込んだ心配と苛立ちと怒りの澱が舞い上がったのは、確かに哲のせいには違いないが。

「エリももう子供じゃねえんだからよ」
 歩きながら言った言葉に、秋野の背中が強張った。先ほど蹴飛ばしてやった背中は、振り向かない顔より雄弁にその内心を映している。
「いちいちうるさく口出すな、お前も。エリの人生はエリのもんだろ。あれは、心配ねえよ」
 揶揄したわけでも、知った振りをして説教したわけでも何でもない。秋野がよくよく分かっていることを言ってやったというだけで、普段なら、皮肉に笑うか黙り込むか、それだけのことだった。
 立ち止まった秋野が白い顔を振り向けた。黄色くぎらつく目が忌々しげに眇められ、そこには自嘲と憤怒と、そして暴力的な何かが垣間見えた。

 

 腕を掴まれ、引き摺られるようにして秋野のアパートの階段を昇らされる。蹴り飛ばしても無視され、振り払おうにも見た目を裏切る馬鹿力には勝てなかった。
 食べに行くはずの夕飯のことすら忘れられ、叩きつけるように床の上に転がされて、のしかかる大きな獣に喰らいつかれた。

 手にも足にも、まるで力が入らない。あらゆる骨が、床と秋野の間で軋みを上げる。何度もいかされ、際限なく責め立てられて、食いしばった顎も重かった。
「と……」
「——何だ?」
「年寄り……のくせに、いい加減に、しろ……」
 無理矢理吐き出すと、秋野は冷たい笑みを浮かべた。顔の筋肉だけが笑顔の形に歪められ、目はひとつも笑んでいない。苛立ちに顔色を失い、据わった目は残忍だった。
 角度を変えて擦り上げられ、はらわたが煮えくり返るような怒りとそして快感に、腹の上の男を喚きながら思い切り刺したくなる。今手の届く所に刃物があったなら、本気でやってやっただろう。
 しかし、当然ながら人生は思うようにはならないものだ。剥き出しの床の上に刃物などあるわけもなく、刺されているのは秋野ではなく自分のほうだ。
 濡れた部分に、暖房すらつけないままの空気が冷たい。鳥肌は冷気のせいか、気味の悪いほど執拗な秋野の愛撫のせいなのか、朦朧としてつかめない。
「……っ、……死ぬ……」
 眼球が裏返りそうな赤熱した感覚の中、詰まる息の合間から必死の思いで絞り出した弱音は、悔しいことに本心だった。
 揺さぶられ、その合間にあらゆるところに歯を立てられて、秋野の顔が霞んで見えた。擦り上げられるその度に、背骨が折れそうな錯覚を覚える。滲む冷や汗がこめかみを伝い、ざらつく舌で掬い取られた。
「死ねばいい」
 熱く湿った秋野の息が、耳の中に吹き込まれる。
「そうすりゃ今すぐ食ってやる……」
 見た目ほどは余裕のない秋野の声に自分が吐いたはずの文句は、意識の外へ放り出された。
 度を超えた興奮に充血するのは、何も一箇所に限ったことではない。脳も、脊髄も、身体のすべてが。過剰なほどの快楽に吐き気すら覚え、心の底から秋野を呪った。
 勢い良く巡る血の流れに、何もかもが無意味になる。堪らず飛んだ意識の片隅で、秋野の低い悪罵を聞いた。

 

02.ずるいのは

 俺の右手の爪を切り刻みながら、秋野は煙草をふかしている。
 いつもは十センチ高い所にあって余り見ることのない頭頂部がすぐそこにある。禿げの兆候でもあれば何かと楽しいことになりそうなのに、残念ながらそんなものはまるでない。
 きっとこいつは死ぬまで禿げたりしねえんだろう。細胞の一つから染色体の一本まで、人に弱みを握らせるような構造をしちゃいないに違いない。

 

 三日前に左手の親指を突き指した。用事があって仕方なく混みあう電車に乗ったら、横に立っていた親父がカーブでよろけて倒れこんできやがった。支えるのにドアに手を突いたのはよかったが、おかしな具合にぶつけたのだ。左手なので日常生活に不便はないが、爪を切るには痛みが辛くて腰が引けた。
 右手だけ伸びた俺の爪を目敏く見つけた馬鹿男は何も言わずに目の前に座り込み、ぞんざいな手つきで作業を進める。ぱちぱちと、硬い音が部屋に響いた。
 歯の間に銜えた煙草。間近に揺らめく紫煙が目に沁みた。崩れ落ちた灰を、反射的に左の掌を差し出して受け止めると、秋野が不機嫌な唸りを上げた。
「馬鹿、火傷するぞ」
「熱くねえよ」
 実際、火はほとんど消えていた。一瞬ちくりとした熱さを感じはしたが、火の粉が飛び散った程度にすぎない。秋野が差し出す灰皿に掌の灰を落とす。秋野は煙草を消して俺の手を掴み、ティッシュで拭うと真剣な顔で矯めつ眇めつした。
「気をつけろ。大事な手だろうが」
「まあな」
「錠前をいじれないお前に何の価値がある」
 低い声で容赦なく指摘すると、薄茶の目が俺を睨んだ。至極ご尤も、だ。肩を竦める俺に溜息を吐き、秋野はやおら掌に唇を押し当てた。ゆっくりとしたその動作は、毎度のことだが大型の捕食動物に酷似している。
「触んな」
「黙れ」
「途中だろうが、爪が」
 忘れられた俺の右手は、薬指と小指の爪が長いままだ。すべてが長いならそれでいいが、二本だけというのはどうにも落ち着かない。他の事はどうでもいいが、仕事柄、指先のバランスに関しては神経質にならざるを得ない。
 殴ってやろうと右手を握り締めたが、秋野は素早く顔を離した。
「切ってほしけりゃ黙ってろと言ってる」
「……いらねえよ、切らなくたって死にゃしねえ」
 秋野が頬を緩め、僅かに片方の眉を上げた。開こうとした唇が、俺の視線に気付いて可笑しそうに曲げられた。
 畜生、死ね虎男。
 お前がすべて分かって言っていることくらい、指摘されるまでもなく知っている。どうせわざと残した二本分の爪の長さ。それが俺を苛立たせることもすべて承知だって言うんだろう。狡猾な動物ほど、手に負えないものはない。

 

 引き寄せた首元、襟首の中に手を突っ込んで、力の限り掻き毟ってやった。薬指と小指、長いままの俺の爪が、秋野の皮膚を抉り取る。ざまあ見ろ。くぐもった秋野の唸りに気をよくし、離れた顔に目を開く。眼前の顔は満足げに口の端を歪めていて、俺は大きく舌打ちをした。ずるいとか、質が悪いとか。
 その言葉は、この男のためにある。

 

03.灰と夕陽

 仲違いらしい仲違いなど、したことがない。そもそも仲が良い訳ではないから、仲違いと言う言葉自体がしっくり当てはまりはしないのだが。
 あの遠慮会釈ない物言いや自分を大事にしない行動に腹を立てたことは何度もあるが、哲が俺に腹を立てることは殆どなかった。それは要するにどうでもいいからであって、一時的に苛立ちはしても、あいつの脳内に俺の存在が残像を残す時間はごく短いということらしい。
 それに生来のはっきりした性格が合わさって何につけ引き摺らない哲は、一日経てばすべて忘れると言ってもいい。それが今回は二週間になる。驚異的な長さだった。
 電話は完全に無視され、顔を合わせる機会もない。巧妙にずらされた生活時間に、悔しいことに俺は振り回されてばかりだ。

 

 事の発端は、俺の仕事だ。質の悪い相手との取引で刺されたのは俺の失態だし、詰られても構わない。一週間ほど走ることは出来なかったが、そんなことなら前にもあった。
「阿呆」
 冷たく言い放った哲は、足の一本くらい失くしたって死にはしないと言わんばかりの表情だった。
「お前は懲りるってことを知らねえな」
 数年前のことを言っているのは分かったが、敢えて分からない振りをする。また蒸し返されても面倒だし、あの時の哲の状態を思い出すのは今でも心臓に悪い。
「俺のせいじゃない……というわけでもないが、まあ、これで済んでよかったと言えばよかったんだ」
 哲は嫌そうな顔をして銜えた煙草を揺らしたが、何も言いはしなかった。最近伸びすぎの前髪の後ろで、険しい目が俺の腿の怪我の辺りを睨んでいる。
「死ね、馬鹿が」
 いつもの台詞に、俺は思わず笑ってしまった。
「死んだら灰にして撒いてくれ」
 反射的に返した軽口に乗せた本音に、哲が気付くわけはないと思いながら。
「全部砕けよ。残った欠片も。それで適当にばら撒いてくれりゃ」
 決して哲を軽く見たわけではなかった。ただ、鼻で笑われそれで話が終わると思っただけだった。哲の拳が顎に入ってもんどり打って倒れても、何故殴られたか分からなかった。
 刺された傷にほんの僅かの躊躇いもない哲の踵が打ちおろされた。言いようのない衝撃に一言もなく蹲る俺をその場に残して哲は消え、それ以来会えないでいる。

「馬鹿だね」
 耀司は呆れたように溜息を吐いた。
「秋野が死ぬ話なんかされて、哲がいい気持ちするわけないじゃん」
 大事な人の死ぬ話なんて、と耀司は付け足したが、俺はそうは思わない。第一哲が俺を大事と思っているとは考えにくい。
 以前、俺が死んだら泣くかと訊いたら、言下に否定されたことがある。そして多分それは今も変わっていない。何年経っても哲は哲で、変わったところはまるでないと言っても間違いではなかった。まさか本気で死んで欲しいと思ってはいないだろうが、それは人として当たり前だろう。
 哲は事あるごとに死ねと言うが、それが本気でないことくらい、そして俺以外には言わないことくらいは分かっている。別に自分が特別だとか言う気はなくて、単に言っても気にしない相手に対する挨拶でしかないのだろう。
 相変わらず自分の理解しやすい方向に意図的に勘違いした耀司は、哲に連絡取るよ、と笑みを見せた。
「秋野が謝りたがってるって聞けば哲だって会ってくれるでしょ」
「——別に謝ることなんか何もないが」
 呟きを無視して一人頷く耀司は、さっさと携帯電話を手に取った。

 

 ソファの上にふんぞり返った哲がいつ来たのか、俺には分かるはずもない。合鍵など渡していないが、錠前屋がそんなものを必要としたことはない。別に怒っているようにも見えない哲は、俺を見上げると興味なさげに目を逸らした。
「哲」
 名前を呼ぶと、面倒臭そうに目を動かす。右手に挟んだ煙草は長いが、灰皿には何本もの吸殻が溜まっていた。
「俺はお前の灰なんか撒かねえぞ」
 不意に哲が吐き出した。忌々しげにざらついた低音には、やはり耀司の言ったような感情は見当たらない。
「——知ってるよ。冗談だ」
「嘘吐け」
 切り捨てるように否定され、苦笑するしかない。
「俺は別に」
 哲が唸り声で続く言葉を遮った。いつもの仏頂面とはまた違う不機嫌な顔が、まっすぐに俺を見る。
「俺はお前の死んだ後を引き受ける気はねえ。お前が俺をどう思おうが勝手だし知ったこっちゃねえが、後始末を俺に押し付けるな」
 煙草を灰皿に押し付けると立ち上がり、哲は間近に詰め寄ってきた。思わず一歩下がった俺の鼻先に噛み付かんばかりに顔を寄せ、哲は歯の間から軋るような声を出す。
「お前の焼けた頭蓋骨になんざ興味ねえ。死んだら終わりだ、くそったれ」

 低く凄みのある声でそれだけ言うと、哲は叩きつけるように扉を閉めて出て行った。
 夕陽に煌く白い灰は、さぞや美しいだろう。汚穢に塗れた俺の砕けた骨でさえ。
 どうせ死んで灰になるなら、哲にばら撒いて欲しかった。骨壷などご免こうむる。ぶちまけて、足で踏みつけたって構わない。跡形もなくしてほしい、ただそれだけだったのに。
 哲の出て行ったドアを多分うつけた顔で眺めながら、俺は情けない笑いを漏らした。
 哲の要求はいつも厳しい。死んでも泣かない、おまけに骨も拾わない。鼓動の止まったその瞬間、俺のすべてに意味がなくなると、お前は残酷にもそう言うのか。
 溜息を吐きながら、靴を履いた。まだその辺を歩いているはずの、哲の背中を追うために。

 

05.顧みる価値を持ってこそ

「来い、哲」
 埃っぽい風の吹く中、背後から奴は呼ぶ。
 命令されるのは、死ぬほどむかつく。だからと言って卑屈に下手に出られるのも、それ以上に好きじゃない。ついて来て欲しけりゃ、それだけの何かを示せばいい。

 

「そんな怪我でうろうろするな。人に見られたら何かと思われる」
「うるせえ。てめえの知ったことか」
 確かに、目に血が入って視界が赤い。大した怪我ではないものの、皮の突っ張った頭の傷は本来の程度より大袈裟に流血する。元はと言えばお前の持って来た仕事のせいだと詰ってやるのもいいだろう。だが、やりたくてやったことは事実だし、実際こいつは止めたのだ。
「哲」
 甘やかされるのは好きじゃない。いちいち心配されるのも。
 例えこいつにその気があろうがなかろうが、こんな傷の一つや二つで誰かの世話になる気はない。

 

 手の甲で目を擦ると、黒っぽい色がついた。恐らく赤いはずのそれは、闇の中では黒く見える。

「こっち向け、哲」
 しつこい声に、苛立ちながら足を止めた。さっさと帰って顔でも洗えば済むものを、過保護なのか心配性なのか、余計なお世話にも程がある。
「心配されるほどの怪我じゃねえんだよ、うるせえな。お前は俺の親か、喧しい」
「そうじゃない」
 意外なことに、肩越しにちらりと見えたクソ男は笑っている。手の中の何かを愛でるかのように、薄茶の目を光らせて。

 

 一体何を笑いやがる。
 心配とは程遠い、傲慢なにやけた面。削げた頬を歪めて、髪を風に乱しながら。シャツの裾をはためかせ砂塵を巻き上げ吹き付ける風に、奴は益々目を細めた。

 

「おいで」

 

 丁度いい低音の、子供を呼ぶようなその言葉に立ち止まって振り返る。なぜそうするかは、面倒だから考えない。

 

「おいで、哲」

 

 秋野が手を差し伸べる。他の誰かが見たとしたら、きっと微笑んで見えるのだろう。顎を伝って襟元に落ちる血の滴に、舌なめずりせんばかりの痩せた虎の歪んだ笑顔。
 だが、歩み寄ってやる義理はない。振り返ってやっただけ、有り難いと思えばいい。
 苦笑らしきものを浮かべた後、長い脚がゆっくり動いて歩を進めた。顎を這う舌の動き。子供をあやすように、優しげに。獲物の血を啜る動物のように、満足げに。

 あと何秒かは許してやってもいいだろう。俺の足を止めたこいつに、それくらいの価値はある。そういうことだ。