拍手お礼 Ver.17

Ver.17

「あー女とやりてえな」
 口を開くなりどうしようもないことを言って、哲は秋野の隣に腰を下ろした。
 確か哲より三つ程若いバーテンダーは苦笑しつつ、哲の注文した酒をグラスに注ぐ。
「佐崎さん、いきなり何っすか」
「そういう時ない?」
「そういう時?」
「別に理由はないんだけどムラムラする時」
「そりゃあありますけど」
 哲の前に酒を置くと、バーテンダーは向こう端の客に呼ばれて離れて行った。
「言っとくが、俺は今日はとてもそんな気にならんからな」
「ぁあ?」
 哲が語尾を品なく上げて眉を寄せる。
「誰がてめえとするっつった、くそったれが」
「違うのか」
「女とやりてえって言ったんだよ、お、ん、な、と」
「何だ、遠回しなお誘いかと思った」
「俺は遠回しには誘わねえんだよ、馬鹿」
 誘うなら直截的な表現を使うということか、それとも誘うこと自体しないということか。
 そこは面倒くさいので確認せず、秋野はふうん、と言うに止めた。
「そりゃ残念」
「ちっとも残念そうじゃねえだろ、その言い方」
「残念だよ。ものすごぉーく」
「わざとらしく伸ばすな」
 哲がカウンターの下で秋野の脚を蹴っ飛ばした。足が出るのは分かっていたが、正直避ける元気もない。
 蹴られて上体がゆらりと傾く。哲が秋野を横目で見て、訝しそうな顔をした。
「何だよ。疲れてんな」
「ああ、四日で二時間しか寝てない」
「死ぬんじゃねえの、そのうち」
「死んだらせめて泣いてくれ」
「死んでもご免だ。眠いなら早く帰りゃいいだろ。何やってんだよ」
 バイト後を見計らってかけた秋野の電話で呼び出された哲は呆れた顔で秋野を見やる。寝不足のせいで痛いというよりは変に重い頭を振って、秋野は掌で顔を擦った。
「一時間後にここで人と会う約束があるんだ。どうしても起きてなきゃならんから、付き合ってくれ。気を抜いたら前に倒れそうだ」
「仕事か?」
「そうでなきゃ帰って寝てるよ」
 哲はあからさまに面倒くさそうな顔をしたが、一時間くらいなら付き合ってもいいと思ったのか席を立つことはしなかった。
「で?」
 訊ねると、哲がこちらを向いた。カウンターに肘をつき、掌で額を支えているから実際には見えないのだが、気配がした。
「何」
「だから、女とやりたいって?」
「それが何」
「どんな女?」
 別に哲がどんなお姉ちゃんとやろうがどうでもいいが、何か喋っていないと寝てしまいそうになる。
「関係ねえだろ」
「寝そうなんだよ。他にもっと面白い話題があればそっちにしてくれ」
 マッチを擦る音がしたと思って顔を上げると、哲が煙草に火を点けていた。リンの香りにか、目を細めた哲はゆっくりと煙を吐き出した。
「すっげえやらしい女と下品なセックスしてえな、と思っただけだ」
 言っている内容の割に、哲の顔は相変わらずの仏頂面だ。
「誰かいないのか、連絡取れそうなやらしい女は」
「真顔で言うな、つまんねえから」
 それこそつまらなさそうに言い、哲は鼻から煙を吐いた。
 そういえばこいつは最近女を抱いているのだろうかとふと思ったが、そんなことは秋野が関知することではない。哲は秋野の恋人ではない。お互いが目の前にいない時は、お互い好きにすればいいことだ。

 秋野が用を足して戻ってきたときには、哲は何本目かの煙草を吸い終え、二杯目のグラスを空にしたところだった。
「そろそろ時間か?」
 哲が煙草を銜えたまま秋野を見上げた。
「ああ」
「じゃあ帰る」
 煙草を灰皿に放り込み、酒の代金なのか、数枚の札を秋野の手に押し付けて哲はさっさといなくなった。

 

 

 暗闇にドアを蹴る音が響いたが、どうせ哲だろうと思って秋野はゆっくりベッドから這い出した。電気を点けて時計を見ると、ようやくベッドに潜り込んでまだ五分と経っていない。
 鍵を開けるなり飛び込んできた哲は何やら血相を変えていた。
「ちょっ、おま、あれ、な!?」
「……今寝たばっかりなんだけどな」
「知るかっ! てか一体何だあれっ」
「何が」
 分かっていたが、欠伸を噛み殺しながら訊いてみる。哲はまるで親の敵のように秋野の顔を睨みつけた。
「すっとぼけんな!! てめえだろうが、あの女っ」
「ああ」
 先程バーで用を足したついでに電話をしてあったのだ。
「ああ、じゃねえよ!!」
 秋野は閉じそうになる目をしばたたき、哲を上から下まで改めて眺めた。
 だらしなく着たシャツは、ボタンが真ん中三つしか嵌められていないし、シャツの下には何も着ていない。哲が素肌にシャツを着るのはその辺にそれしかない時——セックスの後とか、風呂上がりとか——に限られ、そのまま外出することはまずないと言っていい。ということは、余程慌てて飛び出してきたのか。
 鎖骨の辺りに薄らとついているのは、キスマークだ。鬱血ではなく、口紅の痕という意味でのキスマーク。
 しかし、色っぽい話を想像させるそんな格好のわりに、本人の顔は非常に険しい。
「気に入らなかったのか」
「だから、何が、何で!?」
 珍しく落ち着きがない哲が喚く。
「アカネ——って、源氏名だけどな、アカネならプロだから後腐れなくていいだろ。おまけに美人で胸もでかいんだぞ。病気も持ってないしクスリもやってない。文句あるか? 俺の小さな親切を無下にするなよ」
 手を振っておやすみ、と言ってみたが、哲はその場に突っ立っていた。
「客が頼んでねえのに勝手に押し掛けるデリヘルか!? 何なんだ! 大体、俺は女を抱きたいんであって」
「アカネは正真正銘女じゃないのか? 剥いたことはないから知らんが」
「抱きたいんだ、言葉通り! どっちが食われてるかまるっきり分かんねえじゃねえかあれじゃお前!」
 どうやら、アカネが積極的すぎたか、張り切り過ぎてしまったらしい。そういえばアカネが前に入れ上げていて結局他の女に取られた元カレと哲は姿かたちがわりに似ている。
「いきなり入ってきて、人の顔みるなり抱きついて来て押し倒しやがってタケちゃんとかずっと喚いてるしシャツはボタン引きちぎられるわTシャツは何だか知らねえうちに引っぺがされてるわでマジで強姦されるとこだったぞこのくそったれ!!」
 一息にまくしたてる哲のシャツを改めて見ると、ボタンは嵌めていないのではなく、ついていなかった。
 思い切り吹き出した秋野の腹に哲の膝が食い込んだが、秋野は咳き込みながらもまだ笑う。哲が唸り、ローキックを蹴ってきたから笑いながらかわし、腰に腕を回して引っ張り寄せた。
「離せこのクソ虎!!」
「あー、見たかったな。お前が女に強姦されてるとこ」
「されてねえ、未遂だ! 男の沽券に係わるだろうが女にやられたとかっ」
「古いねえ、お前」
 こめかみに血管を浮かせて怒鳴る哲は何故か普段より可愛い——と、秋野の睡眠不足の脳は間違った判断を下した。
 顔を下げ、首筋に思い切り食らいつく。
「痛え!!」
 哲が喚いたが、それこそ鬱血させるほど顎に力を入れて噛み締める。哲が呻き、秋野のTシャツの背をきつく掴んだ。
「仕方ないな、まったく」
「何がだ!」
 もがく哲の腕を掴んで動きを封じ、秋野は哲の耳朶を噛みながら囁いた。
「アカネはお気に召さなかったようだから、俺が代わりに相手になってやる」
「耳の穴かっぽじってよく聞けこの馬鹿男、俺は、女と、やりてえんだよっ!!」
「眠いんだから文句言うなよ」
 眠いのは確かだが、哲をいきり立たせる貴重な機会を逃すくらいなら、五日間眠らないくらいは我慢できる。
 そんな内心が伝わったに違いない。哲は歯を剥いて唸りながら秋野の脛を蹴飛ばした。
「眠いんだろ、さっさと寝ちまえ!」
「お前がうるさいから眼が冴えたんだよ、馬鹿だね」
「寝ろ、いっそこのまま永眠しろ仕入屋!」
 秋野は喉を鳴らして笑い、もう一度哲の耳に齧り付いた。ゆっくりと耳を噛みながら、唇を押しつける。
「黙ってろよ。お望み通り、やらしくて下品な、ついでに眠れなくなるくらいのセックスにしてやるから」
「頼んでねえ!!」
 哲の怒声は、その後暫く秋野の下で響き続けた。