仕入屋錠前屋39 癒される夜 6

「なんか、若返りましたね、佐崎さん」
 服部はそう言って哲の周りをぱたぱたと一周した。
 勤め先の居酒屋のアルバイトである服部は、見かけは今時の若者そのものでありながら、よく躾けられた青年だ。時々酷く無邪気ところを見せ、そんなときは年齢より幼く見える。ピアスを両耳に三つずつぶらさげて金色のひよこのような髪を逆立てているが、今も子供のようににこにこして哲の短くなった髪を見ていた。
「ああ? 知らねえ」
「似合いますよ、いいなあ。俺もそういう感じにしようかな」
 そう言いながら荷物を背負った服部は、お先しますと出て行った。きっちり四十五度のお辞儀は親の躾けの賜物で、店で教えているわけではない。服部が去った後の店内は哲一人で、カウンターの椅子に腰を下ろすとさすがに少し疲れが出た。
 世間様では給料日の金曜日、今日はやたらと忙しかった。いつもより長く店を開け、やっとすべてが終わった後に服部の相手をしたらいささか疲れた。服部は嫌いではないが、あの屈託のなさは幼児を相手にするのに似たところがある。
 髪をかき上げようと手をやって、短くなっていることにまた気付く。最近面倒で伸ばしっぱなしにしていたせいか、一週間近く経った今でも短さに慣れていない。

「……馬鹿みてえに突っ立ってねえで入るなら入れ」
 カウンターに突っ伏したままそう言うと、店の引き戸が開いた音がして、煙草の臭いが流れてきた。我ながら動物のようだと思うが、向こうの発する気配が強烈過ぎるだけかも知れない。秋野はふうん、と小さく声を漏らした。
「短くなったな」
「だから何だ」
「さあ?」
 顔を上げると秋野の顔が無表情に見下ろしている。こうやって店に一人で残っていると、たまに顔を出すことがある。鼻が利くのか偶然なのか、他の人間が残っている時には姿を見せることはない。
「好き勝手に短くしやがって、色入れるっつーのは面倒だから阻止したけどな」
 栄は色も変えようと言い張ったが、昔脱色していたからまめな処理が必要なのはよくわかっていたし、断った。
「それでなくても切る前に余計なことに時間かけやがったからな、あの馬鹿」
「余計なこと?」
 訝しげな秋野の顔を一瞥し、哲は何でもないことのように吐き捨てる。
「高そうなソファだったけどよ、男二人が寝るには向いてねえ」
 表情を変えず立ったままの秋野の頬が、ごく僅かに引き攣った。

 

 栄は煙草仲間だったとは言え、哲ほど悪くはなかった。それは早いうちから高校卒業後美容師になろうと決め、専門学校に入ったことでもよく分かるし、喧嘩とは無縁だったようだ。栄の高校はそれなりにグレた学生もいたものの、煙草や制服で格好をつける程度のものであったらしいのは当時から聞き知っている。だから喧嘩ばかりしていた哲は栄に余り興味がなく、名前も覚えられなかったに違いない。
 さっさと髪を切れと文句を言う哲をソファに押し付け、覆い被さってきた栄の顔はどっちが襲ってるんだと言いたくなるほど泣きそうに歪んでいた。
 殴りつけ押し退けるのは、哲にとって正に赤子の手を捻るのと大差ない。その気になれば明日の朝まで気を失わせて床に転がしておくことなど容易だったが、正直それも億劫だった。
 栄と寝るのは不本意極まりなかったし正直怖気が走ったが、今にも崩れて砕けそうな栄にどこかで同情したのかも知れなかった。繋がりは薄いとはいえ、高校時代の同級生はそれなりに大切なものには違いない。
 秋野と寝るのは、欲望を伴う。それが愛欲や性欲と微妙にずれた、ほとんど食欲に近いなにかであろうとも、手を出されれば払い除けつつこちらから噛み付くような真似もする。
 しかし栄にはその感情のほんの欠片すら抱きはせず、ただ横になっているだけなら別段大騒ぎするようなことでもないと思っただけの話だった。
「……佐崎?」
 栄の声は、どこか違う世界から響いてくるように思えた。ダウンライトが照らす曖昧な影と光。手と口でどうにかこうにか勃たされたが、体内の異物に感じるのは圧迫感と苛立ちでしかない。前の晩にあの獣のような男にいいだけ好きにされた後だけに、栄の優しく労わるような丁寧な愛撫が、尚更緩慢に感じられた。
 結局どちらも最後までいくことは出来ず、身体を退けた栄の腹を蹴飛ばしてやると、栄は困ったような顔をしてぎくしゃくと笑顔を作り、ごめん、と小さく呟いた。

 

 秋野の引き攣った頬が徐々に歪み、それは笑みの形になった。酷くおかしそうに喉を鳴らすと、秋野は深く煙草を吸い込んだ。吐き出された煙は換気扇の作る空気の流れに勢いよく引き込まれていく。
「根性があるじゃないか、遠山の弟だか何だかは」
「何が」
「お前みたいなのをひっくり返そうと思う物好きなんて、俺だけかと思ってたがね」
 哲が無言で差し出した灰皿に、秋野の煙草の灰が払われる。
「あいつはよくわかってねえんだよ、自分のこともそうだが、俺のことも、だ」
 カウンターの木の表面に額を押し付けると、ひんやりとした感覚が心地よかった。哲はその姿勢のまま、隣に立ち、恐らく自分を見下ろしているであろう秋野に向かって、しかし半ば独り言のように吐き出した。
「ただ切るんじゃなくて、客を癒したいんだとさ。いいんじゃねえか? 美容師ってのは、切り刻むだけじゃ意味ねえのかも知れねえよな。それが出来てるのか出来てねえのか、判断つきにくいからあいつは悩んでるらしいが、そんなこた誰にもはっきり分かりゃしねえ」
「癒されたか? お前は」
 秋野の低く深い声は、顔を見ているその時よりも素早く、そして奥底まで浸透する。それは質の悪い薬品か何かによく似ていて、気づいた時には身体に溜まった毒を吐き出す術はない。
「癒される夜だった、って言えばあいつは喜ぶだろうな」
 哲は目を閉じて、栄の顔を思い出した。毒気の抜けた、獰猛さを根こそぎ奪い取った秋野のような栄の顔。こいつが女に見せる顔も、あんなふうに無害だろうか、と不意に思った。
「俺は癒されたくなんかねえ」
 まるで喰らいついて来る唇のように哲を興奮させる秋野の指が、真上から首筋を掴んだ。優しく触れるわけではなく、締め上げるようにして長い指が絡んで来て、痛みを覚えるほどに力を籠める。興奮はする。それはそうだが、同時に煩く感じるのも本心だ。
 持ち上げた右手でそれを払い除けながら、哲はカウンターの木の天板に険悪な声で言い放った。
「誰がそれで満足できるか」

 

「お前のこと、好きだよ」
 髪を切り落としながら、栄は小さく呟いた。しゃきり、と鋏が音を立てる。床屋の親父とは違って、髪を細い毛束に分けながら、複雑な手の動きで切り落とす。主人から切り離された髪の束は空中で分解し、霧雨のように降り注いで床に散った。
「好きになった」
 栄は手だけは機械的に次々と手順を踏んでいきながら、鏡越しに熱っぽい目を哲に向ける。目が合っても表情一つ変えない哲に大いなる落胆と微かな思慕を同時に見せながら、それでも栄は笑ってみせた。
「……好きになるのは勝手だろ?」
「お前が何をどう思おうと俺の知ったことじゃねえ」
「好きなのか?」
 主語が抜けて意味を成さない栄の言葉に目を上げる。言いたいことは何となく分かった。
「別に。つーか、全然」
「——でもちゃんとできるんだろ」
「ああ? あー……、本気で殴り合ってると興奮して勃ちそうになんだろうが。あんな感じ」
「…………実感しにくいな、その例え……」
「そうかよ」
 喋りながらも滑らかに動く栄の手先を見るともなしに見つめながら吐き出す言葉の深い意味など、自分でも考えてはいなかった。
 栄が美容師を続けようが辞めようが、哲を好こうが嫌おうが、それはどこまでも他人の胸のうちであり、知る必要のない腹の底だった。そのうち口を噤んでカットに集中し始めた栄の横顔を鏡の中に見ながら、哲は無意識に掴んだ肘掛を指の腹で軽く擦った。
 栄が誰かを癒したいのなら癒せばいい。他人の気持ちは量れないから、相手が癒されているのか否か、それは栄が気にすることではないし気にした所で無意味なのだ。お前はお前のしたいようにしろと言ってやるのが親切なのかも知れないが、生憎自分は親切とは程遠い所に立っている。
 愛撫するような手つきで髪を梳かれ、それでも哲は身じろぎせずに前を見ていた。ゆっくりと指で撫でる肘掛の硬い感触。砥がれこの腕に突き立つ牙か刃物か何かでなければ払い除けるだけの感情も湧かないと、栄は恐らく知る由もない。
「秋野」
「え?」
 聞き取れないほど低い声で呟かれた三文字に、栄が訝しげに顔を傾け哲を見た。
「それが名前だ」
 栄は、硬い顔で頷いた。
 それほど口に出すことがない名前の響き。単なる音の羅列でありながら、忌々しいほど血を騒がせる何ものか。癒しとは遥か遠くで咆哮するそれを思い、哲はうっすら笑みを刻む。
 しゃきん、と耳元で鳴る金属の音。
 それをあいつの喉元に突きつけて真横に掻っ捌いてやりたいと、肘掛を掴む指をきつく握り締めた。
 顔の脇を滑り落ちて行く髪の束が一房、形を保って床の上にはらりと落ちた。栄が何か呟いたが、はっきりとは聴こえなかった。