仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 1

「佐崎!」
 その声が誰だか一瞬分からなかった。
 要は自分のいい加減さと物覚えの悪さが敗因なのだが、それでもその時一緒にいた川端に腹が立つのはあまりに自分勝手だろうか。
 一瞬後、さっさと歩き去ろうとした哲の後ろで、川端は丁度上着を脱ぎ始めていたところだった。何も今ここで脱がなくてもいいだろうに、暑い暑いと呟きながら、年がら年中着ているよれよれのディオールを小脇に抱えてワイシャツの襟元をいじっている。
「佐崎ってば」
「お? 哲、友達か?」
 とぼけた川端のでかい声に、川端自身はまだかなり後方にいることが分かる。仕方なく振り返ると、川端がやや遠くから哲と栄の顔を見比べていた。
「何だよ、聞こえてるくせに。こんにちは」
 最後の言葉は川端に向け、栄はぺこりと頭を下げた。川端は害のない愛想笑いでそれに応えている。栄はこの間会った時より髪が短くなっている。逆に哲の髪は少し伸びたが、それ程のインターバルがあったわけではなく、正直栄の顔を見るのは面倒だった。
「佐崎の高校の同級生で、伊藤です。はじめまして」
「高校の……。そりゃまた」
 川端は同級生と言う言葉に小さく頷いた。内心、それにしてはまともだ、と付け加えたのが手に取るように分かって、哲は川端の禿頭を睨み付けた。川端は素知らぬ顔でにこにこ笑っており、栄が口に出されない言葉に気付いた様子はなかったが。
「何回も電話したのに、お前全然出ないんだもんな。携帯の意味ないじゃん」
「……別に、話すことねえだろう」
 露骨に面倒臭そうな哲に困ったように微笑んで、栄はちょっと頭を掻いた。

 

 飲み会で再会した高校の同級生は、美容師になっていた。人生の中でもっとも荒れていた時代にほんの少し顔見知りだった程度の男に、哲のほうは特別な感情はない。例え、それが人生の中でそれなりに大切にしている同級生、というやつだったにしても。
 そんな栄に髪を切らせたのは一月と少し前で、最後までいかなかったにせよ、寝たのもその時だった。哲にしてみれば寝た、と言うほどのこともなく、ただ寝転がって別なことを考えていたら終わっていたというくらいのものだ。
 秋野と会う前なら激昂してぶん殴っていたかもしれないが、おかしなところで経験を積んでしまったせいなのか、意外なことにそれ程の一大事とも思えなかった。そもそも男同士で入れたり出したりする行為に、哲自身は何一つ、深い意味を見出せない。
 ただ、決して誰彼なく受け入れられると言うものではない。誰か別の男に同じことをされたら、間違いなく過失致死だか過剰防衛だかでお縄になると断言出来る。だからと言って栄を許容したわけでは決してなく、栄が哲にとっては余りに無害で、殴るほどの価値もなかったというのが、さすがの哲も本人には言えない本当の所だ。
「これから時間、ある?」
「いや、このおっさんと茶飲むんで」
 親指で不躾に指された川端はぎょろ目を剥いて哲を向いた。哲にした所で別に好き好んで川端と差し向かいでお茶したいわけではないが、仕事の話だから仕方がないと言うだけだ。
「おいおい、同級生につれないな」
「うるせえな、あんたに関係ねえだろうが」
「失礼ですが、お仕事関係の方ですか?」
「いやいや、おれはこいつのアパートの仲介業者だよ」
 川端が分厚い掌を顔の前で振ると、栄はちょっと目を瞠った。
「不動産ですか」
「ああ、アパートなんかはあまりやってないんだけどね。企業向けのビルなんかが多くて」
 哲を置き去りにして、二人はそれなりに話を弾ませている。哲が煙草の箱を取り出して銜えた所で栄が嬉しそうな声をあげた。
「うわ、すごいタイミングいいなあ。実は俺、美容師をやってるんですけど、新しく店舗にするところ探してて」
「お、そうなのかい。じゃあ、一緒にどうだい? 実はいい物件があるんだけどね」
 珍しく商売っ気を出した川端にうんざりした溜息を吐き、哲は二人を見もせずに、先に立って歩き出した。

 

「……リニューアルオープン……?」
 特に珍しい言葉でもないが、それは舌の上でやけに収まりが悪い気がする。
 リニューアルもオープンも意味はちゃんと知っているはずなのだが、今秋野の頭の中には、同時にクエスチョンマークも点滅していた。
「そう、新装開店」
「……訳してくれなくてもいい」
「ああ、英語は第二の母国語だっけ。こりゃ失礼」
 手塚の間延びした声は、いつ何処で聞いても呑気な響きを失わない。
「そんなわけだから、今日の夜時間あるなら一緒に行かないか?」
「別にいいけど」
 自室のソファにだらしなく座ってテーブルに両脚を載せるという行儀が悪いことこの上ない格好で、秋野はそう呟いた。
「あの店がリニューアルって……」
 ぶつぶつ呟く秋野に一方的に時間を告げると、手塚は急に切羽詰った口調になって、あたふたと電話を切った。直前に迫力ある女声が漏れ聞こえたから、またあの婦長にどやされたに違いなかった。切れた携帯をソファの端に放り投げると、秋野は店の様子を思い浮かべて首を捻った。新しいモダンな内装にでも変えたのか。そんな店のカウンターに立つ輪島の姿は、どうにも想像が出来なかった。

 紺の暖簾を潜ると、店の中は何一つ変わっているようには見えなかった。立ち止まった秋野の背中の後ろから顔を出した手塚が、素っ頓狂な声を上げる。
「変わってないじゃないか」
 他に客は居なかった。時間が遅めとは言え、いつもとまるで変わらない店内に、手塚が訝しげな声を出す。
「変わったよ、ほら」
 カウンターの中の輪島はにやにやしながら顎でカウンターの下を指した。秋野と手塚は暫し店内を見回して、思わずお互いの顔を見る。手塚が眼鏡の奥の目を眇め、友人の顔をじっと見た。
「…………椅子?」
「そのとおり」
「リニューアル……?」
「なんて言ってないよ、俺は。ただ、立ち呑み屋はやめる、って言っただけ」
 鑿で彫ったようないかつい顔を人のよさそうな笑顔で崩しながら、輪島は楽しげに濡れた手を布巾で拭う。
「何だ、人騒がせな」
 手塚は間の抜けた顔でそう言うと、早速椅子に腰を下ろす。
「それにしても、何で椅子? 何か不都合でもあったの」
 秋野も並んでカウンターに腰を下ろす。輪島は小鉢にきゅうりと蕪の浅漬けを手早くよそいながら、小さな溜息をついた。
「何かって言うほどのことじゃないんだけど、うちのかみさんがさ」
「万理ちゃん元気?」
「ああ、もうどこにあの元気があるのか俺にはわかんない」
 手塚の問いに肩を竦めて輪島は笑う。輪島と手塚は大学の同期で、手塚は輪島の妻の万理を結婚前から知っていると言う。
「あいつがさ、この間ここに来て酔っ払ってぶっ倒れてさ」
 輪島は目を閉じて首を左右に何度も振った。芝居がかった仕草に手塚が大口を開けて笑う。
「立ち呑み屋なんかやってるのが悪い!!——って、こうだよ」
「万理ちゃんらしい」
「で、強制的に立ち呑み屋廃業。倒れたのは椅子がないせいじゃなくて、自分が飲みすぎたからだろって指摘したら、朝飯に俺だけ味噌汁がなかった」
 哀れっぽい輪島の口調に手塚がまた笑い転げ、秋野も思わず吹き出した。
 輪島の妻——事情があって正確には元妻なのだが、事実婚状態だ——の万理は広告代理店の企画担当部長で、かなりのやり手だと聞いたことがある。実際写真で見る限りそんな子供じみた真似をするようにも見えないし、輪島本人からして味噌汁程度でしょげるようには見えないから尚おかしい。
「まあ別にいいんだけどね。常連さんは椅子があろうがなかろうが別に気にしない人ばっかりだし。あ、そうそう、」
 輪島はそう言って秋野に顔を向けた。
「また頼みたいものあるんだけど、リスト渡すな」
「何、薬?」
「あと、包帯とかガーゼ類も少し。そんな大量じゃないから」
「了解」
 立ち呑み屋のビルの上でモグリの医者をやっている男は、にっこりと微笑んだ。