仕入屋錠前屋39 癒される夜 5

 指の力の強さは、その長さに比例するのだろうか。秋野に力の限り腕を掴まれると、いつもそう思う。遠慮会釈なく締め付けてくる指は時折肉の薄い骨ばった手首に痣を残し、それは酷く哲を苛立たせる。
 ぬるりと滑る哲自身に触れながら追い上げる左手と、手首を痛めつける右手。どちらがそれを実行している人間にとって重要な行為なのか。利き手でしているのは一体どちらの行為か、それで答えが分かるような気がする。
「哲」
 短く呼ばれた名前に返事をしてやる義理はなかった。そもそも返答を求められていないことは知っているし、口を開くのも億劫だ。強く突き上げられる度に途切れそうになる意識を意地で両手に握り締めて歯噛みする。噛み締めた奥歯がぎり、と不快な音を立てた。
 確かに最近伸びすぎの髪を鼻先で除け、秋野の舌がぞろりとこめかみを這う。そのまま目蓋の上を辿った舌は頬を通って、哲のそれを絡め取る。
 愛情を確かめ合うという意味合いは皆無だし、もしもあったら気色悪いが、単なる粘膜の探り合いと体液の交換と言う意味では秋野とするキスは悪くない。もっともキスという言葉自体がどうもこの行為とは不釣合いで滑稽だが、何と呼ぼうが男同士の行為そのものが滑稽だし、取り繕ったところで得にもならない。
 柔らかで湿った口腔内は女とのセックスを思い出させる。やはり結局そちらのほうが気持ちがいいし、好きなのだとその度に実感するが、唇を食い千切られ、内臓ごと啜られるような錯覚すら覚えさせるこれはこれで嫌いではない。
「なぜ」
「……あ?」
 上がる息の隙間から秋野の掠れた声が聞こえた。目を開いて聞き返すと、間近にある獣のような色の瞳が眇められた。押し込むようにされると思わず呪いの言葉が唇に上る。気持ちがいいのか悪いのか、それは今もって謎に近い。
「なぜ仕事をするのか、俺は、——俺にもよくわからない」
 何度も繰り返し食いついてくる合間、唇が離れるほんの僅かな時間に、秋野は静かに言葉を紡いだ。荒く、湿っていく息と息の狭間、止みかけた雨の滴のように落ちる呟きは意外なほど平静で、低く響く。
「仕方なく始めたことでもあるし、好きで始めたことでもあるな。最初は銃だった。フィリピン人の知り合いが持ってたルートを俺がそのまま引き継いだ」
 鎖骨の上で発せられる秋野の声が、骨を通じて胸郭に響く。秋野が喋るたびに触れる唇の動きに、首の皮膚が粟立った。
「てめえの過去話なんか寝物語にすんじゃねえ。……鬱陶しい」
 哲が吐き出すと、秋野はくつくつと喉を鳴らした。低い振動に今度は全身に鳥肌が立ち、哲は大きく舌打ちする。動いているのかいないのか、刺激とも言えない緩やかな刺激がもどかしかった。どうせならさっさと終わらせ、腹の上のこの男を蹴り落としてしまいたい。
「口動かしてる暇があったら腰動かせ。いつまでも図々しく人のケツに突っ込んでんじゃねえよ」
「早く終わればいいってもんでもないだろうに」
「ごちゃごちゃ言ってねえでさっさといっちまえ、馬鹿野郎」
「——下品だねえ、相変わらず」
「るせえ、くそったれ。死んじまえ、この虎男」
 半ばやけくそに吐き出した哲の芸のない悪態に、秋野は口を噤んでにたりと笑った。
 自分でそうしろと言った割りに、いざ実行されるとむかっ腹が立つのは何故なのか。悪態を垂れ流しつつ伸ばした腕で秋野の頭をどつきながら、哲はやり場のない怒りと波のように寄せては引く快感に、しわがれた呻きを絞り出した。

 

 仕方なく始めたことでもあり、好きで始めたことでもあるという昨夜の秋野の台詞が耳の奥に甦った。それでも本当に嫌ならあの男がそれを生業にするはずもなく、要は性に合っているのだろう。
 では自分の錠前屋という仕事はどうかと言うと、勿論好きでやっている。それが栄の言う危ない仕事かどうかはいまいち判断つきかねるが、真っ当な職業ではないのは言うまでもないことだ。
「別に、危ないことはしてねえよ。……多分」
 付け加えた最後の一言に眉を上げ、栄はくっきりした二重の目を哲に向けた。眦がやや切れ上がったその目の形が、どことなく秋野を思わせるのかもしれない。
「多分て……、いや、そりゃ会社員で正志さんと知り合いってわけないけど」
 がりがりと頭を掻く栄は、哲の顔を窺うように見ていたが、カップを持ち直してコーヒーを啜った。
「俺さあ、正志さんは好きなんだよな。いい兄さんだよ、ヤクザだけど」
「お前の姉さんとうまくいってなくても?」
 哲が聞くと、栄は首を縦に振った。
「姉ちゃんのほうが悪いからな、どっちか言うと。それは二人の問題だし、俺が口出すこっちゃねえからいいんだ」
 微妙な色の栄の髪が、店のダウンライトに透けて金色に見える。カフェかバーのような雰囲気の木目調の店内は、客がいないせいかやけに広く暗く感じられる。
「仕事、辞めようかと思ってんだ」
 栄は、口調を変えずにそう言った。遠山の話をそのまま続けているのかと思ったが、どうやらそれは自分の仕事のことらしい。吐き出す煙がライトに当たって立体的に見える。手で掴めそうにすら見えるそれは、まるでかすれた雲のように二人の間を漂った。
「好きでやってることじゃねえのか、美容師なんてのは」
「まあね。でも、女の髪切るのも飽きた」
「じゃあ床屋になりゃいい」
 哲が煙草を歯の間に銜えたまま言うと、栄は低く笑ってみせた。目尻に寄る笑い皺が、同じ歳のはずの栄をどこか大人びて見せている。
「そうじゃなくて」
「ヤクザにでも転職するか」
「何で」
 ちょっと目を見開く栄に、遠山が心配していたことを話してやると、栄はおかしそうに笑い声を立てた。雑誌の載ったままのテーブルにカップを置き、掌で顔を擦る。
「正志さん、意外とクソ真面目っていうか。俺がヤクザなんかになれるわけねえじゃん。佐崎のこと聞きたかっただけだよ」
「俺? 何で」
「わかんねえ。久し振りに会ったらすげえ気になったから」
 栄はそう言って立ち上がると、さて、どうする、と呟きながら哲の後ろに回りこんだ。伸びた髪を指先でつまんで、角度を変えて見ている気配が伝わってくる。哲は銜えた煙草を上下に揺らしながら、大人しく座っていた。
 正直言って触れられるのは迷惑だが、触らずに切れとはさすがに言えない。栄は哲の髪を掌で掬い上げながら口を開いた。
「お前さ。高校ん時と変わんねえな」
 哲が黙っていると、栄は少しの間の後、言葉をつないだ。哲から見える大きな鏡に、栄の意外に真剣な表情が映っている。
「佐崎、迷ったりすることあるか? お前でも自分の行き先が見えなくてもがいたりするのか? 何かが欲しくてなりふり構わず突っ走ることってあるのか? 疲れて誰かに助けて欲しいって、縋りつくことなんかあるのか?」
 鏡越しに栄と哲の目が合った。一体何に迷うのか。栄が何かに——多分仕事に——迷いを覚えているのだろうことは哲にも話の流れで分かったが、それだけだった。
「質問が多すぎるぞ、お前」
 銜えたままの煙草の先から灰が崩れて、テーブルの上に粉が散る。栄の指がゆっくり伸びて、哲の唇から煙草を抜き取る。灰皿の上に転がされた煙草の穂先から、白くまっすぐな煙が天井へと立ち上がった。
 ダウンライトのオレンジの明かりを遮る栄の影に、哲の視界が塞がれた。髪を撫でる手の動きは慎重で、例えて言うなら大事な売り物を扱う手つきのようだ。自分が錠前をいじる場面を再現されているように、馴染みのある感覚を覚える。荒々しく掴むことも、かき回すようにすることもない、どちらかというと繊細な動き。下唇を食むようにするその動きも、本当に食われそうだと思うようなそれではない。
「何してやがんだ、お前は」
 冷静な哲の低い声に、栄は静かに身体を離した。
「——血迷ってみた」
「迷うのは勝手だ。俺の知ったことじゃねえ。けど、迷いたきゃ一人で迷え」
「佐崎、もっと驚けよ」
 栄の苦笑はどこか強張って、無理があった。一番驚いているのは当の本人なのかも知れない。
「別に。慣れてる」
 不機嫌に吐き捨てた哲の言葉の意味を量りかねたのか、栄は突っ立ったまま哲の顔を見下ろしている。哲は鏡の中の栄を睨むと、溜息とともに吐き出した。
「切るならさっさと切らねえか。ぐずぐずしてると帰るぞ、俺は」
 何とも言えない表情で哲の目を見ていた栄は、ぎこちない動きで頷いた。