仕入屋錠前屋39 癒される夜 4

 秋野がスチールキャビネットから持ち出した書類は、その会社の営業伝票の一部だった。依頼主はその会社の元社員で、営業部の伝票操作を内部告発しようとしていたらしい。仕入先と組んで架空伝票発行を繰り返していたギャンブル好きの幹部を見かねての行動で、まあ世間的には正しいことに手を貸したことになる。
 何故哲がそんなことを知ったかと言うと、その幹部が不正伝票で捻出した金では足りず消費者金融に借金したせいだ。その消費者金融は北沢組の息がかかっており、取立てを仕切っているのが遠山だったのだとか。そもそもあんな手段で手に入れた伝票が証拠になるのかどうか知らないし、興味もない。だが、遠山が場を持たせるためにした世間話にちらりと出て来たからそうかと思っただけだった。
 秋野が仕事を受ける基準が、哲にはいまいちよく分からない。別に清廉潔白な人物というわけでもないから、基本的に相手の選り好みはしていないようだ。時折ヤクザは嫌だ、クスリには係わらないと口に出すが、だからと言って盗みに入ることを厭うというわけでもない。
 手錠が取れなくなった風俗嬢は助けてやっても銃が欲しい大学生にはそれを売らない。内部告発を考えるサラリーマンは別に秋野の規範に照らして不合格ではなかったと見える。

 哲の髪に手を差し込んで手つきだけは優しくそれを梳きながらさっきから首筋に歯形をつけているこの男が、一体何を思って仕事をしているのか。別に知ったからと言って何かが変わるわけではないが、それでもふと考えることもないではなかった。
「痛えな、噛むな」
「嫌いじゃないだろう。いいから黙れ」
 余り他の人間に聞かせることのない脅しつけるような物言が、秋野の素であるらしいことはいい加減に察しがついている。
「好きでもねえよ、別に」
「別にお前が好きだろうが嫌いだろうが、どっちでも関係ない」
「この傲慢虎野郎」
「うるさい」
 頭を強く振ると、秋野の指が滑って外れた。そうかと思うと先ほどまでの手つきが嘘のように荒々しく掴まれる。
「ハゲるだろうが、くそったれが」
「大袈裟だな」
 秋野の裸の脇腹に拳を入れたが、片手で受け流された。落胆に唸り声を上げると、哲の上に覆い被さる秋野はおかしそうに頬を歪めた。
「最近伸びすぎじゃないのか。お前にしては前髪が長い」
 そう言ってまた髪をきつく引っ張られ、痛みに思わず眉が寄る。傍から見たら何処から見てもつかみ合いの喧嘩にしか見えないに違いない。
「そういや、遠山の義理の弟が美容師やってるんだってよ」
 哲が仏頂面で吐き出すと、秋野は片方の眉を上げ、僅かに首を傾けた。
「この間の?」
「ああ。切らせろ切らせろってうるせえんだよ」
「いいんじゃないか、どうせ切るんだから誰が切ったって」
 哲は鼻を鳴らして耳元に寄る秋野の顔を払い除けた。何故栄が面倒臭いかと言うとお前にどこか似ているからだと、文句を言ってやってもいい。しかし秋野はそれは別に俺のせいじゃないと言うだろうし、確かに言っても詮無いことだ。
「——そりゃそうだけど面倒臭えんだよ」
「おかしな奴だな」
 乱暴に振り払われてもまるで素知らぬ顔の秋野は哲の手首を強く掴んだ。握る指の力の強さに歯軋りすると、秋野は悦に入った笑みを浮かべる。その薄茶の眼に見下ろされ、目を逸らせなくなるのがとにかく忌々しい。
 先ほどまで脳裏にあった栄のことも遠山のことも、秋野の眼はあっさりどこかに追いやって、当然のような顔をしてそこにどっかりと腰を下ろす。
「お前、何考えて仕事してる?」
 何となく思い立って口に出す。秋野は表情一つ変えずに、ただ何度か瞬きをした。
「……何が模範解答だ? お前のこと、か?」
「そりゃ減点二百だ、このクソ馬鹿が」
「どうして」
 落ちかかる前髪を指先で払うと、秋野は口の端を曲げて酷薄に笑った。

 

 栄の勤める店は中心部から少し離れたビルの八階にあり、エレベーターはパーマ液の匂いがした。如何にもセットしたばかり、というような流行のヘアスタイルの派手な女が降りてきて、あたしを見て、と全身で叫びながら哲の横をすり抜けていく。
 丁度鴨井や栄とつるんでいた時代に、ああいう手合いとばかり遊んだ時期も確かにあった。ああいう女は簡単そうに見えて実のところ手がかかり、結局面倒臭がりの自分にはどうにも合わなかったことを思い出す。閉まるドアの隙間から見える遠ざかる女の後姿を眺めながら、そんなことを思った。
 店の中は既に客がおらず、栄の他にただ一人残っていた美容師らしき男も、帰り支度をしていた。日曜の夜九時に髪を切りに来ようという人間は確かに多くなさそうだ。店のドアを開けた哲に挨拶しながら、男はエレベーターへと去っていき、栄が笑顔で哲を迎えた。
「いらっしゃいませ」
「よせ、気持ち悪ぃ」
 低く返す哲に苦笑しながら、栄はソファを指差した。待っている間客を座らせるものなのだろう。あめ色の革張りのソファは、意外に高価なものに見える。
「ま、座ったら」
「さっさと切れよ」
「そんな急がなくても……」
 ぶつぶつ呟きながら、栄は店の奥に歩いていく。どうやらすぐに取り掛かる気はないようで、哲はうんざりしてソファの背凭れに頭を預けた。
 見上げる天井はダクトが剥き出しになっている。これもインテリアの一部なのだろう。所々に見える螺子を見ていると、ドライバーでどれもこれも外してばらしてやりたくなる。錠前開けにどこか似ているせいか、機械を分解するのは意外に楽しい。組み立てるという作業は面倒だから、決して好きとは言えないが。
「首曲がるぞ、佐崎」
 両手にコーヒーのカップを持った栄の声で身体を起こす。栄は片方のカップを無理矢理哲に持たせると、向かいの一人がけのソファに腰を下ろした。
「この間はゆっくり話も出来なかったからな」
「お前は一人で喋ってなかったか」
 哲の台詞にわざとらしく天を仰いだ栄は、カップを置いて腕を組んだ。
「冷たいな、相変わらず」
 哲がカップの縁から見上げると、栄は肩を竦めて見せた。
「昔から俺はお前が気に入ってたのに、何かどうやってもこっち向きゃしねえんだもんな」
 そう言われても、はっきり言ってよくわからない。というか、覚えていない。
 どちらにしても高校生くらいの年頃と言うのは大人なようでいて子供なものだ。子供らしく自分中心に世界が回っている頃のことを言われても、興味がなかった相手のことは記憶からすっかり零れ落ちている。
「そうだったのか。知らねえな」
 抑揚のない哲の返事に軽い溜息を吐いて、栄は組んでいた腕を解いた。
「お前さあ、今何やってんの」
「何が」
 カップを置いた哲に栄は灰皿を差し出した。ポケットを探っていると、栄は静かな声で先を続ける。
「正志さんと知り合いなんて、普通とは思えねえもんな。何か危ない仕事してんじゃないの」
 銜えた煙草に無言で火をつける哲の仕草を、栄の目が追っていた。