仕入屋錠前屋39 癒される夜 3

「おーおー暫く見ないうちにでかくなって」
「なるわけねえだろうが」
 ご機嫌なキツネ顔に向けて哲が吐き出した冷たい台詞は、しかし敢え無く無視されてその辺の床に転がった。
「いやいや久し振りだねえ、元気にしてたか、坊主」
 破顔するナカジマに、哲は思いっきりうんざりした顔を向けてやった。
「俺はあんたの孫じゃねえんだぞ」
「俺はかみさんもガキもいねえよ。孫なんかいるか」
 顔中でにたにたと笑うと、ナカジマはマルボロライトの箱を取り出しまあまあ座んなよ、と例の重たげな灰皿を哲に向かって押して寄越した。
 哲が北沢組の事務所に来るのは二度目になる。前回もそうだが、誰も好き好んでヤクザの事務所に足を運んでいるわけではない。一度目は半ば拉致されたと言っていいから、正確には自分から来るのは今日が初めてだった。
 以前無理矢理連れて来られた時と何一つ変わらなく見える室内を、哲は興味なさ気に見回した。なさ気、というより本当に興味がないので、実際は何か変化があったとしても気付きはしないだろうが、それはどうでもいいことだ。奥の壁紙にうっすらと残る薄い染みは、何かの飛沫の跡だろう。それが零した番茶の染みであろうが、カチこみに来た余所の組の人間の血液の痕であろうが、哲はヤクザの歴史とは関わりがないし、進んで関わりたくもない。
「で、遠山は」
「何だよ、いいじゃねえか世間話のひとつもさせなよ」
 ナカジマは話好きな爺の役が痛くお気に召したと見え、煙草を銜えたまま足を組んでソファに凭れる。
「よくねえ。俺はさっさと帰りてえんだよ」
「まあそう言うな」
「——その言い方、むかつくからやめてくれ、おっさん」
「何がだよ、つっかかるねえ」
 息を吐いたナカジマの背後、ドアが開き、遠山が現われた。
「すいません、お待たせして」
「何だよ、もう来たのか。まだ坊主をいじってないのによ」
「だから俺はあんたの玩具じゃねえんだよ」
 ご機嫌な上司と不機嫌な来客に目を向けて、遠山は苦笑した。
「何なら一時間後に出直しましょうか」
「いや、残念だが俺はオヤジに呼ばれてるんでな、行かねえと」
「また将棋ですか」
「いや、今日は違う。じゃあな、坊主。今度はゆっくり話そうや」
「やなこった」
 鼻を鳴らす哲に手を振ると、ナカジマはさっさと出て行った。お辞儀をして見送った遠山が、ナカジマの座っていたソファに同じように腰掛けた。もっとも座り方から脚の組み方まで、すべてが違う。相変わらず水商売風の遠山は優雅に煙草に火をつけると天井に煙を吐き出した。
「わざわざ悪いね」
「そう思うなら呼びつけるんじゃねえ」
 哲が憮然としてソファに沈むと、遠山は軽く笑った。まだ長い煙草を灰皿に押し付けて消すと、急に真面目な顔になって居住まいを正す。哲の目を正面から見て、遠山は口を開いた。
「夏実のことでは世話になった。礼もしねえで」
 哲が黙っていると、遠山は前髪をかき上げて溜息を吐いた。
「仕入屋にも礼を言っておいてくれ。って、別に用件はそれじゃねえんだ」
「伊藤か」
 哲が唸ると、遠山はちょっと目を見開いた。この男は驚いたような顔をするとやけに若く見える。先だっても思ったことを哲は再度思う。皮肉っぽい表情が消えると、子供のような顔になるのだ。
「何でそう思うんだよ」
「別に。あんたと俺の接点なんてそこしかねえじゃねえか。錠前の話ってわけじゃなさそうだし」
 哲は煙草を銜えて火をつけた。吐き出した煙が遠山の顔の横をかすめて流れていく。遠山は手で煙を振り払うと小さく苦笑し、ソファに背を預けた。
 伊藤栄が遠山の義弟だと知ったのはついこの間のことだが、あれから今日に至るまで、哲の携帯にはしつこいほど栄からの着信履歴が残っている。面倒だからと半分以上は出ない自分も悪いのだが、髪を切らせると約束して以来、一体いつ来るのかとしつこくてかなわない。もっとも、しつこいと言ってもそれは哲の価値観からしてであって、話をした猪田に言わせると別にそれほどでもないようだが。
「っていうか、普通は出るだろ、着信になったら」
「出ねえよ、出たくねえ時は」
「……お前友達なくすよ」
「それでお前は消えたか?」
 哲の問いに猪田は胸を張って答えたものだ。
「俺は人間が出来ている!!」
「ああそう」
「あの怖い知り合いは? あの人は出なかったら怒るんじゃないか?」
「ああ? 秋野か? あれはそんなこと意にも介さねえ」
 そんな会話が展開されたのはつい昨日の晩のことで、栄の話題は哲にとっても記憶に新しい。

「栄に髪切らせるって約束したんだってな」
 聞こえてきた声に、哲は意識を目の前の男に引き戻した。遠山はチャコールグレイのシングルのスーツの袖を弄っていた。ヤクザが着るにはいささか洒落たそのスーツは、遠山が動くたび織地の柄が浮き上がって見える。
「あんまりしつこいからな」
 仏頂面の哲の顔を眺めて、遠山は薄く笑った。
「栄の姉貴が俺の女房なんだが、まあ、あんたは知っての通り俺とはうまくいってなくてね」
 遠山の愛人だった夏実が遠山欲しさに演じた猿芝居——と言うと余りにも失礼だが——とかかわっただけに、知っているといえば知っているのだが、それでもああそうなのか、というくらいのものだった。曖昧に頷く哲を見て、遠山は語を継いだ。
「色々事情もあるんで、別れたりはしねえんだが。けど、栄は本当に弟みたいなもんで、あいつも懐いてくれるし俺も可愛いんだ。で、最近栄からしょっちゅう電話が来るんだよ」
 哲が灰皿に吸殻を放り込むと、それを目で追いながら続ける。
「あんたのことを何で知ってるのか色々訊かれたよ。まあ、仕事上の知り合いの知り合いってんで、それ以上は何も言っちゃいない。で、あんたに頼みがあるんだが」
「仕入屋絡みは勘弁してくれ」
 哲の低い声に、遠山は首を振った。
「違う、そうじゃない。栄をこっち側にかかわらせたくねえんだ。俺がそんなこと言うのもおかしな話だけどな。あんた、栄に色々訊かれても黙っててくれないかな。勿論俺がヤクザだってのはあいつも承知してるが……」
「俺だって商売のことを突っ込まれんのはご免だ。何だ、あいつ今更ヤクザになりてえのか」
「違うと思うがね。今まで興味示したことなんかねえし、まあ友達と俺が知り合いだってんで、興味本位なんだろうが……」
 一人考え込む遠山に一瞥をくれ、哲はそっと溜息を吐いた。別に仕事がらみの話をしなければいいだけのことで、面倒なことは何もない。それでも栄と会うのは気が進まず、会わなければ会わないで、義弟可愛さに遠山から一言あるのは必至だった。
 ただの煙草仲間であっただけの栄の顔は飲み会から数日経った今は既に曖昧で、どこか秋野を思わせる目くらいしか思い浮かばない。
 ヤクザの事務所で当のヤクザと向かい合わせに座りながらそれぞれ物思いに耽っていると、尻ポケットの携帯電話が動き出した。表示された番号はそれこそ栄の携帯で、訝しげな遠山の視線を感じつつ、哲は舌打ちしながら携帯をポケットに押し込んだ。