仕入屋錠前屋39 癒される夜 2

「お前、いっそナカジマの所に世話になればいいんじゃないのか」
 にやにやと頬を歪める秋野の脛を蹴っ飛ばしながら、哲は口の中で文句を言った。いつもならここで七色の罵声が飛び出すところだが、今は秋野とは比べ物にならないくらい大事なものが目の前にある。
 薄いゴムの手袋を嵌めた指先に、金属の擦れる感触と、微細なひっかかりが感じられた。素手で触ればもう少し早く開けることができるが、指紋を残すのは望むところではない。いくら手術用の薄手の手袋とは言え、指先の感覚とは微妙に異なる。だが、出先ではどこで何に触れるか分からないし、嵌めておくに越したことはない。
「……ゴムつけて女とやるのと同じだな」
 思わず口から零れた品のない比喩に一瞬目をしばたたいた秋野が、呆れたような声を出した。
「馬鹿だね」
「るせえ」
 言いながらも哲の目はダイヤルに注がれている。縦に四つ抽斗が並んだスチールのキャビネットは、一番上の段にのみ、ダイヤル錠がついている。一つ一つの抽斗に鍵穴がついていてそれぞれ違う鍵が必要だが、それらは道具一つで難なく開けることが出来るものだった。ダイヤル錠自体も、何度か回せば容易に目盛りを推測できる程度の造りでしかない。
「左に三回、四十九」
 独り言のように低く呟いた哲の指が、その通りにダイヤルを回す。目盛りは四十六で止まり、哲はダイヤルから手を離した。
「四十九じゃないのか」
 不思議そうに訊く秋野に、哲は顔を振り向ける。
「そこまで精巧じゃねえんだよ、結局。これ以上回らねえが、設定は四十九だ」
「へえ」
「いい加減なもんだ。案外な」
「へえ」
 気の抜けた返答を繰り返す秋野に、哲はちらりと横目をくれた。
「誰かと同じだ」

 

 開いた抽斗から何やら書類を抜き去った秋野に促され、哲はそのビルを出た。元通りにしてきたスチールロッカーの中身にいつ誰が気付くか、そもそもそれが何であるかも知らないが、哲には正直言って知ったことではない。
 持参した茶封筒に納めた書類を道端のポストに無造作に投函すると、秋野は先に立って歩き出した。
 深夜の繁華街は、まだまだ人通りが多い。しかしこの辺りは古い事務所や何かが多く、遠くの喧騒から切り離されたように静まり返っている。
「で、遠山は元気そうだったのか」
 秋野が前を向いて煙草をふかしたまま訊いてきた。秋野も以前遠山に会った事がある。遠山の愛人だった女が秋野の知人の妹で、大した事ではなかったものの、哲も秋野も別方面から巻き込まれた形になった。秋野は修羅場真っ最中の青ざめた遠山しか知らないと言ってもいいから、気になったのかもしれなかった。
「普通にな。もっとも何回かしか見たことねえから元気がなくったって俺にわかりゃしねえ」
 秋野は軽く肩を竦めると、薄茶の瞳を細めて哲に向けた。睨み返すと頬を僅かに歪めて視線を戻す。闇を透かすように見るその先には特に変わったものはない。
 湿った土の匂いと黴臭い空気を鼻腔に感じる。地面に転がったペットボトルの蓋や錆びの浮いた外階段。そんな雑多なものを見るともなしに見ながら、哲は昨夜のことを思い出した。

 

「なあ、何で正志さんと知り合いなんだよ」
 栄は一次会でも二次会でも哲の隣に座り、正直鬱陶しいくらい遠山との関係を知りたがった。義兄なのだから職業は当然知っているのだろうし、哲のヤクザ嫌いを覚えているようだから不思議に思うのは当然だ。
 頭では分かっているのだが、生来面倒なことが嫌いだから、説明するのも気が乗らない。そもそもナカジマの話から始めなければならないし、そうすれば錠前をいじることまで話が及ぶことになる。別に知られてもいいと言えばいいのだが、わざわざ吹聴することでもない。
「知り合いの知り合いだ。うるせえなあ、いいじゃねえかどうでも」
 覗き込んでくる栄の顔をいい加減に手で除けると、栄は益々しつこく擦り寄ってくる。哲は低く唸ると手の中のグラスをテーブルに音を立てて置いた。どこぞの薄茶の眼の馬鹿男と性質が似ているようなのがどうにも気に食わない。話を逸らそうにも共通の話題もないから、結局哲は黙ったままだった。
 先ほどから調子っぱずれの歌を歌っている鴨井の横顔を敵のように睨み付ける。別に鴨井が悪いわけではないが、今は他に睨む対象がいないから仕方ない。哲の視線に気付いたのか鴨井が振り返り、自分に向けられた目つきに青くなった。
「な、な、何だよ」
「別に」
 地を這うような哲の声にすっかり腰が引けた鴨井は、それでも根がお人好しなのか引き攣った笑顔を浮かべた。
「伊藤と哲はあんまりつるんでなかったよなあ。伊藤って今美容師なんだぜ」
「へえ」
 いかにも興味がないと言った哲の口調に、栄は残念そうに溜息を漏らした。
「そうなのかー、とか、すげえな、とか、何かねえの」
「そうなのか、すげえな」
「……佐崎……」
 肩を落とす栄と素知らぬ顔の哲に慌てて背を向け、トイレトイレとわざとらしく呟きながら鴨井は席を外した。
「いや、別に美容師がすごいとかじゃないけど」
 栄の風体は、言われてみればそんな職業にぴったりだった。金をかけていないように見えて細かい所まで気を遣った格好は、個人的なものかもしれないが、職業柄というやつでもあるのだろう。そう思ってみればありきたりではない微妙な色合いの髪の毛も、栄の自己主張であるとともに美容師の職業意識でもあるのか。
「な、佐崎。髪切ってやろうか」
 栄は急に思い立ったようにそう呟いたが、哲は栄を一瞥して容赦なく吐き出した。
「いらねえ」
「何で即答なんだよ。金は取らねえって」
「面倒臭え」
「そう言うなって。俺も練習になるしさ」
「しつこいな、お前。俺の髪切って何が楽しい」
「普段女の子のお客さんばっかりだから、たまには男性用のカットも試してみたいんだよ」
 素っ気なくしても一向にめげない口調に哲が呆れて目を上げると、栄は目を細めて薄く笑んだ。同じ表情でもどこぞの虎男とは大違いに優しげな表情だ。それでもどこか秋野に通じるものがある栄の目に、哲は忌々しげに眉根を寄せた。
 その後、幾ら断っても食い下がるヤクザの義弟についに根負けし、哲は渋々頷いた。