仕入屋錠前屋39 癒される夜 1

 平日の昼間、それでもその通りは人出が多い。学生やら主婦やら、哲のように得体の知れない職業の男やら、とにかく切れ目なく人は流れ、気を抜けば誰かの肩に押され、足でも踏まれそうな人口密度だった。
 哲は足早な人の流れから少しはずれ、歩道の脇を歩いていた。雑居ビルや飲食店の軒先をくぐるようにして歩いていると、何かがいきなり目の前に差し出された。
 思わず足が止まり、何だか分からないそれを凝視してしまう。それが何かのチラシだと気付いたのは一瞬後で、更にそのチラシを配る男の顔に見覚えがあると気付いたのは、更に後だった。
「……哲?」
 訝しげな声に顔を上げると、茶髪に無精髭の男は破顔した。
「やっぱり、哲じゃねえか」
「よう」
 高校時代の同級生は人懐こく笑うとチラシの束を足元のダンボールに放り込み、歯並びの悪い口を開けて大袈裟に喜んだ。通り過ぎる女子高校生が、お喋りの合間にちらりと横目をくれていく。
「元気かぁ? 滅茶苦茶久し振りじゃねえ?」
「そうだな」
「会社員……じゃねえよな、こんな真昼間に私服でうろついてるんだから」
 そこいらの学生と変わらない格好の哲を上から下まで見回すと、男は笑う。その笑顔を見ながら、哲はやっと彼の名前を思い出した。確か鴨井だ。下の名前は元々知らない。あの頃の知り合いはクラスどころか学校も違う奴らが多くて、名前まで覚えているものは多くはない。哲は留年して四年間高校に通ったが、鴨井は同い年——哲が一番悪かった頃の知り合いだ。
「お前は何やってんの」
 哲が訊くと、白いシャツに黒くて長いギャルソンエプロンの鴨井は、自分のシャツの襟を引っ張った。
「イタ飯屋風居酒屋の店員、って、ただのホールスタッフのバイト。あ、これ割引券付きだから持ってけな」
 先ほどのチラシを一枚抜き取ると哲に無理矢理押し付け、鴨井は懐かしそうに目を細めた。
「誰かと連絡取ってるか?」
「いや、全然」
「だろうなあ。結構ヤクザになったりしたのも多いしな。なあ、折角だから集まって飲まねえ?」
 そういいながら鴨井はエプロンのポケットから携帯を取り出した。別にそれほど懐かしい人間がいるわけではないが、嫌だと断るほどのこともない。哲も促されるままに携帯を取り出し、鴨井に番号を告げた。
「いいぜ、別に」
「じゃ、適当に集めるわ」
「ヤクザはなしな」
 哲の言葉にげらげら笑うと、鴨井は哲の肩をばしばしと叩く。
「相変わらずヤクザ嫌いだなぁ。オッケーオッケー、俺も怖いのはやだからさ、更正した奴だけな。じゃあ電話すっから」
 ハンカチでも振るようにチラシを振る鴨井に背を向けた哲は、どうせ電話は掛かってこないだろうと思っていた。そして三歩歩く間に、鴨井の顔は頭の中からすっかり消えていた。
 ところが意外にも鴨井はまめな男だったらしく、哲の想像に反して電話はすぐに掛かってきた。集められるだけ昔の知り合いを集めたと言う。一体どんな集まりになるのかいまいちよく分からないながらも、哲は電話の向こうの鴨井の誘いに頷いた。

 

 指定された店は、何件もの飲み屋が入るそれなりに大きなビルにあった。ネオンを反射する銀色の外壁は間近で見るといやに傷だらけだが、目印にするには十分光っている。ビルの前は待ち合わせの定番でもあるのか、大勢の人で賑わっている。その中に見知った顔を見つけ、哲は思わず犬のような唸り声を上げた。
「哲!」
 哲を見つけた鴨井が手を上げる。勿論鴨井も知った顔だし、その周りに集まっている人間にも見覚えはある。だがそうではなくて、哲を唸らせたのはそのうちの一人と話をしていた男だった。
「よお、久し振り」
 馴れ馴れしく手を上げてにやりと笑った男の顔を見るのは久し振りだ。茶色い髪は以前より長く伸ばし、益々水商売風だ。涼しげないい男ではあるのだが、だからと言って哲は別に嬉しくもない。ヤクザは抜きと言ったろうが、と鴨井の首を絞めてやりたくなったが、冷静に考えればこの男がこの飲み会のメンバーとは思えない。
「…………どうも」
 哲の如何にも渋々と言った挨拶に、遠山は可笑しそうに声を立てて笑った。
「何だよ、あからさまに嫌がるな、相変わらず」
 遠山と話をしていた男が訝しげに哲と遠山の顔を見比べた。確か高校は別だったが、何度か見たことがある。名前は思い出せないが、鴨井が呼んだうちの一人なのだろう。
「佐崎、正志さんと知り合いなのか」
 相手は哲の苗字を覚えていたらしく、首を傾げてそう訊ねた。哲より少し背が高い。無造作なようで金のかかった格好にここにはいない男を思い出し、ついつい眉間に皺が寄る。それを不機嫌と取ったのか、男は困ったような表情になった。
 何も言わない哲の代わりに遠山が答える。
「ちょっと共通の知り合いがいるんだよ。お前は、何だ、同級生?」
「そう、高校違うけど。な?」
 同意を求められて仕方なく頷くと、遠山は薄く笑った。
「栄は俺の女房の弟なんだ」
「これも腐れ縁ってやつか? ……嬉しくて涙が出るな」
「そう嫌がるなよ。あんたを気に入ってる中嶋さんが泣くからな」
 遠山はじゃあな、と手を振ると人ごみに紛れて行った。鴨井の鶴の一声で集団はビルの入り口に向かってそれぞれ好き勝手に歩を進める。
「佐崎、俺のこと覚えてる?」
 遠山がサカエ、と呼んだ男が哲の隣に並んで顔を覗き込んできた。まばらに生やした髭は無精髭のように見えるが、丹念に手入れされているに違いない。
「顔は」
 正直に答えると、男は呆れたように笑った。
「やっぱ名前忘れてんだな。伊藤栄だよ。よく一緒に煙草吸ったじゃねえか」
「大勢いたから覚えてねえ」
「そりゃ二人きりで吸ったわけじゃないけどな」
 拗ねたように口を尖らせた栄は、それでも仏頂面の哲に懲りずに笑い掛けた。
「俺はちゃんと覚えてるよ、佐崎」
「そりゃどうも」
 気のない返事を返してさっさと歩き出すと、栄は苦笑して、足早に哲の後を追って来た。しつこく呼びかける栄を半ば無視しながら、哲は鴨井達が乗り込むエレベーターへと足を向けた。