仕入屋錠前屋38 積んできた時間さえ君の前では 2

「利香ちゃん、チョコといちごとどっちにする?」
「えええ!? うんとね、うんとねえ……」
 税抜き二百五十円らしいカップのアイスを両手に持ち、悪魔のように選択を迫る真菜を前に、利香は本気で頭を抱えている。男三人はそれを眺めながら、空気清浄機に向かって遠慮がちに煙を吐いていた。
 別に尾山家は禁煙ではないが、利香がいるのでいつものように遠慮なしに吸うわけにも行かず、三人していきなり赤ん坊が出来た父親のような後ろめたさを味わいながら紫煙を吐き出していた。
「入学式は大変だったんだって」
 秋野が耀司に顔を向けると、耀司は思い出し笑いでにやつきながら首を振った。
「そりゃもう。何せ俺から何十年経ってるからもう大騒ぎでさ。母さんはスーツ二着も買うわ、親父は髭剃り念入りにやりすぎて剃刀負けするわ」
 利香が尾山家の養子と言うのは、学校側にもクラスの親にも事前に周知したということだった。隠し通すには無理な年齢の養父母だし、後々噂になるなら先に言ってしまったほうがいいということに落ち着いたそうだ。ただ、利香の母親については病弱で子供を育てられないということになったらしいが、それくらいの嘘など何ほどのこともない。
「皆同情してくれちゃったみたいで、うちの親つかまえて握手求めてくる先生とか父兄なんかもいて、政治家のあいさつ回りみたいになっちゃって」
「……って、お前何で知ってんだよ」
 訝しげに聞いた哲に、耀司は何でもないことのように答えた。
「そりゃ、妹の入学式は何を措いても出席しないと」
 秋野が苦笑し、哲も思わず笑ってしまった。耀司はにこにこしながら利香の入学式の様子を説明していく。哲は、この分だと利香が嫁に行く時は尾山、耀司、秋野の三人は揃って泣くのではないだろうかと想像したりした。
「担任の先生もよさそうな感じだったよ」
 耀司の声が聞こえたのか、利香は真菜の隣から大きな声を出した。
「よもぎだせんせい!!」
「え?」
 秋野が利香を振り返ると、利香は結局いちごにしたらしいアイスを口の周りにつけたまま、もう一度大きな声で繰り返した。
「りかのせんせいねえ、よもぎだせんせいだよ!」

 

 哲の横で、秋野は苛立たしげな仕草を繰り返しながら煙を吐き出している。多分、自分なりに決めたある種のルールを破るのが嫌なのだろう。それでも利香への心配がそれに勝ち、人間としてはそれでよくても仕事に対してのプライドなり何なりが抵抗しているに違いない。
 偶然と言うのはあるもので、ついこの間の依頼人、蓬田謙次は利香のクラスの担任教師だった。言われてみれば、今ひとつ垢抜けなく感じた雰囲気は会社社会にすれていないというようにも取れ、穏やかそうな笑顔は小学校教諭に似合いだった。
「こっちがイラつくから大人しくしねえか、馬鹿」
 哲の声に険しい目を向けると、それでも自覚があるのか、秋野は煙草を揉み消してむっつりと黙り込んだ。普段傍にいる哲でもうなじの毛が逆立ちそうになるのだから、蓬田が萎縮するのではないかとも思ったが、考えてみれば蓬田相手にこういう所を出す男ではないだろう。案の定、蓬田が姿を現したときには、秋野は上辺はいつも通り穏やかな顔に戻っていた。
「済みません、お呼び立てして」
 秋野の声は苛立ちも懸念も何もかも覆い隠して低く静かに発せられ、恐らく彼を知らぬ者には優しげに、哲には獣が襲い掛かる前の静かな唸り声のように聞こえた。
「いえいえ、この間はこちらこそお世話になりました」
 頭を下げる蓬田は今日も水色のボタンダウンシャツの襟を上までしっかり留めて、知ってしまえば如何にも教師らしい出で立ちと立ち居振る舞いだった。
「何か……」
 教材でも入っているのか、膨れた質素な鞄を隣の椅子に置き、邪気のない表情で秋野と哲を交互に見る。夕刻のファミレスでどちらかと言わなくても素性のよくない男二人を前にして余りにも呑気な態度に、哲は何とはなしに笑ってしまいそうになるのを堪えた。
 ウェイトレスがやたら大判のメニューを抱えてやって来る。コーヒーを頼み、痩せ細ったその若い女が尻を振って去るのを眺めて、秋野はゆっくり口を開いた。
「小学校の先生なんですね」
 蓬田はちょっと目を見開いたが、笑みを浮かべて大きく頷いた。
「ええ、そうですが」
「蓬田さんの学校に知人の娘がいましてね」
 秋野の口調は平坦で責める調子も脅しつける調子もなかったが、蓬田は秋野の聞きたいことを正確に汲んだらしく、テーブルの上の紙ナプキンに目をやって暫し黙り込んだ。先ほどとは違うウェイトレスが、薄そうなコーヒーを乱暴に並べて去っていき、蓬田はゆっくりと顔を上げた。
「ご心配だ、とうことですね。僕があんなことをお願いしたから」
「——まあ、失礼ですが、そういうことです。本来なら依頼人の事情や素性にまったく興味はないんですが」
「いいんです、分かります。夜中に小学校の体育館に忍び込む教師なんて、怪しすぎますよね」
 蓬田は流行の、とは間違っても言えないスタイルの短髪に手をやって頭を掻いた。
「僕、この四月に転勤になるまであの学校にいたんですよ」

 

「誰か、大事な人はいますか」
 突然蓬田がそう言った。首を傾げて見つめられ、哲は首を横に振る。祖父が死んだ今、大事と言われて思いつく人間はいない。蓬田は次に秋野を見たが、秋野は無反応だった。
「僕は、いました。今でも、いる、かな」
 蓬田はスプーンを手にし、砂糖を入れていないコーヒーをゆるゆるとかき混ぜた。
「あそこにいる時に恋をしまして、恥ずかしながら僕は彼女に夢中でした。彼女はピアノを弾いたんで、よく集会なんかで体育館で演奏しましてね。転勤になってもうあそこが見られないと思ったら、居ても立ってもいられなくなっちゃって」
 蓬田は照れ臭そうに小さく笑う。秋野は相変わらず無表情に蓬田の手元を見つめており、哲は横目でそんな秋野をぼんやり眺めた。蓬田は依然コーヒーをかき混ぜ続けており、スプーンが陶器に当たるかちかちと言う小さな音が聞こえる。
「恋をしたんです」
 蓬田は言葉とは裏腹に悲しそうな顔をして俯いた。
「僕は確かに恋をしました。彼女に」
 首を傾げる哲に、蓬田は自嘲の笑みなのか、苦い表情を見せた。
「僕のクラスの——受け持っていた六年生の生徒でした」

 てっきり女性教師の話だと思っていた哲はさすがに驚いたが、秋野は相変わらず反応がない。目を開けたまま寝ているのではないかと一瞬疑ったが、瞬きはしているから聞いてはいるのだろう。反応のない秋野をちらりと見て、蓬田は哲に視線を移した。
「信じてもらえないかも知れないけど、誓って何もしていません。僕は子供に性的な興味を抱くわけじゃないですし、それはあの子に対しても同じでした。そういう対象にはどうしても見られなくて、それで恋かと思うかもしれないけれど、でも間違いなく恋したんです」
「その子は」
 不意に秋野が低く訊いた。蓬田は悲しそうに薄く笑うと、スプーンを持つ手を止めて囁く。
「お父さんの転勤で、北海道の中学校に進学しました」
「そうですか」
 秋野の返答は、やけに冷静だった。こんな話を聞いたほうが尚更心配になりそうなものだが、何を思っているにせよ、口調にそれは見えなかった。哲は煙草の箱を取り出して一本銜えた。ライターの音がやけに響く。表情のない秋野と今にも泣き出しそうな蓬田の対比は、こんな時になんだが面白かった。
 表に出ているものはまるで違うのに、どこか同じような匂いがするといったらいいか。
 暗い体育館で床の真ん中に座り込んで少女の面影を見ていた蓬田と、自分を捨てた女の子供大事さに仕事のやりかたさえも曲げる男と。見た目どころか本質もまるで違うのに、どこか似通った何かが窺える気がしてならない。
 そしてこういうことを考え、突き放して二人を見ている自分には、その何かがきっとないのだろう。それが善いことなのか悪いことなのか、哲にはまるで分かりはしないし、別に分かったところで欲しくもないが。
「大人として、教師として積んできた時間さえ君の前では意味がないって、僕は言った」
 蓬田は静かな声で、哲の顔を見ながら言った。しかし、言葉そのものは哲に向かっているわけではなく、三人の頭上に、吐き出した紫煙と共にたゆたっている気がする。もしもその意味を掴まえるとしたら、それはきっと秋野であって哲ではない。
「彼女は嬉しそうに笑ってた。子供だからって、分からないわけじゃないんです。感じ方は僕ら大人と違っても、彼らは彼らなりの感覚で大人を理解して、そして時には恋もする。自惚れ、かな」
 秋野は何も言わずにコーヒーを啜った。不味そうに顔をしかめ、舌打ちする。そういう態度を取る秋野は滅多に見られないが、蓬田がそれを知るはずもない。
「恋しただけです」
 哲は煙草をファミレスのロゴの入った四角い灰皿に押し付けた。この場に不似合いな明るく丸っこい字体のロゴは、それこそ小学生の女の子が好みそうな陽気な可愛らしさに満ちている。
「僕は教師ですから、お子さん達を預かって大切にする義務がある。それを忘れたことはありません」
 秋野は何も言わずに席を立った。長身の秋野が見下ろすと、座ったままの蓬田は子供のように首を仰向けて真面目な顔で秋野を見つめた。
「分かりました。お時間を割いて下さって有難うございます」
 通路側に座っていた哲も否応なく立ち上がることになる。脱いで脇に置いてあったジャケットを手に取ろうと屈みこむと、秋野の低い声が降ってきた。
「大事じゃないが、ばらばらに壊してでも欲しいものは俺にもある。あなたの気持ちは何となく分かります」

 

「気が済んだのか」
 二歩前を歩く秋野は、気のない声でああ、と返事を寄越した。
 いい歳をした男が小学生に恋をした話など、普通なら聞いただけで利香を転校させると言い出してもおかしくはない。それでもそうは思わない秋野の心中が、哲にも何となく理解できる。蓬田は道ならぬ恋をしたのかもしれないが、それで道を踏み外すような人間ではないのだろう。
「ならいいけどな」
 呟いた哲をいきなり振り返ると、秋野は底光りする薄茶の眼で哲の目を覗きこんだ。距離は離れているのに間近で見られるような感覚に、本能的に焦燥と嫌悪を覚える。
「何だよ」
「——別に」
「覗くんじゃねえ、鬱陶しい」
 不機嫌に吐き出すと、秋野は唇を歪めて酷薄に笑った。蓬田より余程犯罪者に似つかわしい笑いに、哲は思わず顔をしかめる。どちらかというと意味の通らない哲の言葉の意味を質しもせず、秋野はただ哲の顔を眺めている。
「俺は行くぞ」
 追い越しざまに腿の辺りを蹴りつけると、お返しとばかりにふくらはぎを蹴飛ばされる。瞬間的に勢いをつけて叩き付けた後ろ回し蹴りに秋野が呻き、すれ違ったサラリーマンが目を剥いて足早に遠ざかって行った。
「何でお前はそう乱暴なんだ」
 呆れたように背中から追ってくる秋野の声に、鼻を鳴らして返してやる。
「いちいちうるせえ奴だな。さっさと消えろ」
 低い含み笑いが聞こえ、軽く足を蹴飛ばされた。振り返ると、秋野は既に哲に背中を向けていた。のんびりと遠ざかっていく広い背を見ながら、蓬田の言ったことを何となく思い出す。
 大人として、教師として積んできた時間さえ君の前では意味がない、と。
 もしそれこそが恋だと言うのなら、恋とは何と一途で利己的で、そしてお互いしか見えなくなってしまうものなのだろう。そんな思いが、頭の隅をちらりと過ぎった。

 

 一年後、蓬田は大学の後輩と婚約した。
 同じく教職に就く彼女は、元バレーボール部の、すらりと背の高い快活な女性だと言う。尾山を通じて秋野からもたらされたその報せに、幸せになれと、哲は心から思った。