仕入屋錠前屋38 積んできた時間さえ君の前では 1

 秋野は普段と違ってスーツを着てネクタイを締めていた。
 身体にぴったり合った高価そうなスーツも趣味のいいネクタイも、背丈があって細身なだけによく似合う。ただ、会社員のような似合い方ではなく、あくまでもモデルか何かのような似合い方と言ったらいいか、スーツが仕事着という雰囲気はまるでない。
 普段よりしっかりとセットした髪も唇の端に貼り付けたままの煙草も、広告から抜け出してきたように見える。女が見ればよだれを垂らしそうな男前っぷりだが、哲にしてみればどこか胡散臭く、おまけにこれ以上ないくらい場にそぐわない。
「何だお前、その格好」
 開口一番の哲の言葉に、秋野は黄色く見える目を細めた。
「お気に召しませんでしたか」
 にやにやしながらそう答える秋野に、哲は思い切り顔をしかめて見せた。正直言って気に入るも気に入らないもない。有体に言えばどうでもいい。
「何着てたって気に食わねえんだよ、馬鹿」
 哲の不機嫌な返答に、秋野の後ろに立つ依頼人が驚いたような顔で固まっていた。味気ないスチール縁の眼鏡にベージュのチノパン。白地に茶色のチェックのボタンダウンシャツは、そうしなければ罰金でも取られるかのようにしっかりとパンツの中にたくし込まれている。
 秋野を睨む目付きのまま視線を向けると、男はぎくしゃくした動きで、それでも深々と頭を下げた。

 

「お前、南京錠じゃ開ける気にならんか?」
 ラーメン屋の狭いカウンターで、秋野が何でもないことのように呟いた。哲は箸の先のメンマを何とはなしにスープに戻しながら、暫し考え込んでしまった。テレビ台の上の小汚いブラウン管には、安っぽいピンクのワンピースの女が哲からしてみれば下らない悩みを弁護士に相談しているのが映っている。
「——まあ、それほど心惹かれるわけじゃねえけど」
「無理にとは言わんがね」
 秋野は箸を丼に載せると、コップに残った水を飲み干す。哲は横目でそれを眺めながら少しの間考えた。
 南京錠は頑丈だがひどく簡単な造りだ。正直食指が動く構造ではないが、錠前でありさえすれば、基本的に否やはない。
「開ける」
 低い哲の声に、秋野は薄く笑った。どういう意味の笑いなのかは知らないが、腹が立つことには変わりない。蹴りつけたカウンターの下の長い脚は、憎らしいことにひょいと軽く脇に避け、秋野は益々唇の端を歪めて笑った。

 

 それで、哲は今ここにいるわけだ。今時南京錠で施錠してある建物も珍しいような気がするが、いい加減古い公立の小学校だと言えばそれなりにしっくり来る。変質者や、そうでなくてもただ自分より弱いと言うだけで子供を手にかける大人が多い昨今、小学校の錠前を開けると言うのは正直言って気乗りがしない。それでも子供どころか教師すらいるはずもない深夜の、しかも体育館だと言うから、それならばとここまで足を運んだのだった。
 めかしこんだ秋野の後ろに立つ男は、一見人畜無害に見える。そうは言っても人間見た目で間違いなく本質が分かるわけではないから、それは飽くまで哲の感想に過ぎなかったが。
 男は蓬田と名乗り、柔らかな笑みを浮かべた。

 色々な事件が起こっているとは言え、実際自分の身に降りかからなければ所詮切羽詰ることがないのが人の常だ。これだけ世間で騒がれていながら、学校のセキュリティはかつてと何一つ変わっていないようだった。正門の脇の植え込みを跨いで越えた男三人は、深夜の小学校の敷地内に難なく侵入しおおせた。
「なあ」
 前を行く蓬田に聞こえないくらいに声を潜めて呟くと、秋野が僅かに身体を捻って哲のほうを向いた。
「夢見の悪ぃ仕事は勘弁しろよ」
「大丈夫だろう」
 秋野は短く言って片頬を歪める。別に普段と何も変わらないその笑い方が今日はやけにひっかかり、哲は意味もなく舌打ちした。
「何だ、機嫌が悪いな」
「てめえの気障な格好もむかつくし、存在自体が癇に障る」
 蓬田はそこだけ聞こえたようで、またびっくりしたように振り返ったが、触らぬ神に何とやらとでも思ったか、慌てて前に向き直って暗いグラウンドを突っ切って行く。
 声を立てずに喉の奥で笑った秋野が、薄茶の目を細めて哲を眺めた。哲はその目を思い切りねめつけると、追い越しざまに秋野の膝裏を蹴飛ばして蓬田の背を追った。

 

「すごいもんですねえ」
 蓬田は心底驚いた様子で、哲の手元に顔を近づけた。如何にも真面目そうな蓬田は、もしかすると秋野より若いのかもしれない。決して不細工ではないのに、垢抜けない雰囲気が顔立ちより何より目立っていた。
「いや、僕なんかはすごく不器用なんで。あなたにとっては朝飯前なんでしょうけど」
 秋野の知人の知人——ということは他人、ということなんだろう——だという蓬田は、どうやら見た目どおりのおっとりした人間のようだった。
 体育館の扉にかかった南京錠は二つあり、哲がそれを外すのは造作もないことだ。念のため嵌めていた手袋はそのままに、南京錠をぶらさげて戸を引きあける。がたん、と一度重い音をさせて、扉は難なく左右に分かれた。
「電気はつけるなよ」
「っせえなあ、分かってんだよ。いちいち指図すんじゃねえ」
 秋野に威嚇の唸り声を上げる哲を恐々振り返りながらも、蓬田は暗い体育館に入って行く。蓬田が何をするのか何となく気にしながら、哲は体育館の中を漫然と眺めた。
 ステージ上の演壇や、壁にかかった校歌の額。垂直飛びに使う横線の入った黒板や、壁に立てかけられた高飛び用のマットが懐かしかった。秋野はぼんやりと体育館の中を眺めている。哲は南京錠を床に置くと、壁際に近寄った。
「ロクボク、って言うんだってな」
 秋野が哲の横に立って、低い声で呟いた。
「ああ? 何だそりゃ」
 秋野は哲の凭れた木の梯子のようなものを顎で指す。小中学校の体育館には必ずあったような気がするそれは、幅広の梯子が横に繋がったようになっている。かつては高いと思ったものだが、今見上げるそれはそれほど丈があるとは思えなかった。
「肋骨のロクに木って書いて、肋木」
「お前、つまんねえことはよく知ってんな」
 哲は三歩でその肋木を駆け上がると頂上に腰掛けた。見下ろす秋野との差はそれほどない。
「猿」
「うるせえ」
 歯を剥いてやると、秋野は何が嬉しいのか薄く笑った。

 傍から見ると多分異様な光景だろう。真っ暗な小学校の体育館の中に、大の男三人が居座っている。
 裾が擦り切れたジーンズにシャツを着た哲と、ブランドスーツのモデルのような秋野は肋木の上に並んで腰掛け、煙草を吸っている。見下ろす広い床の真ん中には蓬田がぼんやりと胡坐を掻いて座り込んだまま動かない。
「何なんだ」
 哲の携帯灰皿は二人分の吸殻でいい加減満員御礼だった。手の中の煙草をその中にねじ込むと、灰皿を秋野の手に押し付ける。秋野は文句も言わずに受け取ると、口から煙を吐き出した。
「さあな。俺に聞くな」
「お前が持って来た仕事じゃねえか」
「依頼人の事情なんかに興味ないんでね」
「そうかよ」
 肋木から飛び降りると、思いのほか大きな音がした。蓬田が驚いたように顔を向け、左腕の腕時計を見る。
「すみません、もうこんな時間なんだ」
「いや、好きなだけいればいいんじゃねえの。あいつがお供するだろうし」
「いやあ、そんな迷惑掛けられませんから」
 蓬田は立ち上がって哲の顔を見ると微笑んだ。背丈は殆ど変わらないが、骨組みが華奢なのか小さく見える。いつの間にかすぐ後ろに立っていた秋野にも会釈し、蓬田は小さく息を吐いた。
「もう気が済みました。本当にどうもありがとうございます」
 笑った顔はどこか哀しげで、諦めたような色が混じっている気がした。

 

「りかねえ、もういちねんせいなの!」
 不意打ちで利香に体中で体当たりされて、さすがの哲も足元がふらついた。耀司に呼ばれて大谷ビルヂングに足を踏み入れた途端、小型爆弾の攻撃を受けたのだ。
 利香はこの春から小学校に上がったとかで、新しいランドセルを見せたいばかりに耀司の家に遊びに来たらしく、秋野と哲も召集を受けたと言うことらしい。もっとも秋野はまだ着いておらず、突撃を受けたのは哲一人だったが。
「そうか」
「うんっ!!」
 愛らしい顔を得意げに上向けると、利香はぴょんぴょん飛び跳ねる。何やら音程の外れた歌らしきものを歌いながら哲の周りを回っていたが、真菜に呼ばれてこれまた勢いよく駆けていく。
「すげえエネルギーだな」
「子供ってそうだよね」
 耀司も苦笑して利香の背中を見送った。余程嬉しいのか背負ったままのランドセルが、利香の体より大きく、まるでランドセルに背負われているようにも見える。日曜の昼間だと言うのにこれからでも学校に行きそうな勢いだ。
 哲には、自分自身が小学一年生だった時の記憶などはっきり言って殆どない。僅かな断片はありはするが、給食のメニューだったり隣の席の女の子の筆箱の色だったり、瑣末なことが大半だった。耀司に聞いてみるとそれは皆同じようで、耀司も大したことは覚えていないと言う。
 目の前でくるくると表情を変えながら動き回る利香の発散する何かを眩しく思いながら、忘れると言うことは大切なことだとそれでも思う。嫌なことは勿論、無垢なままでは大人という生き物の社会は辛すぎる。その善し悪しはともかく、何かを失っていくことも必要なのだと、ぼんやりと考えた。
 ソファに腰を落ち着け、真菜に渡されたコーヒーに口をつけたところで秋野が入ってきた。飛びつく利香を抱え上げると、この時しか見せない甘い顔で利香に笑いかける。
「秋野、抱っこしてるならランドセル下ろしてあげて」
 真菜が台所から顔を出して秋野に声を掛けた。
「ああ。利香、俺に抱っこされてるか自分でランドセルを抱っこするか、どっちがいい?」
「ええーっ」
 真剣に眉根を寄せる利香に笑いながら秋野の顔がこちらを向く。哲を認めて細められた目の色を見て、耀司が呆れたように肩を竦めた。
「……あっちが本性」
「……言われるまでもねえ」