仕入屋錠前屋37 妥協案

 眠れない。

 それは初めてではないが馴染みと言うには久々の感覚で、忘れかけた頃にやってくる。
 それにしたって随分ご無沙汰で、哲がそれを思い出すのは多分三年振りにはなるだろうか。前は確か祖父が亡くなる前後だったから、そうに違いない。

 暗い中で目を開けたまま、哲は苛立たしげに舌打ちした。
 こうなったら何がどうなっても眠れやしないのだ。潰れるほど飲めばそれはそれで解決にもなるが、そこまでして眠らなければならないわけでもない。のっそりと布団の上に起き上がると、溜息を吐く。
 普段は基本的に眠れないということはない。例えば何かに悩んで眠れなくなるほど繊細な神経も持っていないし、まあせいぜい喧嘩して興奮したとかそのくらいのもので、今こうして目が冴えているのも、心配事があるからとか言うわけでもなかった。

 これが何なのか、哲自身にも未だによく分からない。ただ、それは何年かおきにふとやってきて、気付いたら去っている。それだけのことだ。いつから始まったことかよく覚えてはいないのだが、もしかすると母親が出て行った事実をしっかり認識した頃だったかも知れない。
 ——あの頃は俺もまだ可愛いガキだったからな。
 他人事のように胸の中で呟くと、哲は煙草に手を伸ばした。

 

「眠れねえ」
 哲が散々蹴り飛ばした扉の向こうで、秋野は憮然とした顔をしていた。寝入りばなを起こされたのだから不機嫌で当たり前、悪いと思うべきなのだろうが、残念ながら哲は常日頃から目の前の猛獣を思いやる心は持ち合わせていなかった。
「……そうか」
 それがどうした、と続くはずだったのだろうが、哲より僅かに大人だったせいか、それともそれすら面倒だったせいか、秋野は口を噤んで哲を上から下まで眺め回した。
「で? ——俺にどうしろって」
「別に」
 哲はドアの枠に凭れたまま、玄関の段差の上にある秋野の目を見た。いつもより更に高い所にある薄茶色は、機嫌が悪いせいか色が少し濃く見える。
「どうもしてほしくねえよ」
「…………上がれ、くそ」
 投げやりに吐き出した秋野はそのまま哲に背中を向けた。

 余程眠かったのだろう。普段そういうことでイラつくことは少ない秋野だが、殆ど肺に入れないで吐き出される煙の忙しなさに、哲はぼんやりそんなことを考えた。
 小さなライトだけをつけた薄暗い部屋で向き合いながら、別に話すことなど何もない。
 大体秋野のところに来ても仕方ないのは哲とてよく分かっているが、不眠も三日目を迎え、そろそろぼんやりしているのにも飽きてきた。ただこの時間遠慮なく踏み込める場所と言ったらここしか思い当たらなかったし、こちらの良心が痛まないという意味でもこれ以上の場所はなかった。
「何だ、具合でも悪いのか」
 秋野が不機嫌に目元を険しくしたまま素っ気なく吐き出す。哲は肩を竦めてその剣呑な顔を見た。
「いや。何年かにいっぺん、二、三日不眠症になるだけだ。別に原因はねえんだけど」
 秋野は意外そうに目をしばたたき、眉根を寄せた。
「お前が眠れないってのは一大事だな」
「るせえんだよ」
「何日目だ?」
「三日目」
 投げやりに答えた哲の上に、秋野の視線がとどまった。今朝鏡を見たら目の下に隈が出来ていた。単純な睡眠不足だから別に具合が悪いわけではないが、見ようによってはやつれても見える。そろそろ終わりそうな気配はあるので明日の夜あたりは元に戻るに違いなく、別に哲自身は気にしているわけではなかったが。
 秋野の手が持ち上がり、影が哲の顔に落ちかかる。気づいた時にはかざされた掌が頭蓋を覆い、秋野の腕に抱き込まれていた。
「勘違いすんじゃねえ、馬鹿が」
 哲は大きく舌打ちして腕を突っ張った。この阿呆が添い寝してやろうとでも思ったのなら、勘違いも甚だしい。
「俺は眠たいんだ。それはもう起こされた腹いせにお前を撃ちたいくらい眠いんだよ」
 哲を巻き込んでそのまま床に転がった秋野は、既に目を閉じている。長い睫毛が落とす影が哲の目の前にある。
「一人で寝ろ」
「眠れないんだろう」
「こっちのほうが百倍眠れねえっつーの。おら、退け!!」
「こうしてりゃうるさくせんだろう。お前に構ってる暇はないくらい眠いんだ」
 寝転がったまま脚を蹴飛ばしたが、うるさそうに唸られただけに終わった。抱き枕にでもなったような気分で、哲は秋野を罵った。

 秋野はすぐに軽い寝息を立て始めたが、哲ははっきり言って不愉快で眠るどころではない。女とだって朝まで一緒に眠るのは好きじゃないというのに、こんな硬くてでかくて物騒なものと眠るなど、絶対にご免だった。身体を引き剥がそうとしてみるが、腕は思いのほかがっしりと哲の身体に回されている。
「……畜生」
 哲は低い唸り声とともに、行動に出た。後で何を言われようと知ったことか。無防備なお前が悪い。そういうことだ。

 

 目の前に晒された喉に、力の限り噛み付いてやる。
 途端に秋野が跳ね起き逃れようとしたが、眠っていたものと完全に覚醒していたものとでは勝負になるはずもなかった。今度は逆に秋野の後頭部を両手で掴まえた哲は、肉に歯を食い込ませた。
 哲の顎が秋野を締め付け、秋野の喉から細い音が漏れる。そういえば秋野に喉を噛まれたことは何度もあるが、意外にも逆はなかった。そう思うと更に苛立ちが募って、顎の力が強くなる。さすがに緩んだ秋野の腕を振り払い、足で身体を蹴飛ばしながら立ち上がって顔を見下ろす。秋野はふて腐れた顔をして、その場に仰向けに転がっていた。
「まったく……」
「よりによってこの俺に急所を晒して眠るお前が悪ぃんだろうが」
「何しに来たんだ、一体」
 呻きながらも目を閉じる秋野を跨いでドアに向かいながら、哲は言った。
「妥協案だよ」
「は?」
 秋野が姿勢を変え、肘をついて起き上がりながら哲に目をやる。
「布団の中で転がってても仕方ねえし、かと言って今更飲む時間でもねえし、女に連絡取るのも面倒だし」
「……」
「てめえの面で妥協したってだけだ」
 秋野はおかしそうに頬を歪めた。片膝を立ててだらしなく座ったまま、大きな手を哲に向かって差し伸べる。
「いいだろう」
「何が」
「じゃあ俺も妥協しようじゃないか」
 その場で立ち止まった哲に、秋野は薄茶の目を向ける。面白そうに、そして残忍な色を見せて光るその二つに哲は何とはなしに見入ってしまう。
「眠れないなら寝ればいい」
「……安易だな、お前」
「俺は安易な人間だよ。知らなかったのか」
 秋野は痩せた虎のように獰猛な笑みを浮かべる。差し伸べた長い指が、肉を切り裂く爪を持った前足にも見えた。
「来い」
 犬を呼ぶようなその言い方に哲は険しい目を向ける。秋野は更に笑みを大きくすると、目を細めた。黒い前髪の間で黄色く光る双眸が、否も応もなく、哲の視線を捕まえる。
 振り切って背を向けるのも、踏みとどまってその手を掴むのも、どちらも酷く簡単だ。そして例えどちらを選ぼうが、結局何一つ違いはないのはお互いよく分かっている。手をポケットに突っ込んだまま黙り込む哲に、秋野はもう一度口に出す。
「来い、哲」
「——その言い方は気に入らねえな」
 仏頂面で低く吐き出す哲を見上げて、秋野は片方の眉を上げて見せた。
「頼んで欲しけりゃ頼んだっていいが、それで来るとは限らんだろう」
 秋野は酷薄に笑うと、掠れた声で囁いた。口調とは裏腹に、脅しつけるような目の光は鋭く妥協を許さない。哲は忌々しげに舌打ちしながら自分を呼ぶ声を聞く。

「どっちでもいいなら、……来い。哲」