仕入屋錠前屋36 返り討ちに遭う日 2

「そうだな」
 悪びれる風もない桂子に、秋野は思わず苦笑を漏らした。何につけ思ったことをはっきり言う女ではある。遠慮がないというのともまた違って、それは不快なものではなかったが。
 桂子は好きだ。それは多香子に抱いた気持ちとはまるで違うが、違う人間に同じ想いを抱くわけもないから当然だろう。
 付き合い始めてそろそろ二年近くなる。とはいえ、他にも遊ぶ相手はいるし、二年間ずっと桂子しかいなかったという意味ではない。会わないときは数ヶ月会わないこともあるし、数週間彼女のところに転がり込んでいることもある。だが、秋野と会っていないときに桂子がどうしているかはほとんど知らない。
 それでも長い付き合いだったし、つかず離れずの今の距離のままだとしたら、特に別れる理由も思いつかないほどだった。
 桂子が、嫉妬などしなければ。
「だけど、やっぱり嫌なのね。私がこういうこと言い出さなきゃ続いたんでしょうけど」
 肩を竦める桂子の、しかし酷く真剣な目に見つめられて、秋野は紅茶のカップをテーブルに置いた。
「——多分」
「あなたが会ってるひと、何人いるのか知らないけど」
 桂子は肩が凝ってでもいるのか、首筋を何度も揉んだ。
「みんな同じ条件ならこんなこと言わなかったわね、多分。でもそうじゃないでしょう、最近。違う?」
 秋野が黙り込んだのは、答えられなかったからではなく、よく分からなかったからだ。桂子は答えたくないとでもとったのか、一瞬悲しそうな顔をしたが、それはすぐに何でもないような表情の下に隠された。
 桂子の手の中のマグカップから湯気が細く立ち昇っている。それは見慣れた紫煙と違って、穏やかに空気に溶け込むように消えていく。
 秋野は無意識に湯気を目で追いながら、自分の胸のうちを探るともなく探っていた。
 ここ数ヶ月、桂子の他に寝ている女はいなかった。
 だから、桂子が何を思ったにせよ、彼女が言うのは哲のことなのだろう。
「まあ、それはそうだが……同じ人間なんかいないんだから仕方ない」
「そういうこと言ってないわよ」
「そうか」
「嫌いよ、ずるいから」
 憤然と言い切る桂子に情けない笑いが漏れたが、だからと言って宥める言葉も思い浮かばず、紅茶に口をつけてみる。飲みつけない液体はやたらと渋く、熱かった。
 結局紅茶が冷めるまで、秋野は桂子と向き合って座っていた。

 

 

 哲の背は、薄いながら筋肉の束が畝になって浮いている。基本的に痩せているから肉はないのだが、体質なのか居酒屋で酒のケースを運んだりするせいか、定期的なトレーニングをしているわけでもないのに硬く引き締まった体つきだった。
 今やすっかり立ち直った哲は相変わらず下品な罵り声を垂れ流している。哲がこちらに正対していたら今頃秋野はどこかを押さえて床に転がっていたかもしれないが、幸い未だ背中を向けたままの姿勢だったから何とか無傷で済んでいた。
「——お前、後で見てろよ」
 散々喚いて疲れたのか、一瞬黙った哲が低い声を絞り出した。
「明日一日立ち上がれねえくらい殴り倒してやるからな」
 背を這い上がる秋野の舌にぶるりと身震いをしながら、哲は憎々しげに呟いた。それはこけ脅しでも何でもなくて、油断していたら事が済んだ途端に殴り始めるに違いない。その様子を想像して思わず秋野は苦笑した。
「服を着てからにしてくれ」
「……偉そうに言うんじゃ、ねえ」
 哲の声がしわがれ途切れた。吐き出される短い呼気は、獣が威嚇するような鋭く攻撃的な響きを帯びている。秋野は硬直する哲のうなじに顔を埋めながら再度思う。
 哲は多分、怒っている。
 だが、敢えて怒らせようとしているのだからそれは余りにも当然の結果だ。
 後ろからするのは初めてだった。哲の獣じみた怒りの表情が見えないのは、いかにも味気ない。半分上の空でそれでも何かに追い立てられるように動きながら、秋野は哲の肩に噛み付いた。
「痛えな!」
「俺は痛くない」
「この、くそったれ」

 

 

 桂子はぼんやりと宙に彷徨わせていた視線を秋野に据えた。
「本気なの?」
「何が?」
「その人」
 手の中のカップは既にひんやりとした陶器の冷たさを取り戻している。交わす言葉もないままに向かい合ったままどれだけの時間が経ったのか。桂子が言うように人が心変わりする生き物だと言うのなら、自分の気持ちにも何がしかの変化があったのだろうか。
 冷めていくカップのように温度を変えた何かが存在したと言うなら、それにしては相変わらず桂子は綺麗で好もしく、哲は叩き潰してやりたい何ものかに過ぎない。秋野は答えるべき言葉もなく桂子の目を見つめ返した。
「……もういいわ。おしまい、さよなら、またいつかね」
 早口でそれだけ言うと、桂子は立ち上がって視線で秋野を促した。
「——次にオープンする店の内装は、うまくいってるのか」
 思いついたことを口に出すと、桂子が一瞬押し黙って頷いた。
「あなたが来ない間に随分まとまったわ。社長も好きにやらせてくれるし、やりがいあるの」
「そうか」
「ねえ」
 桂子がテーブルに立ち止まったまま秋野を呼ぶ。振り返っても、桂子はその場から動こうとしない。秋野は一歩戻って桂子の前に立った。桂子はほんの僅か、口元を引き攣らせて囁いた。
「興味ないのに優しいなんて、最低だわ」
 静かな口調でそう言って、右手を翻す。冷めた紅茶が秋野の胸元にぶちまけられ、シャツの色を濃く変えた。流石に驚いて口が開いた秋野の顔を見て桂子は楽しそうに笑った。
「やった!」
 屈託なく笑う桂子の目尻に滲むものをどうしてやったらいいのかわからないまま、秋野は桂子に背を向けた。

 

 

 床についてしまった両肘。
 秋野に身体を揺さぶられ、腕の間に落とされた哲の頭が揺れる。
 きっと後で散々な目に遭うだろう。わかっているが、自虐的な気分の今日を締めくくるに、それはいかにも相応しいと思えた。
 シャツを濡らしたまま足を向けた哲の部屋で、慰めを期待したわけではない。ややもすれば落ち込みそうになる自己嫌悪の波間から這い上がるのに自分をダシに使うなと、責められたかっただけのような気もする。
 どちらにせよ、哲を怒らせて、殴られるなり何なりしたかったが、ただやられるのも癪だったというだけだ。哲にとっては迷惑千万だろうが、とりあえずそれは知ったことではない。
 いつも自分が勝っていると思うわけではないが、それにしても今日はやたらと負けがつく日だ。間違いなく哲の報復はあるだろうし、もしかすると自分が知らないだけで、返り討ちに遭う日というのが暦の中にでもあるのかもしれない。
「っ…………! く、そ…………っあ、」
 掠れた声が切れ切れに秋野を呪う。最後にたった一文字吐き出された音。それが十中八九喘ぎなどではなく、罵るために吐き出した自分の名前の最初の一文字に違いないことが、何故か酷く重要に思える。
 もう一度、右手を伸ばして哲の喉を強く掴み強制的に持ち上げた。人間とは思えない野生的な音を立てて哲が唸る。肩越しに秋野を睨んだ哲の目は、赤く爛れた野犬の目によく似ていた。
 焦点がずれたその目に唇の端を曲げて秋野は笑う。このまま首を絞めてやったら、こいつは呆気なく死んでしまうだろうか。そんなことはきっとない。噛まれるのは自分のほうに決まっている。
「後が怖いよ」
 顔を寄せて小さく呟いた秋野に、哲が返した声は言葉になっていなかった。吐き出される荒い息と低い呻き、歯噛みする僅かな音。ついさっき噛み付いた肩口が赤い痣になっている。その場所に再度牙を立てながら、秋野は、獲物に回した腕に力を籠めた。

 快感なのか、苦痛なのか、それとも満たされることのない飢餓感なのか。哲を抱くことで自分が得るのは一体何でそれで結局どうしたいのか、それはこの先ずっと分からないのかも知れない。
 一瞬の快感など、過ぎてしまえばすぐに忘れる。そんなものが欲しかったわけでは多分なく、それなら桂子を泣かせるはずもなかった。
 聞きようによっては忌々しいほど扇情的な哲の低く忙しない呼吸音。
 時折混じる押し殺したしゃがれた声。色気の欠片もないその声を聞きながら、それでも血が沸き立ち血管を破りそうに暴れ狂う。押し付けた胸骨を振動させる哲の唸りを聞きながら硬い脇腹を撫で上げる。
 哲は心底嫌そうに、秋野を罵る下品な言葉を吐き出した。