仕入屋錠前屋36 返り討ちに遭う日 1

 多分哲はかなり腹を立てているだろう。秋野から哲の顔は見えないが、耳がついていれば考えるまでもない。のべつ幕なしに吐き出される下品で乱暴な悪態の数々。よくそこまでバリエーション豊かに思いつくものだと、いつものことだが感心さえした。
「あまり喚くな、うるさい」
 右手に力を入れると、哲が喘ぐように息を詰まらせた。右手で押さえつけた頚動脈が激しく脈打つ。重たげに上下する喉仏を押し付けると、骨が小さくこくりと鳴った。逃れようとしてか、哲の喉が大きく反った。

 

 

 仕入屋なんてものをやっている以上、コネは多いほうがいい。いつ何を頼まれるか分からないし、正規のルートで仕入れられるものならば誰も秋野に頼みはしない。それもあるし、尾山の下で働いていた時に自然に増えた伝もあって、秋野には知り合いが多い。
 殆どが所謂会社員というのではない、例えば水商売関係だったりその辺のチンピラだったりするが、中には母親の知り合いもいて、意外に数が多いことに時に驚いたりもする。
 桂子もそんな水商売の女の一人だ。もっとも、彼女の経歴はいささか変わっているが。
「あら」
 ドアを開けた桂子は、そう言ったっきり口を噤んでしまった。何か言われれば対処のしようもあるのだが、何も言われないと却ってどういう態度を取るべきか迷う。桂子は無言のまま身体を引いて、上がったら、というような仕草をした。秋野は大人しく彼女の示すとおりに靴を脱いだ。
 桂子は元々インテリアファブリックの卸会社に勤務していたという女だ。インテリアデザイナーを目指して会社を辞め、通信教育を受けながらスタイリストの助手や何かをしていたらしい。それだけでは食べていけないからと始めた夜のアルバイトがいつの間にか本業になってしまったというのだから、それだけ聞けばお定まりの話にも聞こえる。
 実際は店の改装にその手腕を発揮したバイトをオーナーの尾山が気に入ったというのが本当で、桂子は今は尾山の手がける店のデザインを多く任される立場だった。今となってはホステスとしてもデザイナーとしてもそれなりの経験を積み、ホステスが息抜きだというのだから中々の器であることは間違いない。
 秋野は桂子のアトリエのような部屋の大きなソファに腰掛けて脚を組んだ。桂子は黙ったまま台所に立って紅茶を淹れている。ホステスをしていても、桂子は酒が好きではないらしい。家で飲むのは八割がたが紅茶だった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 渡された薄い琥珀色の液体を覗き込む。ダージリンの色が薄いのは知っている。それでもそれが他の種類とどう違う味なのか、普段紅茶を飲まない秋野にはいまいちよく分からない。
 口をつけずに眺めていると、浮かんでいた細かい茶葉の滓がカップの底に沈んでいく様がよく見えた。らせんを描きながら水底に積もる細かい粉を、ただぼんやり眺めていた。

 

 

 後ろから抱きかかえるようにした哲の身体は、硬く骨ばっていて体温が低かった。右手で押さえつけた喉が、しゃくりあげるように息を吸う。床に膝をついた姿勢からではさすがの哲も蹴りを繰り出すことは不可能で、多分それが苛立ちを倍化させているに違いない。
「……なせ」
 離せ、と言ったのだろうが、息苦しいのか前半部分は聞き取れなかった。哲のジーンズの中に突っ込んだ左手を緩く動かすと、犬のような唸り声が上がった。哲は、強制的に与えられる快感を酷く厭う。感覚の問題ではなく人に強要されているということが我慢ならないと見え、今も抱き締めた身体が怒りに強張るのがよく分かった。
「この野郎、ぶっ殺すぞ……手を、放せ……」
「右手か? 左手か?」
 秋野が口の端を歪めて囁くと、見えたわけでもないだろうに、哲は刺々しい声を出す。
「どっちもだ! にやついてんじゃねえ、くそったれ」
「失礼だな」
 耳元に口を寄せ、手加減しないで強く噛んだ。痛みに気を取られたであろう哲の隙をつき、握りこんだものを刺激する。哲は喉を引き攣らせ、掠れた声で口汚く秋野を罵った。
「そんなに嫌がらなくても」
「嫌に決まってんだろうが! てめえの頭は飾り物か!」
「うるさい奴だな。そう喚くんじゃないよ」
「誰のせいだと——」
「ああ、俺のせいだ。知ってるよ」
 秋野は低く呟きながら、それでもどちらの手も退かそうとはしなかった。哲の歯の間から押し出される呪いの言葉は、秋野の左手の指の動きに連動して低くなったり消えたりする。俯いた首筋の襟足の毛を鼻先で避けながら、秋野は脊椎の出っ張りに歯を立てた。

 

 

 この間会った時も、いい雰囲気とは言えなかった。秋野は多香子と別れて以来、ある意味女を避けてきた。男だからそれなりの性欲はあるし、女性に興味を失くしたわけではない。それでも風俗は好きではないから、結局誰かしらと関係を持つことにはなる。
 出来るだけ後腐れなく面倒のない関係を築こうとはするのだが、結局向こうが本気になって関係が終わる。それがここ数年飽きるほど繰り返してきたパターンであり、今やそれ以外の係わり方など忘れてしまったのではないかとすら思う。
「もう来ないかと思った」
 桂子は尊大とも思える態度でそう言った。傲然と顎を上げ、怒ったように肩を怒らせている姿は寧ろ彼女を魅力的に見せている。誰もが振り返るほど美人、とは言えないが、酷く雰囲気のある女だ。
「はっきりしないのはよくないかと思って」
「そうね。そりゃそうだけど」
 桂子は肩を竦めて一人がけのソファに落ち着いた。ラフな格好に裸足の桂子は、若いアーティストか何かに見えた。
「別れ話ならしたくないわ」
「何ならしたいんだ」
「そうね」
 手の中のマグカップを神経質に弄ぶ。
「将来のはなし」
「難しいことを言うなよ」
 苦笑した秋野に、桂子は綺麗に描いた眉を片方だけ器用に上げて見せた。
「こんな簡単な話ないわよ。何も結婚してくれなんて言わないわ。ただ、終わりにしたくないだけ」
「ずっと?」
「そうね」
「俺はそういうのに向いてないって、最初に言わなかったか」
 秋野が目を上げて見つめると、桂子は黙ってカップを口に運んだ。綺麗に手入れされた爪が白いカップに映えて美しい。秋野は、その丁寧に施されたネイルを気にもせず米をといだりする桂子が気に入っていたのだ。
「聞いたわよ、はっきり、嫌になるくらいきっぱりと」
「それなら」
「人間は心変わりする動物なのよ。いつまでもはじめと同じってわけにはいかないわ」

 

 

 哲の身体から力が抜け、前のめりに倒れこんだ。秋野が支えていなければ床と正面衝突しただろうが、それを防いだからと言って感謝されそうにない。心臓の拍動と同じリズムで手の中に吐き出されるのは単なる生理的な昂りの後の当たり前の結果でしかなくて、汗や涙と同じ、体液の一つでしかない。
 男なら誰だって、触れられれば勃つのだ。余程相手にマイナス感情を持っているとか、嫌悪しているとかなら別だが、そうでなければ浅ましいほど簡単にその器官は反応する。もっとも同性に触れられて反応するかと訊かれれば、秋野自身に関して言えばかなり疑問だが、実際哲とは出来るのだから相手によるということなのかも知れなかった。
 一瞬訳が分からなくなったのか、茫然自失の体で身体を預けたままの哲の顔が、斜め上から僅かに見える。僅かに上気した首筋に自分の歯形が浮いていて、秋野は思わず自嘲気味に頬を緩めた。
 女の肌に傷を付けたことなどないし、そういう手合いを軽蔑すらしていたのにこの体たらくだ。おかしな趣味は持ち合わせていないが、どうもこの男が相手だと必要以上に自分の攻撃的な部分が引きずり出されてしまうらしい。
 哲の肉の薄い顔の輪郭やしっかりとした肩の骨。喰らいついてくるような目も頑丈な顎も、叩き潰したいのに手に入れたい。力の抜けた哲の胸に手を回し、シャツのボタンを外していく。何故か自分の指が震えているのがよく分かった。