仕入屋錠前屋35 詫びのひとつもいれようか

 携帯電話が床の上で振動した。やたらとがたがたうるさいそれを掬い上げ、哲は液晶画面を見る。表示される番号は、いい加減見飽きたものだ。今はあの男の声を聞きたい気分ではない。多少はしつこいかも知れないが、放っておけばいずれ諦めるだろう。別に付き合ってやる義理はない。
 もしかすると仕事の話かも知れない——そんな考えが頭の隅を過ぎらないこともないが、だったら再度かかってくるに違いないのだ。
 掌の上の小さな機械を布団の上に放り投げる。それは布団の足元に着地し、間に埋もれて姿はまるで見えなくなった。柔らかな布の上で暫しの間震えていたようだが、床の上ではないから音はまるで聞こえない。自己主張を続ける電話に背を向け煙草を吸っていた哲には、それがいつ鳴り止んだのかまるで分からなかったし、どうでもよかった。

 

 眠りの淵から否応なしに這い上がらされたのは、足元で細かく振動する何かのせいだ。哲は最初、それが何かまったく理解できなかった。寝惚けた頭で考えるのだが、どうにも明確な答えが出ない。足を動かすと、振動のもとが指先に触れた。布団の波間で震える冷たく無機質な四角形。
 半ば呆れた思いでそれを見ていたが、いつまで経っても鳴り止まないので腹が立って引っ掴んだ。着信表示を見る前に通話を切る。ところが、それは次の瞬間にはまた動き出した。
 重い目蓋を無理矢理開き、哲は手の中で苛立たしげに震えるそれを眺めた。きっとあいつは虫の居所が悪いのだろう。明らかに哲が熟睡しているこの時間帯に電話を掛けてくることは余りない。急ぎの用なら、哲が一回無視した時点でここに顔を見せている筈だった。

 哲は呻き声を押し出しつつ、嫌々通話ボタンを押した。

 

 

「……何」
「…………」
「…………」
「…………」
「……イタ電かよ」
「…………」
「——何か言えよ。切るぞ、クソ馬鹿」
「……寝てたのか」
「当たり前だろうが。熟睡中だよ熟睡中」
「そりゃ悪かったな」
「思ってもねえこといけしゃあしゃあと口に出すな。むかつくぜ」
「…………」
「何か用かよ」
「別に」
「眠いんだよ」
「そうか」
「寝るぞ」
「切るなよ」
「だから用は何なんだよ」
「用はない」
「じゃあ寝るからな」
「寝ればいい」
「切るぞ」
「だから切るなって」
「何なんだてめえは!!」
「寝てもいいから切るなって言ってる」
「酔ってんのか?」
「一滴も飲んでないよ」
「訳が分からん」
「ああ」
「…………」
「…………」
「声が聞きたかったとか下らねえこと言い出したら殴るからな」
「電話越しにか」
「今じゃねえよ。次回だよ」
「へえ」
「あのな……。眠いんだっつーの、俺は」
「だろうな。今——ああ、もう三時半か」
「お前の暇つぶしに付き合ってる気分じゃねえんだよ」
「まあそう言うなよ」
「何に腹立ててるか知らねえけど俺で鬱憤晴らすのはやめろ」
「お前だってよく俺を蹴飛ばすだろうに。あいこだよ」
「どこにいんだよ」
「——女のとこ」
「ああ? 女だぁ? 何やってんだよ。さっさと戻れよ」
「寝てるよ、もう」
「俺も寝てえ」
「ああ」
「何だよ、うまくいってねえのか」
「そんなことない」
「じゃあいいだろ、戻れよ。本気で眠いって」
「——詫びのひとつもいれようか」
「は?」
「お前にも、女にも」
「…………」
「言葉一つで楽になるなら、いくらでも口に出せる」
「知らねえよ」
「悪かったな、起こして」
「お前、そういうのを取ってつけたようにって言うんだよ」
「そりゃあ失礼」
「…………」
「眠れよ」
「近いのか」
「何?」
「そこ」
「……ああ」
「聞いてやってもいいぞ、それで気が済むんなら」
「眠いんだろう」
「てめえの馬鹿話で目が冴えた」

 

 喉を鳴らす低い音が電話越しに伝わって来て、そのまま切れた。哲は暫し携帯を眺めていたが、顔をしかめて床の上に放り投げた。まったく、こいつが夜中に電話してくる時はろくでもない話のことが多い。何が何だか知らないが、自分で勝手に完結するなら手を煩わせるのは止して欲しい。
 溜息と共に、哲は寝返りを打った。すっかり醒めてしまった眠気を拾い集めようと目蓋を閉じる。

「寝るなよ。聞いてくれるんじゃないのか」

 黒い服を着た秋野は、午前三時半の暗がりの中でまるで闇から生まれたようにそこにいた。薄茶の眼だけが、暗い中で仄かに明るく浮き上がって見える。哲は横たわったまま盛大に舌打ちした。

「女んとこじゃねえのか」
「女のとこに居た、んだ。居る、じゃなくて」
「何処にいた?」
「下。道路の向こう」
「アホか」
「まあ、そうだな」
 秋野は部屋に上がりこむとだらしなく座り込んで壁に凭れた。暗がりに目が慣れたといっても、細かい所までは見て取れない。滲んだように曖昧な輪郭に目を眇めてみても、いまいち表情は読み取れない。
「で?」
「ん?」
「喋りたくて来たんじゃねえのかよ」
「まあ、……」
 哲はそう言ったきり黙りこんだ秋野を暫し眺めていたが、口を開く気配もない。さすがにいい加減どうでもいい気分になってきた。一時はどこかへ消えた睡魔の気配もする。哲は再度寝返りを打って秋野に背を向け布団を肩まで引き上げた。
「寝る」
「——おやすみ」
 低く静かな秋野の声を呆れた思いで聞きながら、哲はゆっくり目を閉じた。

 

 目覚めた時には秋野は既に消えていた。起き上がって見回すと、布団の傍に置いた覚えのない灰皿があって、吸殻が山になっている。本数からして、恐らく一、二時間前までここにいたのだろう。余程暇だったのか、人の寝顔を見て一体何が面白いのか。まったく訳の分からん男だ。
 哲はそう考え、欠伸をした。秋野は丁度今頃寝付いた頃か。こっちは何となく寝た気がしない。それもこれも——。

 

 

 哲は不意ににやりと笑うと、枕の脇に投げ出してあった携帯を掴んだ。

 考えなくても指が動くその番号を押していく。呼び出し音は暫く続いたが、唐突に電話が繋がった。
「よう」
 哲の声に、電話の向こうでしゃがれた声が何かを罵った。多分、最高のタイミングだっただろう。そう思うと哲の口元は益々緩む。人の安眠を邪魔しやがるからこういう目に遭う。まったくもっていい気味だ。
「寝てたのか」
「…………」
秋野の声にならない唸り声が哲の耳に聞こえてくる。哲はいつになく優しげとさえ言える声音で、皮肉っぽく吐き出した。
「詫びのひとつもいれようか、なあ?」