仕入屋錠前屋34 仮説

 冗談か気紛れか、その日の秋野の触れ方はいつもと違っていた。優しく、しかし快感を煽るような口付け。
「やめろ」
 なぜ、と低い声で秋野が呟き、言いながらまた舌で唇をなぞる。見たことはないが、女を抱く時にはこういうやり方をしているのだろう。それは勝手にすればいいが、哲はこんな風に触られたくはなかった。
「勘弁しろよ」
「どうして」
「胸糞悪ぃんだよ」
 秋野のシャツの襟元を掴んで押し返すと、秋野はほんの少しだけ体を離して哲の顔を眺めた。その目に欲情は見えない。面白がっているだけだ。
「お前だって痛いだけよりもマシだろうに」
「うるせえ、くたばれ」
 睨み上げると秋野が口の端を曲げて笑った。いつもの秋野の笑い方。だが、目の色だけが他人に向けるより鋭く獰猛だ。こんな体勢で世間では愛の行為と呼ばれることをおっぱじめようとしているくせに、その目がどんな時よりも攻撃的で冷酷だというのはおかしな話だと思う。

 たった十センチしかない身長差が恨めしいのはこういう時だ。押さえ込まれて動けないのは何も身長のせいだけではないが、元々哲より喧嘩巧者らしい秋野に長い手足と言うのは反則ではないかと思う。
 とにかく他人に強要される事を厭う哲にとっては、本当は組み敷かれるだけで憤死寸前だ。何とか喚き出さずに堪えているのは、ひとえに秋野のほうが強いから、ただそれだけに過ぎない。それでもたまには腕を振り払ってぶちのめしてやろうかと思うことがある。そして、今が正にその時だった。
 別に秋野とやるのはいい。それは大した問題ではないし、いい加減慣れた。だからどうということはないが、女を抱くように優しくされるのは我慢ならなかった。別にプライドが傷つくわけではない。秋野にそうされることは気持ちが悪いの一言に尽きるのだ。そんなふうに扱われると怖気が走った。
 哲は物も言わずに右手を思い切り振り上げ、秋野の横面を張り飛ばした。秋野の高い頬骨が哲の拳にぶつかって嫌な音を立てる。哲の上半身に被さるように体を支えた秋野の髪を左手で掴んで顔を持ち上げ、その表情を確認する前にもう一度、今度は顎を殴りつけた。
 今度は秋野が哲の上に倒れる。秋野の下から体を引き出し立ち上がったら足首を掴まれた。その手に構わず脇腹を蹴り上げる。離れなかった秋野の手に足を掬われふらついたが、倒れはしない。地面に背中をつけたら袋叩きにされる、そういうことをしてばかりの生活が長かったのだ。
 秋野が四つん這いの状態で手の甲で口を拭う。哲からは血は見えなかったが、口の中が切れていても不思議ではない。見上げる瞳は虹彩がいつもより薄く、黄色く見えた。
「いきなり何だ」
 殴られたことに憤っている声ではなかった。飽くまでも冷静な口調は、面白がるような響きを失ってはいない。殴られた顎をさするその顔を見て、哲は不機嫌に吐き出した。
「やられるより殴る方が好みなんだよ」
 底光りする目を眇め、唇を吊り上げて秋野が笑った。

 物凄い力で足首を引っ張られ、訳がわからないまま床に転がる。したたかに背中を打って、肺が一気に空になった。
 起き上がろうと床に手を突いたが、秋野の踵に胸を蹴られ再度床に仰向けになる。それでも勢いをつけて飛び起きたところに拳が飛んできて、咄嗟に避けたら思いっきり鎖骨に当たった。骨と骨がぶつかる硬い音が響き、左腕まで痺れが走って思わず棒立ちになる。
 秋野の右手が斜めに振り上げられるのが目の端に見えた。振り上げた腕に隠れて、哲から秋野の顔は見えない。勢いをつけて顔の右上から落ちてくる掌底にこめかみを強打され、頭蓋の中で脳が左右に揺れる気がした。
 頭がぐらぐらするが、意識を失うほどではない。それでもさすがに真っ直ぐに立っていられなかった。こっちが売った喧嘩で無様に這いつくばるのだけは死んでもごめん被りたい。倒れるよりはと片膝をつくと、秋野が頬を歪めて哲に一歩近寄る。睨みつける哲の目を見据えて、秋野は言った。
「そんな目で見るなよ」
 その声がどこか歪んで聞こえる。視界が揺れている。哲の目の前の床はいきなり液体になったかのように、どろりと融けて渦を巻いて見えた。
「——……ああ?」
「逆効果なんだよ、哲」
 笑いを消した秋野は、怒っているようにも見えた。

 

 頬に当たる床は冷たかった。あちこちが酷く痛む。特に最後に殴られた顎が最悪だった。砕けたのではないかと思って触ってみたが、幸い形は崩れていなかったし、外れてもいなかった。最初は哲も本気でなかったとは言え、これ程思い切り負けたのは久し振りだ。哲は床に転がったまま忌々しげに息を吐いた。
 まったく、普段は人なんか殴りませんとでもいうようなすましたツラをしてやがる癖に、と半ば呆れて目を上げる。秋野はそれでも、痛むところがあるのか顔をしかめていた。それを見て、多少ではあったが、溜飲を下げた。
 秋野の足が近寄ってきて、哲の横に腰を下ろす。顔を伏せたまま僅かに見上げた目の端に、秋野の膝頭が映った。
「哲」
「なんだよ」
「生きてるか」
「見りゃわかんだろうが」
 床にうつ伏せに転がったまま答えると、笑ったような気配の後、乱暴に体をひっくり返された。衝撃で哲の体のあちこちが悲鳴を上げる。
「——ってえな!! 少しは遠慮しやがれこのクソ虎が!」
「お前に遠慮は失礼だろう」
 笑った秋野の頬の辺りは赤黒くなっていた。目を細めて哲を見下ろす顔は、隣で屋台のラーメンを食っている時であろうが、性行為の最中であろうが、今のように殴りあった後であろうが、結局変わらない。そんなことは分かっているが、それでも殴ってやりたかったのだから仕方ない。
「あんな目で見るから悪いんだと俺は言いたいね」
「あんな目ってどんな目だ」
「そういう目だよ」
 こめかみに触れた秋野の指は冷たかった。触れられるのは嫌だったが、殴られて熱を持つ場所に冷たさが心地よく、敢えて睨むだけにとどめておく。秋野は少しして指を離すと、哲からは見えないところに手を伸ばして煙草を取った。
 吸うか、と聞かれて頷くと、秋野が銜えて火をつけた煙草が口に差し込まれる。秋野は新しい煙草を銜え、もう一度火をつけた。
「——色々と我慢してるんだよ、俺は」
「ああ? 何が」
 秋野は酷薄に笑って哲を見下ろした。
「だから、色々」
「訳がわからねえ」
 体を横向きにし、隣の秋野に背中を向ける。頭の上から手が伸びて、哲の顔の横に灰皿が置かれた。煙を吐き出すと顎が痛んで、哲は小さく悪態をついた。
「時々お前を足腰立たなくしてやりたくなるが、セックスでなのか喧嘩でなのか自分でも分からなくなる」
 秋野の声は至って穏やかで、物騒な台詞であることを感じさせないほど平静だった。
「仮説と実行、検証の繰り返しだな」
「迷惑だからやめろ」
「結構楽しいけどな、俺は」
「てめえの楽しみなんか知ったことか」
 目の前の灰皿に煙草の穂先を押しつける。僅かに舞い上がった細かい粉が、至近距離で見ると随分と大きく見えた。
 背中から聞こえる秋野の声を、哲は半ば上の空で聞いていた。こいつのことは好きじゃないが、声は好きだ。低く深いその響きは、単純な音として心地いい。名前を呼ぶその声と共に、唇が耳の後ろに押し当てられた。
「——何してやがる」
 嫌な予感に、哲は思い切り眉を寄せた。
「さっきの続きに決まってる」
「冗談じゃねえ、あちこち痛えっつうの」
「この程度なら、まだ足腰立つだろう?」
 秋野の笑いを含んだ声に哲は後ろ手に左腕を振り上げたが、難なく掌でガードされ、捻り上げられて筋に鋭い痛みが走る。
「この性悪が……。今すぐくたばっちまえ」
 返事はなかった。捻り上げられた左腕と、繋がる鎖骨に残る鈍痛。体中が暴力の残した痛みに軋みを上げていると言うのに、それでもこの虎男は更に抱き合うことさえ要求する。
「死ぬにはまだ早い」
 耳元で秋野はひっそりと囁いた。
「まだ検証しなきゃならん仮説が山ほどあるんでね」
「……死ね」

 結局、足腰立たないということにまではならなかったが、哲は以後二日間、痛む身体を抱えひどく不機嫌に過ごすことになる。