仕入屋錠前屋33 拒むだけ無駄

 強い風が、一瞬で吹き抜けた。薄いコートの裾や路上の紙屑、道行く女の長い髪が翻る。そこにあるのは知っていたが入ったことのない立ち呑み屋の紺の暖簾がふわりとめくれ、元の位置に戻っていく。哲の目の端には、暖簾は見えたが店の中までは見えなかった。
 不意に暖簾の間から指の長い大きな手が現われ、ひらひらと手招きした。
「哲」

 呼ぶ声を聞かずとも、誰の手なのかはすぐに知れる。哲は思わず舌打ちした。普段は滅多にここを通らない。ほんの気紛れと偶然の結果、どうしてこいつに会わねばならないのか。
 無視してやってもよかったが、後で色々面倒だ。哲は嘆息しながら店に身体を向けた。既に看板の電気を落とした間口の狭い小さな店の紺色の暖簾。その下から見える脚は一組だけだ。不承不承足をそちらに踏み出しながら、哲はもう一度舌打ちした。

 

 暖簾を避けて半開きの引き戸を開けると、長身を屈めた秋野がカウンターに肘を突いて立っている。焼き物のメニューの札が貼られた狭い店内に、他に客の姿はない。入っていった哲に目を向け、秋野は薄茶の目を細めた。
 今時洒落た立ち呑み屋も珍しくないが、ここは随分と手狭な上に洒落てもいない。焼き鳥屋の椅子を取っ払っただけと言っていい店内は、壁は煮しめたような色に汚れ、炭と煙草の匂いがする。
「いらっしゃい」
 カウンターの中の男が、哲に静かな声を掛けた。痩せた男は、多分四十代初めだろう。人のよさそうな、穏やかな笑みを浮かべている。鋭い輪郭の厳しいと言ってもいい顔立ちだが、優しげな笑みのせいで随分と印象が違って見えた。
「どうも」
 哲が頭を下げると、男はにっこり微笑んだ。目尻に笑い皺が寄り、一層雰囲気が柔らかくなる。鑿で彫ったような顔の造作は荒っぽいが、中身はそうでもないらしい。
「哲」
 秋野が酒に掠れた声で哲を呼んだ。秋野は珍しく酔っているのか、顔色こそ普段どおりだが今いち目の焦点が合っていない。
「酔ってんのか」
「少し」
 へらりと笑うと、秋野は酒の入ったグラスを右手で軽く揺らした。
「久し振りに輪島さんと飲んだから、嬉しいんだよ」
 そう言って目を上げると、グラスを持っていないほうの手の平をカウンターの男に向けて言った。
「輪島祥平さん、手塚の親友」
「何で和範が呼び捨てで俺がさん付けなんだよ」
 輪島と呼ばれた男はそう言って楽しそうに笑った。哲のほうを向くと、何にする、と首を傾げる。
「看板じゃないんですか」
 電気の消えた看板を思い返してそう訊くと、輪島は肩を竦めて秋野を指した。
「実を言うと今日は客の入りが悪くてさ、閉めようとしたら秋野がご登場あそばしたんだ。どうせ何時間も前から看板って言やあ看板なんだよね」
「商売っ気がなさすぎるんだよ、輪島さんは」
 秋野がいささか眠たげな声でそう口を挟み、隣に立った哲を見上げて口の端を曲げた。輪島の差し出したビールを受け取る間もあらばこそ、哲は長い腕に思い切り引き寄せられた。
 輪島は差し出したジョッキを手に持ったまま、ぽかんと口を開けている。哲は肩もろとも頭を抱え込まれた不自然な格好で、無理矢理秋野の脇腹を肘で打った。
「離せ、クソ野郎」
「嫌だ」
 秋野はのんびりとした声で言ったかと思うと、次の瞬間には喉を鳴らして笑っている。
「この酔っ払いが——」
「秋野、放してあげたらどうだ」
 輪島の呆れた声がそう言ったが、秋野はまるで聞いていない。哲の蹴りを脛に受けながら、それでも腕は絡んだままだ。
「輪島さん、俺ねえ、もう、これがかわいくてかわいくて」
「死ね、ボケ老人」
「ほら、こうなんだよ。こういうところがね」
「腐れ頭め」
 間髪置かず返される哲の悪態に輪島は苦笑し、ジョッキをカウンターの上に置いた。哲と秋野を交互に見ると、可笑しそうに口元を緩めながら首を振る。
「俺にはどうやっても彼が可愛くは見えないけど?」
「そうじゃないよ。可愛いわけないでしょう。可愛かったら気色悪いよ。可愛くないんだけど、そこがかわいいんだよ」
「だから死ねって言ってるのが聞こえねえのか」
 歯を剥く哲に、秋野は眉を顰めて見せた。
「そういうことを口に出すもんじゃないよ」
「うるせえ。酔っ払いに説教される謂れはねえ」
 秋野は楽しげに笑うと、哲の頭を更に引き寄せ髪に顔を寄せた。口付けるでもなく寄せられた唇から漏れた秋野の呼気が、哲の前髪を僅かに揺らす。押し退けると意外に正気を保った目が間近にあって、それは静かに離れて行った。
「輪島さん、トイレ貸して」
 平静な声でそう告げると、秋野は勝手にカウンターの奥へと消えて行く。輪島ははいはい、と受け流し、哲に穏やかな目を戻した。
「大変なのに気に入られて、それこそ大変だね」
「野生動物に懐かれたと思って我慢するしかないんで」
 顔をしかめた哲に、輪島はにっこり笑んで見せた。
「和範から聞いたことあるよ。佐崎君って君だよね?」
 哲が頷くと、輪島は白い歯を見せて笑った。薄汚い狭い店に、輪島の笑顔はぴたりと嵌る。輪島が薄汚い雰囲気だというのではない。磨かれた新しい建物のよそよそしさ、それが輪島にはないだけだ。
「本気で嫌がれば、諦めるんじゃない」
 少し気の毒そうに輪島が言う。哲は一瞬迷ったが、正直に口に出した。手塚の親友だと言うのなら、体裁を繕った所で仕方がない。
「拒むだけ無駄だから」
 吐き出した哲の台詞に、輪島は黙って首を傾げた。
「どうせあの馬鹿は聞きゃしねえし」
「ああ、意外と我が儘だよね、あいつは」
「傍若無人で参ります」
「それに、本気で嫌じゃないわけだ?」
 にやりと笑った輪島の顔に、哲は仏頂面で肩を竦めた。
「本気でも冗談でも、嫌ってわけじゃないですよ」
「何の話?」
 いつの間にか戻った秋野がのんびりと声を掛けた。哲は黙って秋野を一瞥し、ジョッキのビールを一気に半分呷った。
「お前に関係ねえ。帰るからな」
 財布を取り出す哲に、輪島が奢りです、とにっこり笑う。秋野が俺も帰る、と小さく言うと、哲の服の襟を掴まえた。振り向いた哲に、秋野がゆっくり顔を寄せる。
「なあ、聞こえたぞ」
 にたりと笑う秋野の顔に、バックブローを叩き込む。酔っているという割にはいとも簡単に躱した秋野は笑い声を立てた。哲が振り払った紺の暖簾が、夜風をはらんでふわりと舞う。少し掠れた秋野の笑い声が、外に踏み出す哲の背中をやんわり押した。