仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 7

 加納のフルネームは加納武宏と言うそうだ。秋野からそれを聞いて、哲はやっと得心がいった。ミツルが一緒に映画を見に行ったという「武宏くん」とは加納のことだったらしい。秋野は哲にはそれ以上何も言わなかったが、要するに加納がミツルと親しい間柄だというのは確かなのだろう。
 ミツルはまだ十八で、誰かを好きだとか嫌いだとか、そういう話が何より大事な年頃だ。哲のことを嬉々として加納に話すのは目に見えていて、秋野の言うとおり加納はミツルに警告するのだろう。ただでさえ秋野に何かとつっかかる加納であり、彼がミツルを可愛がっているのなら尚更、放っておくはずはない。
 強張った声の秋野からミツルに電話してくれと言われた時も、だから驚きはしなかった。散々ねだられても秋野は哲の携帯をミツルに告げていなかったから、向こうから掛かってはこなかったのだ。正直言って気が重いし、面倒臭くもあった。それでも会いたいと言われればこの場合断るのは最善とはいいかねる。
 それなりに洒落ているが値段に見合った料理しか出てこないチェーン店のイタ飯屋で、哲はミツルと向かい合って座っていた。やたらと厚ぼったく陽気な色合いの皿が数枚壁に飾られている。イタリア語に似た怪しい言語を叫ぶ店員が置いていったグラスを前に、俯くミツルと哲の間に不自然な沈黙が降りていた。
 形だけ注文したサラダが顧みられることなくテーブルの真ん中に鎮座して、どちらかが沈黙を破るのを辛抱強く待っている。

「武宏くんと、知り合いだったんですね、佐崎さん」
 最初に口を開いたのはミツルだった。小さな声が、店員の掛け声に所々負けていた。
「知り合い……つーかな。顔見知りって程度だよ」
 哲の低い声に、ミツルは微かに頷いた。ノンアルコールカクテルという意味があるのかないのかよく分からない代物のグラスを両手で弄っている。
「何かよくわかんないんですけど、秋野さんとあんまり仲良くないんですよ、武宏くん。でね、昨日も急に電話して来てそんなこと言い出して、それで、私もお父さんも秋野さん大好きだし、なんかわかんないんだけど、仲良くして欲しいって話したの」
 ミツルの話は半分は意味が分からないが、哲は黙って頷いた。ミツルは哲と目を合わせないまま、小さな声で続けた。
「なんか色々あったみたいで、武宏くん、私の知らなかったことも電話で色々教えてくれたけど。でもだからって秋野さんが悪いとも思えないし。それにそういうの全部考えても、……佐崎さんのことも聞いたけど、私、秋野さん大好きなんです」
 グラスについた水滴をきれいに指で拭いながらミツルは呟き、目を上げて哲を見た。
「佐崎さんの大事なひとって、秋野さんだったんですか」
「大事な、かどうかは疑問だな」
 哲の曖昧な返事にミツルの顔が僅かに歪んだ。肯定も否定もしない哲の真意をどう取ったのか、眉間に寄せた皺に申し訳ない気分にさせられる。
 あんな男など何とも思っていないのだと言ってやってもよかった。しかし、そういう言い方をすれば、それはそれで誤解を招き期待を抱かせるのは必至だった。
 秋野が哲にもたらすものをこの少女にどうやって説明してやればいいのか、自分の乏しい語彙ではどうにも間違って伝わる気がしてならなかった。それはまるで恋のように哲を駆り立てるが、それでいて恋とは程遠い何かなのだから。
「好きじゃないって、言いましたよね」
 ミツルは俯き、グラスを握り締めたままそう呟く。か細い声が、ちくりと微かな痛みを呼び起こす。
「言ったな」
「……嘘だったんですか?」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあ、佐崎さんにとっての秋野さんは何ですか? もう、諦めるから教えて」
 ミツルは顔を上げ、哲の目をじっと見つめた。きっと、風邪のようなものなのだ。ミツルにとって自分は、物珍しい年上の男。ほんの一時、麻疹にでも罹ったように熱を上げただけの存在に違いない。
 適当な言葉で誤魔化してもよかったが、しかし僅かな時間でも好きだと思ってくれた相手にそれは酷く不誠実である気がする。多分普段の哲を知る者には意外、と思われるに違いないが、それはそれで本心だった。
「あれが俺の何なのか、俺にもよくわかんねえんだよ」
 自分の声がいやに大きく響く気がして、哲は無意識に声を潜めた。
「好きとか嫌いとか、そういうのとはまるで違う。あいつがどこで誰と何をしてようが、俺は本当にどうでもいい」
 ミツルは真剣な顔をして哲の顔を見つめていた。
「独占欲も湧かなけりゃ、愛情も感じやしねえよ」
「でも、秋野さんで手一杯?」
 ミツルは、前に哲が言った言葉を覚えていたようだった。ミツルの可憐な唇から零れ落ちたその言葉は、自分が発したものとは意味合いが違って聞こえるような気がした。
「あれは、図々しくて質が悪い。傲慢でもあるな。他のものに気を取られてたら容赦しねえって……口に出して言うわけじゃねえが」
 哲の溜息に、ミツルは自分の髪の先を指に絡めた。綺麗に塗った淡いピンクの薄い爪。天井のライトに当たって煌く指先に、細い髪が巻きついている。
「……恋してるみたいに聞こえます」
「似てるかも知れねえけど、違うよ」
 哲の言葉に、ミツルはそっと目を伏せた。何となく手を伸ばし、目の前の小さな頭を撫でてやる。哲の無骨な指の下の滑らかな長い髪。
「ごめんな」
 聞き取れないほど低く呟いた哲の声に、ミツルの肩が微かに揺れた。

 

 ミツルは泣くだろうか、怒るだろうか。それとも嫌悪するだろうか。
 考えた所で埒もないことを、秋野は考えずにはいられない。自分から掛けた電話に出た加納は、どこか疲れたような投げやりな声を出した。郊外にある稼動していない工場の倉庫の中、話をするにはいささか侘しい場所ではあるが、内容に似つかわしいと言えばこれ以上の所はないとも言える。
 約束の時間より早く着いたにもかかわらず、加納はすぐに現れた。
「まったく、色々と掻き回してくれたよ」
 顔を見るなりぼやいた秋野に、加納も肩を竦めて見せる。
「俺は心臓が止まりそうなもんを見せてもらったよ」
 秋野の前に立つ加納は、珍しく邪気のない顔で困ったように微笑んだ。
「まさか、お前らがねえ」
 加納の想像は真実とは微妙に違うのだろうが、説明するのも面倒だった。何も言わない秋野の顔を窺って、加納は面白がるように口に出す。
「変わった趣味だな。えらく物騒だし」
「羨ましいならはっきりそう言えよ」
 面白くもなさそうに言う秋野に苦笑して、加納はその辺のビールのケースの上に腰を下ろした。長年放置されていたらしいそのケースはプラスチックが脆くなっているのか、加納の体重に盛大な抗議の声を上げる。
「羨ましくはないよ。興味深いけどな」
 秋野は腕を組んで壁に凭れ、加納の顔を見下ろした。加納の崩れた雰囲気は、荒れた建物によく似合う。
「俺の元カノの兄貴の親友」
「ややこしいな、何だそれは」
 眉を寄せた秋野に、加納は少し笑って見せた。
「あんたが殺ったチンピラの話だよ」
 秋野は小さく息を吐いた。色々とつっかかってくるわりには恨まれている気がしなかったのは、死んだ男と加納がその程度の関係だったからなのだろう。加納の顔を見つめながら、秋野は前髪をかき上げた。その手で顔が隠れる一瞬。その手の後ろの表情を、加納は想像もしないだろう。
「——復讐したい?」
「まさか。そんな親しかったわけじゃないし、どっちにしろああいう死に方しただろう。それでも関係ないとは言えないけどな。会った事もあったし、あんたに腹が立つって言うか、そういう気持ちは確かにあったよ」
 そう言うと、加納はほんの少し頬を緩めて語を継いだ。
「それに、あんたは俺の商売拡大の障害になるかも知れないからさ。うまいこと力を削げればいいなと思ったし、それにはいいネタだとも思った」
「ああ」
 言葉少なな秋野に加納は却って落ち着かないのか、何度も脚を組み替える。
「まあ、もうちょっかいは出さないよ。俺は俺であんたとかぶらない方に精を出すことにした」
 相棒もおっかねえし、そう言って立ち上がると、ジーンズの尻についた埃を手で払う。壁から背を起こさない秋野にすれた笑みを見せると、加納は白い歯を見せた。
「もう面倒かけないかわりに本当のこと教えてくれよ」
「何だ」
「携帯十五くらい、本当はすぐに仕入れられたんだろう?」
「さあな」
 秋野は軽く肩を竦めた。訊かれたからと言って答えてやらねばならない義理はない。肩越しに秋野を見ていた加納は顔をしかめると、小さく舌打ちした。
「食えねえ奴」
「お褒めに預かって光栄だね」
「吉川さんはさ」
 加納は小さく呟いた。
「親父の知り合いなんだ。俺はあの人もミツルも親戚みたいに思ってる。だから、あんたが昔のことは知らん顔して吉川さんとかミツルと付き合ってるのも実は腹に据えかねてな」
「……そうだな」
 僅かに笑みを零した秋野の顔を放心したように眺めながら、加納はもう一度呟いた。
「まあ、あの人達はあんたが好きみたいだから、もう何も言わないさ。実はミツルとちょっとやり合ってね。昔何したにしても、あいつはあんたのことが好きだとさ。俺が今更昔のことを持ち出してあんたを困らせるのは卑怯だと」
「そうか」
「けど、あいつは佐崎のこと」
 加納は言いかけて口を噤んだ。暫し困ったように黙り込んでいたが、秋野を見てもう一度口を開く。
「かわいそうなことをしたかも知れないけどな」
 秋野は何も言わなかった。何を言ったらいいのか、よく分からなかったせいもある。加納は緩く首を振ると、軽く手を上げて出て行った。秋野は溜息を吐くと、いきなり感じた疲労感に片手で顔を軽く擦った。

 

 ミツルを見送った哲の前をバイクが横切り、パトカーが拡声器で怒鳴りながら追いかけて行った。まだそれ程遅い時間でもないというのに、元気なことで結構だ。喧しい二台を見送りながら、哲は先ほどまで握っていた華奢な手の感触を思い出して息を吐いた。
「手を繋いでもらってもいいですか」
 ミツルの願いを断る理由はどこにもなかった。哲よりかなり小さくて、細い指の女の手。やたらと熱いミツルの手は、渾身の力で握り締めたら壊れそうな感じがした。男と手を繋いだことはないから比べることは出来ないが、やわらかなその感触はやはり手に心地いい。そんなことを思いながら、手首を掴む秋野の指を思い出す。硬く骨ばった長い指の、握り締める力の強さを。
 掌の中に包み込んでしまえるほどの繊細な手指。優しく温かな気持ちにさせる華奢な骨組み。
 骨も折れよとばかりに締め付ける硬く遠慮ないそれ。身体に食い込むいびつに曲がった鉤爪のように。
 どちらが恋に近いかと言えば、どちらも遥かに遠いことに変わりはない。それでも、上がる心拍数と、不快に蠕動する内臓の軋み。その興奮をもたらすあの男の手の方が、ほんの僅かに近いのかも知れなかった。恋と言う、不確かで利己的な感情に。
 哲の部屋へ通じる道の途中、当然のように、秋野はそこに立っていた。常と変わらぬ瞳の奥に僅かに揺らぐ後ろめたさは、ミツルに対するものなのだろう。
「俺が欲しいとかぬかすなら、弱気になるな、クソ虎が」
 哲が投げつけるように浴びせた言葉に、秋野は小さく頬を歪めた。
「俺だって弱い所くらいあるんだよ」
「何言ってやがる」
 すれ違う瞬間に伸ばされた指の先を、機先を制して振り払う。
「何もかもまとめて押し付けてくるくらい朝飯前だろう。そのくらい図々しい男じゃなかったのか、お前はよ」
 吐き捨てた言葉を聞いた秋野の顔が一体どんな表情を浮かべたのか。それは哲にはどうでもよかった。払い除けた指の感触。乾いた指先のもたらす何かに、ミツルの指の、温かな感触がゆっくりと消えていく。
 華奢な手が哲にくれた、柔らかく温かな何か。もう少しだけ、それを楽しんでもいいだろう。
 哲は振り返らずに歩き出した。秋野がついて来ているのかどうか。それは見るまでもないことだった。