仕入屋錠前屋54 果たされる約束 1

 結婚してくれと言われた。
 人生で二度目のプロポーズは、一度目と同じ人からだった。

 いつも優しい耀司の強張った顔に緊張を感じて、笑いそうになる。おかしかったわけではなくて、これもまた緊張の表れなのだろう。

「約束は、いいの?」
 答えず問うと、耀司は一瞬黙ったがにっこり笑って手を伸ばした。
「真菜、おいで」
 引き寄せられるまま体を預け、嗅ぎ慣れた首筋の匂いを吸い込む。安心して、目を閉じ耀司の声を聞く。
「果たした、つもりなんだけど。駄目かな」
「……そうだね」
 その先は、もう他人の関知するところではない。
 けれど、耀司が幸せを願うその人幸せを、私もまた願ってやまない。

 

 秋野は瞬きし、綺麗な薄茶の眼を瞠って真菜の顔をまじまじと見た。
 整った、それでいて虎か狼のような緊張感をまとった顔に凝視されると、慣れていてもさすがに落ち着かない。
 暫しそのまま固まって、秋野は不意に破顔した。
 その顔が浮かべた純粋な喜色、その秋野の笑顔の美しさに今度はこちらがあんぐりと口を開け、秋野は間抜けに大口を開けた真菜を力いっぱい抱き締めた。
「おめでとう」
 背が高い秋野に抱き締められると、まるで子供の気分になる。
 身体を離すと今度は髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回され、額に優しくキスされた。
「まったく、あの馬鹿は待たせ過ぎだ」
「そんなことないよ」
「おい、真菜がすげえ頭になってるぞ。直してやれよ」
 哲が言いながらソファにどっかりと腰を下ろす。そういう哲も目が笑っていて、嬉しくなる。
 秋野の長い指がもつれた髪を梳く。真菜はコーヒーを淹れてくると秋野の指から逃れ、キッチンへと撤退した。今すぐ秋野から離れなければ、感極まって泣いてしまいそうだった。

「本当は耀司から報告しようと思ってたんだけどね」
 クッキーの皿を差し出すと、哲がひとつ摘んで口の中に放り込んだ。
 甘いものが嫌いな秋野と哲のために焼いたのだと言うと、疑いもしないで口に入れる。実際チーズとナツメグを入れた塩味のクッキーなのだが、嘘かも知れないとは思わないらしい。
「哲……」
「あ? 何」
「嘘かもよ」
「何が」
「甘いかもよ」
「甘くねえっつったろ」
「言ったけど……」
「甘くなかったぜ」
「じゃなくて、疑わないのかなーって」
「嘘なら嘘でいいじゃねえの。疑うのが面倒くせえよ、俺は」
「どこまで面倒くさがりだ、お前」
 秋野が呆れたように哲の脛を蹴る。哲はコーヒーを啜り、うるせえ、と横目で秋野を睨んだ。
「で、耀司はどうしたんだよ」
「高校の時の担任の先生が亡くなったんだって。お通夜なの」
「慶弔一遍に来て忙しないな」
 苦笑した秋野が、煙草を銜えて火を点けた。哲は流れてくる煙を掌で払い、ソファに足を上げて秋野の腿を押しやるようにぐいぐいと押す。
「押すなよ」
「お前、邪魔」
「心にもないこと言うなよ」
「心に朱書してあんのが見えねえかなあ」
「見えないね。見せてくれ」
「どうやってよ」
「服脱げば」
「見えるか、阿呆」
「見えるかも知れないだろう。やってみたことあるのか」
「中学生みたいなこと言ってんじゃねえ、馬鹿」
「俺は中学には行ったことないんでね」
「誰もそんなこと聞いてねえ」
 まるで喧嘩のように見えるがそうではないのがいつもながらおかしくて、真菜は思わず吹き出した。
 哲は嫌そうに顔をしかめ、秋野は片方の眉を上げてほんの少し首を傾げる。
「だって、一見仲悪そうなんだもん」
「悪いっつうのに」
「おいおい、こんなに仲良しなのに、冷たいねえ」
「気色悪ぃ」
「どうして? 別にいいじゃない仲良くたって」
 真菜が言うと、哲は本気で嫌そうな顔をして煙草を銜えた。
 最近やっと、吸っていいかと訊かなくなった。幾ら言っても最初に訊くことをやめようとしなかったのは、どうやら元々の癖らしい。
「てめえみたいなのと仲良しごっこする気はねえんだよ」
 吐き捨てるような物言いにもすっかり慣れた、と改めて思う。当初は少し愛想がないと思ったその言い方も、最近は可愛い、などと思ってしまう。
 耀司に言ったら、みんな秋野に毒されてる、と言って笑われたが。
 真菜がコーヒーカップを持ち上げると、秋野がつられたように真菜の指先に視線を向けた。多分無意識なのだろう、自然に逸れていくそれを感じながら、左手の薬指に何となく眼をやった。
 ここに金属の輪を嵌めるのとそうでないのと、生活は変わらないのに確かに何か変わるのは、責任とか義務とか、心のありようとか、多分そういうことなのだろう。
 今でこそ夫婦同然の暮らしをしながら、それでもどこかにある人生への気安さは、やはり恋人同士であって夫婦ではないということだ。
 本人達に言えば怒り狂うかもしれないが、そういう意味では秋野と哲こそ余程夫婦に近いと思う。
 相手に対するある種の無関心からも分かるように、愛情がない関係を夫婦に例えること自体間違っている。本人たちが主張するように、傍目から見てもそこに砂糖のように甘い感情は見当たらない。だから、あくまでもある一部分のことでしかないのだが。
 例えば相手を自分の物にしたとして、秋野と哲にはそこに発するすべてを背負う覚悟があるように真菜には見えた。
 楽しいことばかりではない。苦しさも目を背けたくなるようなこともすべて飲み込み、そうしてそれでいいんだと断言出来るに違いないこの二人を、羨ましいと思わずにはいられない。
 自分と耀司はお互いの人生に責任を持てるのか。
 クッキーを指の先でつつきながらぼんやりと考える。真菜がつついていたクッキーを秋野が取り上げ、口に運ぶ。
「どうした?」
 目敏い秋野は真菜にやわらかい笑みを向けた。考えても仕方がない。少なくとも耀司には、自分でした約束を守りきる意志の強さがある。秋野にしても哲にしても、そして耀司にしても、決めたことは最後まで責任を持つ、そういう資質があるのだろう。
「耀司にね、何年も前にプロポーズされてたの、実は」
 哲が吐き出した煙が秋野の顎の下を流れていく。窓の外から男女の言い合う声がした。
「何だ、そうなのか。じゃあ何で今まで?」
「耀司が、自分と約束したから。それを果たすまで結婚できないって、それが嫌だったら別れてくれって言われたの。で、今に至る」
 哲も秋野も怪訝そうな顔をしていた。耀司の一人がけソファのへこんだ座面に目をやって、真菜はごめん、と心の中で拝む真似をする。
 本当は言うべきではないかもしれないが、どうしても知っていて欲しいと思うし、多分耀司は自分からは言おうとしないだろう。真菜は視線を秋野に戻し、口を開いた。
「多香子さんが利香ちゃん置いて出て行ったときに、言われたの。秋野がほかの人を好きになって結婚するまで、俺も結婚しない、秋野が幸せになってからじゃないと絶対に結婚しないって、自分と約束したんだって」
 秋野の顔が一瞬で青ざめ、僅かに歪む。長年秋野の顔を見てきたが、こういう顔を見ることはあまりない。
 真菜は思わず目を逸らして哲の顔を見た。哲は煙草を銜え、唇の端から細い煙を吐き出しながら、泣きそうな秋野の顔を黙って見ていた。
「私と結婚しても、死んでも浮気しないんだって。のろけじゃないのよ。信じてた人に裏切られたらどれだけ辛いか、どれだけ傷つくか、秋野を見ててよく分かったから。あんなに苦しむ姿見ちゃったら誰かに同じ真似は絶対出来ないって」
 冷蔵庫のモーターの音、キッチンで回る換気扇のかすかな音、秋野の静かな息遣い。
 長い間変わらなかった日常は、静かに煙を吐いている哲が秋野の前に立ったその日から、少しずつ動き始めていたに違いない。
「……馬鹿なやつ」
 真菜は、秋野の低い呟きに目を上げた。片手で額を支え俯く秋野の頭のてっぺんが目に入って、おかしなことだが子供が泣いているのを目にしたような気分になった。
「秋野と哲が恋愛してるわけじゃないのは耀司もちゃんと理解してるよ。子供のときからずっと秋野を見てるんだから」
 哲が、長くなった灰を灰皿の縁で擦って落とす。真菜を見た目は特に普段と変わらない。冷静なそれは一瞬真菜の上に留まって、俯く秋野の頭を支える手の甲に注がれた。
「だけど、哲がいるからいいんだ、って。哲がもし秋野に興味なくして、でも秋野はそうじゃなくて揉めたとしても、哲は秋野の信頼を裏切ったりしないから。人間の関係はいつか変わるし、終わるけど、少なくとも哲はそういう傷つけ方だけはしないはずだから、安心していいんだって」
「——買い被りすぎだろ」
「でも、私もそう思うよ、哲」
「…………俺はこいつの人生引き受ける気はねえぞ」
「いいんじゃない、それでも」
 秋野が緩慢な動作で顔を上げ、哲が煙草を揉み消した。
「秋野も哲も、お互いの一部みたいなもので、預かったり預けられたりするのは違うでしょう。不思議ね、お互いこれ以上ないっていうくらい自立してるのに、そんなふうに見えるのって」
 自分の膝を見つめる秋野とこちらを向いている哲の視線は合っていないのに、二人の間にある張り詰めた緊張感が目に見えるような気さえする。
「新しいコーヒー落としてくるね」
 真菜はカップを盆に載せて立ち上がった。哲が、テーブルの上に落ちていたクッキーの小さな欠片を拾い上げて屑入れに落とす。紙屑に当たった欠片が微かに硬い音を立てるのが聞こえるような沈黙の中、哲の手がそのまま伸びて、泣くのを堪えたままの秋野の髪を崩すようにして乱暴に撫でた。