仕入屋錠前屋53 共鳴 3

 仙田の部屋の前に辿り着いたときには、葛木も仙田も大分息が上がっていた。ぜえぜえと喉を鳴らして無様な呼吸を繰り返しながら、鍵を開ける仙田の後姿をぼんやり眺めた。
 膝に微かな痛みがあったが、多分明日には治るはずだ。速度も距離も、選手時代の練習には遠く及ばない。
「前も思ったけど……お前走るの早いよな」
 部屋に上がる仙田の背に話しかけながら、スニーカーを脱ぐ。久しぶりに上がる仙田の部屋は、煙草と、太陽で温められた埃の匂いがする。
「——俺、ずっと陸上部だったからね」
「嘘、マジで? 俺も」
 仙田が振り返り、突然葛木を抱き締めた。やっぱりこいつは宇宙人だ。
 訳が分からなくて何も言えない葛木の額に仙田の前髪が当たる。近すぎて顔はまったく見えなかったが、見えても別にいいことはない。まだ息が整っていない仙田の肩が微かに上下しているのが伝わってきて、妙な生々しさと温かさに葛木は身体を竦ませた。
「葛木」
 押し当てられた額から、振動が伝わった。
 仙田が上がる息の間に吐き出した呟きが、骨を通じてこちらに伝わる。まるで共鳴しているようだという言葉が脳裏に浮かび、葛木は慌ててそれを打ち消した。
 仙田と共鳴なんて、冗談じゃない。こんなわけのわからない奴と共鳴だなんて、まるで宇宙との交信だ。
「葛木」
 もう一度、仙田の声が頭蓋骨の奥へ伝わって、どうしてか目の奥がかっと熱くなった。
「誰だって、どうにもならないときがあるんだよ。どうにかしなきゃ、とか、こんなことしてちゃ駄目だ、って思っても、それでも身動きできないときが」
 いつもとそう変わらない口調なのに、声だけが少し低い。
「葛木は、浮気した奥さんの彼氏、自分みたいだって思ったんでしょう」
「……違う」
「嘘つき」
「嘘じゃねーよ。それより暑苦しい、離れろよ!」
「喧嘩なんて出来なくていいんだよ。逃げることだって、選択肢のひとつに変わりない」
 葛木は唇を噛み締めて仙田の腕の中で俯いた。
 確かに、仙田の言うとおり、若い愛人を自分に重ねていた。立ち向かうべきときに立ち向かえもしない、そんな情けなさとガキくささが自分とよく似ていると。
「……ゆう」
 仙田の唇から発された音が自分の名前だと、一瞬気付かなくて葛木は眉を寄せた。気づいた瞬間何故か猛烈な羞恥に襲われて、顔に血が昇るのが分かる。
「葛木の名前、いい名前だよね。優しい? それとも優れている? 俺にはわかんないけど、葛木が可愛がられたんだなって何となく想像できる。葛木が産まれて、ご両親は喜んだんだろうなって」
「——知らねえよ、そんなの」
「そうやっていろんな人に大事にされてるんだから、自分を嫌いにならないで」
「お前、前にもそんなこと言ってたけど」
 葛木は仙田から離れようと身を捩ったが、大きな掌に肩を掴まれていて果たせなかった。
「見せようか」
「は……?」
「前に訊いたよね、何で刺青入れてるかって」
 不意に緩んだ仙田の手が引っ込められ、額もまた離れていく。顔を上げた葛木を覗き込むように見つめる仙田の目は、嘘のように真剣だった。
 仙田は何も言わず、突然上半身の服を脱ぎ始めた。
「おま、何」
 言いかけて、口を噤む。
 左腕が、肩から手首まで刺青に覆われているのは知っている。夏場は露出するから、隠しようもない。
「それ……」
 肩から、胸へ。
 鳩尾から腹へ。
 うねるように、渦を巻くように。
 まるで仙田の肌に這う蔦のような刺青は、半身を覆っていた。
 考えてみれば、短期間だが同居していたというのに、仙田の裸を見たことはなかった。見たいとも思わないから気にしたことはなかったが、敢えて隠していたのだと、今更気付く。
「そんなもの、」
「こんなもの入れて、死ね、って親父に言われた」
 仙田は笑って、ジーンズを少し下げてみせる。蔦はジーンズのウエストの下にまだ見えた。
「銭湯も温泉も行けないんだ、俺。親父がさ、お前はヤクザか、親の顔に泥を塗るのかって。あ、俺の親父ね、官庁にお勤めだからね。お堅いんだよねえ」
 そういう問題ではないだろう。
 さすがに子供に死ねとは酷すぎるが、堅気の息子がこんな刺青を入れてくればどんな親だって仰天して度を失うに違いない。いや、それにしたって死ねはないが。
 何を言えばいいのか分からない葛木の前で、仙田は項垂れ、微かに笑った。
 思わず伸ばした指の先で、鎖骨の下の蔦を辿った。他人の皮膚の上という感覚は余りない。何か——紙でも陶器でも何でもいい——の上に描かれた絵に触れているような錯覚を覚える。
 当然だが、皮膚に盛り上がりは特にない。それでも、入れた当初は多分腫れただろう。葛木は今まで刺青を入れた人とお付き合いは一切なかったが、そのくらいは誰でも知っていることだ。
 時間をかけてこれだけのものを彫る。その痛みや煩わしさを我慢できるのは、自分が入れたいから、普通ならそれに尽きる。そのはずだ。
「死ね、なんてな」
 指を引っ込めて言うと、仙田が皮肉に笑って肩を竦める。
「まあ、さすがにほんとの本気じゃないと思うよ。一応我が子だからさ」
「お前、それでどうしたんだよ」
「ええ?」
 仙田は相変わらず穏やかな顔で、ほんの少し目を細めた。
「どうしたって、別に? そのまま出てきて何年も帰ってないけど、そんだけ。俺結構喧嘩強いんだよ、錠前屋さんみたいに人並み外れてるわけじゃないけどね。親父よりでかいしさあ、怪我させても仕方ないじゃない。腐っても親子なんだから」
「分ってたことじゃねえの。こんなの、普通」
「うん。だから」
 仙田は長い前髪の後ろの眼を床に向け、唇のピアスを、指の先で軽くつまんだ。
「これもそうだけど。なんて言うかな、怒らせたかったんだよね。反抗なの、要するに。グレるほど真っ直ぐじゃなかったの、俺」
「…………」
「俺ずっと成績良かったんだよ、嘘みたいでしょ? すっげえ厳しかったんだもん、親が。中高一貫の進学校でね、大学も当然六大学じゃなきゃ許さんとか言うわけ。でも絵が好きでさ、親と大喧嘩して美大受けて、でもやっぱり中途半端でろくでもないことし始めて。友達に刺青彫らせてくれなんて冗談で言われて、あ、いいよ、じゃんじゃん彫ってって。友達もびっくりしてたよ。今思えば馬鹿みたいだけどさぁ。死ねって言われて、がーって血が下がっていくの分かった。で、ああ、俺は親じゃなくて自分が嫌いだったんだなあって痛感したんだけど。分かったからっていきなり今まで嫌ってた自分を好きになれるもんでもないし、余計嫌いになったぐらいでさ」
 仙田の奥二重の目が、葛木を真っ直ぐ見つめて瞬いた。
 長い前髪は、上唇にかかるくらいある。完全に容貌を隠すわけではないその前髪は、それでも、他人が想像するより多くのものを隠しているのかも知れなかった。
 仙田が息を吸い込むと、腹筋と一緒にその上の蔦が動く。
「葛木って陸上やってたんだね」
「……膝悪くして、高校でやめた」
「そうかあ、だから俺に追いつかれて泣いちゃったのか」
「馬鹿」
 仙田は微かに笑うと身を屈め、脱ぎ捨てたTシャツを拾い上げた。何かを考えるように首を傾け、仙田は一歩葛木に近寄った。
 Tシャツをまた床に落とした仙田の手に、もう一度肩を引き寄せられる。されるままになっている自分を不思議に思いながら、何故か身体は動かなかった。
 鼓動、呼吸、声。
 人の身体は、こんなにも音が響くものなのか、とまた思う。
「葛木」
「何だよ」
 水道管に残ってでもいたのだろうか。シンクに水が垂れる音がした。
「自分を嫌うなよ」
 がらりと変わった口調に、耳を疑う。いつもの仙田の声なのに、落ち着いたそれはまるで別人の台詞に聞こえた。
「自分が嫌いっていうのは、自分への無関心に続く道だからな。俺が刺青なんか平気で入れたのもそうだし、葛木に仕事頼まれたとき最初にあんなマネしたのも、自棄みたいなもんだった。いい事なんか何もない。自分が好いてやれない自分を、どこの誰が好きになってくれる? 一体誰に、好きになってくれって自分を差し出せる? したくても出来なくなる。そういう人間にはなるな」
 多分、仙田の暗部は、自分には理解できない。
 シンクの底を叩く水滴の不規則な音が、また響いて止まる。部屋の中の静寂と裏腹に、身体を、骨を通して共鳴するように、心臓が、血管が、神経が軋んで仙田の中の忌まわしい何かが泣き叫ぶ声を聞いた。
「俺は……お前のこと、好きだと思うけど」
 葛木の肩に回った仙田の腕に力が籠る。葛木は、仙田に身体を預けて眼を閉じた。
「訳わかんねーことばっか言うし、むかつくけど。嫌いじゃねーよ、今は」
 泣けないのだと、不意に悟った。仙田の前で子供のように泣いた自分はまだ幸せだ。いつもへらへら笑うばかりの仙田は多分、上手に泣く事が出来ないのだ。
 蛇口から滴る水音が、仙田の涙の音に思える。微かに震える背に恐る恐る手を回し、葛木はひとつ小さく息を吐いた。
 流されるまま流されてきた人生に、これと言って意味があったのか。
 人一人の人生に、何の意味もないはずがない。
 立ち向かうべきだったと後悔が出来るのならまだ先はある。そういう自分を許してやれるならまだ余裕がある。
 肋骨という檻の中で響く仙田の心臓の音。重なるように聞こえる己の心音。
 葛木は不意に射し込んだ光明に、何度か瞬きして息を呑んだ。
 誰かと共鳴できるのなら、まだ、生きていく意味がある。

 

「どうも」
 調査事務所の入り口に立っていたのは錠前屋だった。今日は随分気温が下がったが、薄着で何でもない顔をしている。物珍しそうに辺りを見回す錠前屋に、葛木は慌てて部屋の中を指した。
「昨日は——ええと、あの、どうぞ」
「何だよ、そんな動揺すんなよ」
 苦笑して、錠前屋は事務所の中に入ってきた。マツさんは出掛けているから、却って気兼ねがなくてほっとした。勿論、錠前屋にとってはどうでもいいことだろうが、葛木にとってはそうでもない。
「コーヒーかお茶か……」
「あ、いらねえ。すぐ帰るからお構いなく」
 伝法なのか丁寧なのか今ひとつ分からない。多分年下だと思うのだが、物怖じしない態度といい妙な老成っぷりといい、仙田とはまったく違う意味で酷く落ち着かない気分にさせられる男であった。
 錠前屋は灰皿を引き寄せ、煙草を銜えると眼を上げた。
「座れば?」
「ああ……はい」
「俺相手にはいじゃねえっつーの」
 呆れたようにそう言って、錠前屋は煙を吐き出した。勢いよく吐き出された煙はすぐに消える。
「昨日はどうも有り難うございました、俺」
「結果だけ言うと、安永はあんたに今後一切構わない。勿論、下についてる奴も同じだ」
 何を言っているのか分からなかった。葛木の言葉を遮って言い、錠前屋は面白くもないといった顔をして煙を吐き出す。
「……え?」
「事情は聞きたきゃ仙田に聞いてくれ。わざわざ俺から言うことでもねえし」
「仙田に」
「クソ虎から話が行ってんだろ。俺はただ、あんたの顔見ようと思っただけだ」
「俺の顔——?」
「あんまり考えすぎても仕方ねえからよ。平気そうだからよかったけどな」
 煙草を灰皿で消し、じゃあ、と言うと呆けたままの葛木をおいて錠前屋はさっさといなくなった。階段を降りる微かな足音はすぐに聞こえなくなって、彼がそこにいたのが夢だったかのようにさえ思えてくる。
 錠前屋の言葉の意味が徐々に頭に沁みこんで、信じられない思いに眼を瞠った。彼の残していった吸殻にまるで世界の真理が記されてでもいるように、葛木は何故かそこから目が離せない。
 一生とは言わずとも、安永のところとは暫く揉めるのだと思っていた。こんな呆気なく解放されて、嬉しいよりか驚いて言葉もない。昨日、葛木と仙田が走り去った後あの場で何があったのか——。
「いやあ、今、驚くことがあったよ」
 ドアが開き、マツさんが興奮気味に駆け込んできた。物思いを破られて、葛木は思わず飛び上がる。
「うわびっくりした!」
「ああごめんごめん! それが今、下でササキと擦れ違ってねえ。いや、もう十年以上見てないけどすぐ分かったねえ」
「はい? 誰ですか」
「この間話した、喧嘩の馬鹿強い子だよ。このビルから出てきたけど……」
「すいませんちょっと電話してきますっ」
 話し続けるマツさんに言い残し、葛木はどたどたと階段を駆け下りた。最後の段を踏み外し、つんのめって転びそうになりながらも携帯を取り出した。電話帳から探すのももどかしく、着信履歴を呼び出す。コール音が二回鳴って、相手が出た。
「今、今錠前屋が来てっ」
「仕入屋さんから伝言でーす」
 すっかりもとに戻った仙田の呑気な声がする。
「そのいち、葛木がもしもお礼を言ったなら」
「俺、お礼も言えなくて……え!?」
「余計なお世話だ! って怒るくらいにならないと駄目、だって!」
「…………」
「そのに、葛木がお手数をかけて申し訳ないと言ったなら。あんたはそんな大物じゃない」
「………………」
「小物だから簡単に許される。それだって幸運のひとつなんだって、覚えとけ。だって!」
 上着も着ずに突っ立つ葛木の足元を這うように冷たい風が吹きぬけていく。既にかなり遠くに見える錠前屋の背中は、相変わらず付け入る隙だらけのようでいて、ぎりぎりまで何かを削ぎ落としたように鋭くも見えた。
「葛木?」
 仙田の声が耳の中で訝しげに何度も響く。奥村をのした後錠前屋がどうしたか、仙田が一所懸命説明しているのは分かったが、うまく頭に入ってこなかった。
 何もしないで、解決してもらっただけの情けない自分。昨日までなら、ここでまた一頻り悲しくなったに違いない。最前の葛木の勢いに驚いたのか、マツさんが階段の半ばまで下りてきたが、電話を耳に当てた葛木を確認するとにっこり笑って戻っていく。マツさんは、葛木に屈託なく笑いかける。少なくとも、マツさんは自分を好いてくれている。
「ねえ、また色々してもらうばっかりだとかって思うなら——」
「すっげえ、いい気分」
「え?」
 葛木は、肌寒い空気に鳥肌の立った腕を持ち上げて、伸びをした。
 いきなり変わることなど出来はしない。情けない自分は多分いつまでも情けないに違いない。走れない膝を抱えて泣いたあの日から、少しも成長していなかった自分自身を変えていくのは容易ではない。
「お前さあ、共鳴って知ってる?」
 仙田の面食らったような声がする。
「ええ? あれ? あの刺股の先みたいなやつチーンってやったら」
「さすまたって…………いや、別にいいけどさ」
「それがどうしたの」
「うーん、わかんねえ。お前宇宙人だけど、音叉みたい」
 何言ってるか全然わかんないよ、と拗ねた声を出す仙田を笑い、夜にでも話を聞かせろと言って電話を切った。
 良いところばかりが共鳴するわけではないのだ、と思う。上っ面の下に無理矢理押し込んだ醜い部分が共鳴し、噴出することもある。それだけなら救いがないが、それでお互い膿を出して、某かの光を見ることが出来るとしたら、悪くはない。
「いや、宇宙人だからなのか」
 溜息を吐き、苦笑しながら踵を返した。指の先の絆創膏に眼をやって、そういえばササキって、と今更ながらに気がついた。
 思わず吹き出し、マツさんに知り合いだって教えてやろうと階段を上る。勿論錠前屋だとは言えないから、友達の友達と言うしかないけれど。
 仙田の家に行くときにホカ弁を買っていってやろう、と思いつき、葛木は頭の中でメニューを捲る。
 決して楽しいわけではない。
 酷く温かな気分なのは、きっと頭の中の弁当のせいに違いない。