仕入屋錠前屋54 果たされる約束 2

「すげえ、可愛い。どうしよう秋野!!」
「少し落ち着け、耀司」
 耀司はこちらが見ていておかしくなるくらい動揺していて、真菜は本気で笑ってしまった。
 男三人に付き添われてドレスを試着する女の子はあまりいないのだろう。店内の他のカップルも店員も、時折物珍しそうな視線を寄越す。
「どれが一番いいと思う?」
 三着目になるドレスの裾を摘みあげて訊くと、耀司はうろたえて真菜、秋野、哲、それから店員の女性の顔を順に見回した。
「全部!」
「もう、耀司ってば」
「だって全部綺麗だし、選べない。無理!」
「仕方ないですよ、真菜さんがお綺麗だから迷われるんですよね」
「断言すんじゃねえよ。お前の嫁だろうが」
「お前が選んでやらなくてどうするんだ」
 店員のフォローも空しく哲と秋野に同時に突っ込まれ、耀司はえー、と口を尖らせる。
「まったく、役に立たんな」
 ため息を吐いた秋野に少しばかり媚を含んだ目で、店員がじゃあお兄さんはどれがいいと思いますか、と声をかけた。 来客は結婚を控えたカップルばかりの店に結婚指輪のない秋野みたいな男が現れれば心浮き立つのが女というもので、彼女の反応は当然だ。秋野も愛想のいい笑みを浮かべる。
「デザインはさっきのが一番いいと思うけど……もう少し白が柔らかいほうがいいと思うな。どれも漂白したみたいに真っ白すぎて安っぽくない?」
「うーん、確かに、そう見えるかも知れませんね。真菜さんは色が白くていらっしゃるので……」
 カタログを捲りながら、秋野は首を傾ける。
「このページの……これとこれは?」
「こちらですね、真菜さんにも気に入って頂いたんですけど、ご希望のプランには入っていなくて。というより、このシリーズはプランには入れていないんですよ。単品の貸し出しのみなので、金額的にかなりのご負担が——」
 真菜にも、同じように言ってくれた。むやみやたらと高額商品を薦めない良心的な店員だと思う。申し訳なさそうな彼女に、秋野は低く甘ったるい声で囁いた。
「どうしても変えられない?」
「いえ、あの……」
「追加料金どれくらいかかります? 弟にも彼女にも一生に一度のことだし、何とかしてやりたいんだけど……ええと、お名前何ておっしゃるんですか?」
 秋野は店員の腕に軽く触れ、ドレスが何着も下がる壁際のハンガーまで連れて行く。時折屈んで彼女の耳元に何か言っている。そのたびに彼女の頬が赤くなる。
 呆れて見送る真菜と耀司の視線を受けて振り返り、哲はにたりと笑った。
「ちょろいちょろい」
「あのねえ……」
「あの馬鹿だって嬉しいんだろ、放っとけ。金出せばお前らのことに口挟むことになるから、あいつなりに遠慮してんだ」
 哲はそう言い、店のサービスの紅茶を啜る。ダージリンのファーストフラッシュ、いい葉のようでなかなか素敵な香りがするのに、どうやら紅茶の味が分からないらしく、哲は薄い色の液体に口をつける度、眉を寄せて首を捻った。
 秋野と店員が戻ってきて、プランの追加料金の話が始まった。真菜は最初に提示された料金との差に耳を疑いながらも、説明されるそれに頷いた。
「そうそう、耀司さんのタキシードはどうされますか? 今日決めていかれますよね」
「うーん、俺は何でもいいです。秋野と違って何着たっておんなじ」
「そんなことないだろう」
「そうですよ! 三人ともそれぞれお似合いになりそうですよ」
 秋野はうっすら笑みを浮かべ、耀司はそうかなあと首を傾げ、哲は興味なさそうに鼻を鳴らす。三者三様の反応に吹き出して、真菜は嵌めたままだったレースの手袋を片方ずつ引っ張った。
「哲だって、結婚するときは着るでしょ」
 冗談のつもりで、他意はなかった。真菜の台詞に哲がはぁ? と気の抜けた声を出す。椅子から半分ずり下がっただらしない姿勢で紅茶のカップをソーサーから持ち上げ、また下ろして哲はちょっと唇を曲げた。
「……着ねえ、かも」
「何で?」
 ついつい、訊いてしまう。
「——似合わねえだろ」
「そんなことないですよ!」
 店員がフォローする。
 哲は何も答えずに、ただ真菜に向かって僅かに肩を竦めて見せた。

 真菜はドレスを脱ぎ、試着用の下着を自分のものに取り替えて試着室から外に出た。
 普通の洋服と違って下着から取り替えねばならないから時間がかかるし、実際ドレスは結構重たい。秋野のお陰で素敵なドレスが着られそうだが、その分増えた試着にどっと疲れた。
 耀司は壁際のハンガー前で、ほんの申し訳程度のバリエーションで用意されたタキシードを店員と二人、腕を組んで眺めている。椅子に座って脚を組んでいる哲の横に秋野は見えない。
「あれ、哲、秋野は」
「電話しに行った」
「誰から?」
「知らね。仕事じゃねえの」
 心底興味なさそうに短く言い、哲は右足の爪先をぶらぶらと揺らした。
「ねえ、哲」
「ん?」
「結婚しようとか思う女の人はいないの?」
「今はいねえな」
「これからは?」
「さあ。分かんねえよ、そんなの」
「そうだね」
 哲は怪訝そうに眉を上げ、真菜の目をじっと見つめた。
 鋭くて、どこか剣呑な哲の視線。秋野とは違って覆うものの何もない、剥き出しの凶暴さが確かに見える。それでも、その部分を実際に真菜に見せることはないだろう。隠しているわけではない、それは哲の理性、そして優しさの一種なのだと分かっている。
 テーブルの上のドレスのカタログを引き寄せ、真菜は適当にページを繰った。
 哲の視線が真菜の額の辺りに当たっている。ボリュームを絞って流れているBGMに今頃になって気がついた。
「結婚、させてくれないかもよ」
「……あいつがか」
 低い声に含まれた僅かな感情の揺らぎ、その根元はどこにあるのか。真菜にはよく分からない。
「そういうことでしょ、さっきの」
 哲は顔をしかめ、口を噤む。沈黙が肯定だというのは、大抵は真実だ。
「ねえ哲、お願いがあるの」
「何だよ」
「約束してくれなくていいから」
 試着室から出てくるのを見計らって出されたらしい紅茶を取り上げ、一口飲んだ。カップの縁についた口紅を指で拭う。何故か哲が眩しいものでも見るように目を細め、真菜の指先を暫し見つめた。
 ガラスの扉の向こう、こちらに背を向けた秋野の背中が真菜から見えた。哲は気にもならないのか、秋野の姿を探しもしない。
「傍にいてあげてね。哲が飽きるまででいいから」
「……明日には飽きてるかもしんねえぞ」
「それでもいいよ」
 店内に流れる曲が終わり、つかの間静寂が訪れた。すぐに響き始めた旋律に、客の幸せそうな笑いがかぶる。
「余計なお世話とは思うけど。秋野は、言えないかもしれないから」
「何を?」
 尋ね返す哲の声は低い。
「素直に、ここにいて欲しい、って」
「言ってたぜ」
「え?」
「傍にいてくれって」
 思いもよらない言葉にカタログを繰る手を止めて哲を見る。哲は相変わらずの仏頂面で、特別なことを言ったという顔もしていなかった。
「眠れねえんだってよ」
「——秋野が、自分で言ったの」
 正直、信じられないことではあった。だが、哲の言葉に嘘があるわけもない。耀司は正しかったのだとふと思い、真菜はこみ上げる何かを無理矢理喉の奥に押し戻した。
 耀司の大事な秋野は、いつの間にか自分にとっても酷く大切な存在になっていた。彼がどういう思いでそんな言葉を口に出したか、想像するだけで胸が痛くなる。
「あいつが約束しろっていうなら、約束してやってもいい」
 ガラス戸を開け、秋野が店内に一歩踏み込む。
 背中を向けているのだから見えていたわけでもないだろうに、哲の雰囲気が途端に変わるのを目の当たりにし、真菜は思わず固唾を呑んだ。
「飽きるまで、傍にいてやっても構わねえよ。見返りは、何だろうな? ただじゃ約束できねえが、あいつが差し出すものによっては契約してやる。それが、俺の欲しいものなら」
 唇を歪めて凄絶な笑みを見せる哲は、さっきまでと何も変わらず、そして明らかに違っていた。
「俺も、あいつの欲しがるものをくれてやる」

 感動、と言ったら語弊があるのかも知れない。だが、とにかく何か強烈に胸に迫るものを感じた気がする。
 真菜は微かに震える指先を温かいカップに押し付けた。視界が滲んで慌てて何度も瞬きした。
 もう随分前になる。秋野は哲が欲しいんだって、そう呟いた耀司の声が頭の中で再生された。欲しいものなんて何一つないって、長い間本気で言い続けてきた秋野が言うんだ。哲が欲しくて気が狂いそうだって、そう言うんだ。
「何の話だ?」
 背後に立った秋野を見上げ、哲はゆっくり瞬きした。まるで威嚇するような苛烈な視線に、秋野の表情が微かに動く。
「お前が俺に何を差し出せるかって、そういう話だ」
「……真菜、何のことだ」
 真菜は秋野の薄茶の目を見返した。多香子を失って荒んだ秋野も近くで見ていた。一見変わらないこの瞳が、暗い底なしの淵かと思えたあの頃を思い出す。
「秋野、哲にプロポーズしてみたら」
「何だそれは」
 嫌そうに眉を寄せた秋野が立ったまま哲と真菜を交互に見た。プロポーズなんていうのは、正確じゃない。分かっていたが、他に言葉が浮かばなかった。
「ずっと傍にいてくれって、約束してくれって言ってみたら」
 立ち上がって、秋野を見た。
 赤の他人から見たら完璧なポーカーフェイスに微かに浮かぶ動揺が、秋野を酷く人間らしく見せていた。耀司が立ち上がった真菜に気づいて手招きする。多分、どれがいいか選んでくれというのだろう。
 秋野の発言を待たずにテーブルを離れ、真菜は耀司に微笑みかけた。
 秋野が何を言おうと言うまいと、受け止めるのは自分ではない。
 耀司が果たした約束を、秋野がどう受け止めるかも。

 

 目の前にいる、大事な人が差し伸べる手をそっと掴む。
 これから色々なことがあるでしょう。だけど、私はあなたに約束します。ずっと傍にいることを。
 果たされる約束のその先も、いつまでも。