仕入屋錠前屋53 共鳴 2

「ちょっと葛木何その顔!?」
 仙田の素っ頓狂な声に、周囲の視線が一気にこちらに向けられた。
 海外のロッカーのようななりの仙田と、顔と手が絆創膏だらけの葛木から、集まった視線が今度は一斉に逸らされる。どうせろくでもない人種と判断されたに違いない。今更仕方がないことだが、それでもやはり腹が立つ。
「お前声大きいんだって!」
「だってそんな傷作って、喧嘩!?」
「違う、階段から落ちたんだっ!!」
 思わず大声を出した葛木の脇をすり抜けようとしていた女の子が足を止めて吹き出した。
「あ、ごめんなさい」
 二十代の半ばくらいか、可愛い子だ。肩の上で揺れるカールさせた髪が女らしい。
「お大事に」
 にっこり笑って去っていく黒と白の幾何学模様のワンピース。ぼんやりその背を目で追っていると仙田が葛木の腕を掴んだ。
 眼を上げると、仙田の奥二重の目が怒ったように葛木を見下ろしている。
「葛木、」
「何だよ、離せよ。まったくもう、お前のせいで笑われただろ」
 腕を振りほどいて歩き出すと、仙田は口の中でぶつぶつと何か呟きながら距離を置いてついてきた。五十メートルくらいそのまま歩き、距離を開けたままの仙田に苛立って葛木は肩越しに振り返った。
「何やってるんだよ、歩くの遅いなお前」
「……じゃない」
「は?」
 距離があるからよく聞こえない。訊き返す声がついでかくなる。
「何?」
「そっちじゃないよ、方向反対!!」
「…………」
 早く言えよ、と肩を落とす葛木を見て仙田は少し首を傾ける。いつもならへらへら笑うその場面で、仙田はまだ口をへの字に結んでいた。

 たまには飲みに行こうと誘われたのは浮気女に突き飛ばされる前だったし、わざわざ電話をして俺実は怪我しちゃった、なんていうのもおかしいだろう。そう思って事前には何も言わずに来たのだが、それが間違いだったのかも知れない。
 居酒屋でも仙田はまだむっつりしていた。黙々とビールを飲み、飯を食う。注文した料理はあらかた空いて、何故か半端に残った大根サラダが片付かないでテーブルの真ん中に鎮座している。
 確か、錠前屋、とかいう人だったか。前に一度会ったことのある仕入屋の仕事仲間がカウンターの裏から出てきて驚いたが、仙田は知っていたらしい。
「よお、珍しいな。不機嫌そうな面してよ」
「不機嫌そうなんじゃなくって不機嫌なの、俺は」
「あ、そう」
 仙田を軽くあしらった彼は既に私服に着替えていて、今から帰るところのようだった。
「だって見てよ、この葛木の顔! 階段から落ちたなんて言って誤魔化そうとするから」
「誤魔化してねえよ! 本当だって」
「だってそれどう見ても引っ掻き傷——」
「あーもううるせぇなあお前はよ」
 錠前屋はすぱーんといい音を立てて仙田の頭を引っ叩いた。
「本人が落ちたっつーんだから落ちたことにしとけ」
 そういうと肩を竦めて仙田の横の椅子を引き出して腰を下ろし、煙草を銜える。それにしても仕入屋といい彼といい、弟子入りしたいくらい仙田の扱いが上手いのは何故だろう。
「痛いなあ、もう……それはそうと、もう帰るの? 珍しいね」
「ん? ああ、用事あってな。早上がり」
「ああなんだ、仕入屋さんとデートか」
「てめえ大根顔で食わせるぞコラ」
 錠前屋は仙田の後頭部をがしりと掴み、大根サラダの皿に向けてぐいぐい押した。人の悪そうな笑顔は、これ以上ないくらい楽しくなさそうだ。
「うわぁあん、ごめんなさいい!!」
「飯が不味くなるようなこと言うんじゃねえっつーの」
「食べてないじゃん、錠前屋さん!!」
「おお、食ってねえよ、それがどうかしたか」
 ああ? と語尾を跳ね上げて銜え煙草をゆらゆら揺らし、錠前屋はゆっくり葛木に眼をやった。微かに目元が柔らかくなったように見えたのは、ただの気のせいなのかも知れない。
 促された、というわけではないが、どうしてか言ってもいいような気になってくる。
「あのさ」
 葛木は何故か仙田に向かって口を開いた。大根サラダに顔ではなく箸を伸ばしかけていた仙田がえ、と言って顔を上げる。
「仕事で、浮気した奥さんを連れ戻しに行ったんだよ、相手の部屋まで」
「彼氏にやられたの?」
「……いや、奥さん」
 言い終わらないうちに錠前屋が吹き出して、遠慮なくげらげら笑い出した。
「錠前屋さん!! 葛木を笑わないでよ。拗ねたら大変なんだよっ」
「うるさい!」
 テーブルの下で仙田の足を蹴っ飛ばすと、錠前屋は益々笑った。
「いや悪ぃ、なんかあんたらしいなと思って。褒めてんだぜ、言っとくけど」
 錠前屋の手元の煙草から立ち昇る煙が、壁際のファンに吸い込まれて消えていくのを目で追った。
 笑われても何故か不愉快ではなかったし、ここで吐き出してしまわなければ、喉につかえているものが永遠にこのままになるような気さえした。葛木は自分も煙草を取り出し銜えて火を点けた。
「どうも……。そんで、突き飛ばされて階段から落っこちて。彼氏っていうのがすげえ若くて、おろおろするばっかで」
「そっかあ、おんなのひとにやられちゃったんだ」
 仙田は葛木の頬の引っ掻き傷を眺め、葛木が理由を話さなかったことにようやく納得したのか頷いた。
「彼氏はどうしてたんだよ、その間」
 錠前屋が顎を持ち上げ、煙を天井に向かって吐き出した。勢いよく拡散した煙が空気に溶けていく。
「黙って見てた。なんか……どうしていいのかわかんないって感じで。出来ないなら出来ないなりに、どうにかするべきだと思ったけど。俺——」
 口ごもった葛木に仙田と錠前屋が揃って視線を向けてくる。何となく口を噤んだ葛木と二人の間の沈黙に、店員の威勢のいい声と携帯のバイブの音が割り込んだ。錠前屋が携帯を取り出して、何故か嫌そうに顔をしかめて電話に出る。
 仙田が、前髪を透かして窺うようにこちらを見ているのは分かっていた。だが、上手く説明することは出来そうもない。
 葛木は、大根の水気でぺったりと器に張り付いた鰹節を酷く悲しい気持ちで眺めていた。

 

 結局錠前屋と一緒に店を出て、まだ人通りの多い通りをゆっくり歩く。
 仕入屋と落ち合って解錠をしに行くという錠前屋と葛木の向かう方向は偶然一緒で、別に一緒に行く事もないのだが、何となく同じように歩を進めた。
 錠前屋は一人で前を歩いていく。
 人ごみだからか、煙草は吸っていなかった。両手をポケットに突っ込んで、大股でゆっくり歩く。スニーカーのせいか足音を立てない歩き方は、どこか野生動物を思わせた。
 錠前屋という、この男。どこか真っ当でないながらも、しっかり自分の足で立っている。少なくとも葛木にはそう思えた。
 仕入屋の斡旋のお陰で仕事にありつき、その仕事は気に入っている。どこに向かっていいか分からなくて地団駄踏んでいた少し前に比べたら、格段の進歩だった。それでも、未だ不安定な自分の足場を顧みて、羨望とともにその背中を暫し眺めた。
「葛木?」
「え? あ、何」
 仙田が僅かに屈み込んで葛木の名前を呼んだ。
「どうしたのー」
「いや、別に」
「うっそだあ。また走って逃げたりしないでよね、俺すっごい疲れるんだから。追っかけるの」
 オニイサンたちー、カラオケどうですか、カラオケ!
 茶髪の兄ちゃんが小さな紙切れを差し出して作り笑顔を見せる。外国人の女が、女子高校生のような格好にどぎつい化粧で媚を売る。
「って、追いつかれたし」
「だって俺、——あっ!!」
 突然立ち止まった仙田が葛木の腕を掴んだ。
「何」
「俺あの人知ってる」
「あ」
「葛木……に、お前あの偽造屋かっ!!」
 前を行く錠前屋の更に向こう、坊主頭の男がこちらを指差して喚いている。
 奥村だ。
 以前の仲間、と言えば聞こえはいいが、葛木には単なる知り合いとしか思えない。神経細胞まで筋肉で出来ているような男で、どこかの元ヘビー級チャンピオンのように声が高い、そのくらいしか特筆すべきところはなかった。
「葛木、てめえそんな野郎とつるんで——」
 以前葛木は、安永という男の下で兵隊をやっていた。兵隊、なんて嫌な言い方だ。だが、安永にとって配下は皆おもちゃの兵隊、所謂駒と変わらない。それが嫌で無理矢理足抜けしたのだった。
「この、裏切り者!!」
 何を裏切ったんだっけ?
 単純な疑問が、地震速報のように頭の中で点滅した。
 闘牛のような勢いで突っ込んでくる奥村を成す術もなくただ見つめ、葛木はそこに呆けたように立っていた。
 奥村の前に何かが立ち塞がって、それが人だと認識した時には、その人物の腕が奥村の顎の下にぶち当てられていた。
 あの勢いで突っ込んでくるでかい身体を右腕一本で抑えた挙句に押し返し、そのまま腕を完全に振り抜いたのは言うまでもなく錠前屋その人だった。
 うわぁ、本物のラリアット初めて見た。
 仙田の間抜けな呟きに返事を返す気にはなれない。
 やだぁ、喧嘩ぁ? 馬鹿みたい、と若い女の声が上がる。さっと人の流れが割れて葛木達を避け、また何事もなかったように流れ出す。所詮ここは、そういうところだ。
 仰向けに転がった奥村は流石に頑丈だけが取り柄の男だ。昏倒は免れたらしいが後頭部を押さえて座り込み、甲高い声で唸っている。
「あー、悪ぃ、人の喧嘩に。つい手が出た」
 すまなそうに謝る錠前屋になんと答えたものやら、葛木は困惑して瞬きする。
「葛木、行こう!」
 仙田が葛木の上着の袖を引く。軽く一度。今度は腕を掴んで、強く引かれた。
「係わり合ったっていいことないって」
「でも」
「なあ」
 錠前屋が、葛木を見て低く問う。
「あんたがいいなら、俺が面倒みるぞ。殴るの好きだからな」
 物騒なことを平然と言い、唇をにやりと歪めた。
「あんたがそれでいいなら、だ」
「え……でも、」
「ごめん、お願いします! 葛木、行こうって——」
「お前に訊いてねえよ」
 錠前屋が仙田に険しい眼を向ける。奥村が身体を起こし、てめえ、と誰にともなく文句を垂れた。
 中国人観光客の団体が歓声を上げながら通り過ぎる。楽しそうだ、と頭の片隅で何となく思う。
「だって葛木は無理するからっ」
 仙田の大声に、葛木の意識は観光客から路上の奥村に引き戻された。
「誰だって出来ることと出来ないことがあるんだよ! 葛木はすぐ他人と自分を比べて自分を低く見るけど、そんなの間違ってるでしょ!」
「あーもう分かった早く行け。通報されたら面倒くせえ、さっさと済ます」
 錠前屋がそう言って奥村に向き直った。
 足を止めた少数の野次馬の前で奥村が立ち上がる。こちらを睨みつける小さな目に宿る粗野な光を確認する暇もなく、葛木は仙田に腕を引っ掴まれてその場から離された。
「おい、馬鹿仙田、あの人置いて」
「絶対大丈夫っ」
 誰も追ってこないというのに、仙田の足は更に速まり仕舞いには駆け出した。
 人にぶつかり、謝りながら手を引かれて懸命に走った。左右を流れる飲食店の看板が、帯になって視界の端を流れていく。
 走る感覚。
 久し振りに思い出したそれに、葛木の背骨が震える。
 筋肉と骨の軋み、耳の中で鳴る風の音、トラックを踏むシューズのゴム底の感触。
 地面を蹴る、それだけのことなのに。足の裏から頭の天辺、全身で走るというそのことにだけ集中して、駆け抜ける幾許かの距離。
 振動は規則正しく葛木の骨を揺らし、真っ白になる頭の中に自分の呼吸がこだまする。
 二つの音叉を置いて片方を鳴らすと、もう片方が共鳴して鳴り出す、あの現象を連想する。葛木は走ることだけを思う何かになり、ただ、振動に身体を委ねて前へ進む。
 腕を掴み、前を走る仙田は既にそこにいないも同然だった。
 ただ、足を動かす。
 自分に今出来るのは、それだけだった。