仕入屋錠前屋53 共鳴 1

「なあ、お前何で刺青なんか入れてんだ?」
 葛木が訊くと、仙田は嬉しそうににっこり笑った。
 仙田が年下だと言うのは——それも三つも——前に聞いたが、どうにも納得しにくいものがある。
 それは仙田が大人っぽいと言うのではなく、一体幾つなのかも判然としない、というのが正しいのだが。
「うわー葛木が俺のこと訊いてくれたの久しぶり」
「はぁ?」
 思わず間抜けな声を出すと、仙田はさらににこにこして首を傾げた。仙田のなりでそんな仕草をされたところで不気味なだけだが、指摘すればまた話が脇に逸れる。
「だってさあ、何にも訊いてくれないんだもん」
「何を訊けばいいんだよ」
「えー星座とか」
 そんなものを知って一体どうすればいいのだろう。自分の星座すら定かでない葛木は真剣に首を捻った。
「……星座ねえ」
「葛木ー、例えばだよ、た、と、え、ばの話!」
「ああ、そう」
「で、何だっけ」
「だから、」
「ああ、刺青ね!」
 何だか迷路を目隠しで歩いているようで心細くて仕方がない。
 葛木は目の前のホカ弁の唐揚を見つめ、何となく深い溜息を吐いた。

 

「お帰り、かつらぎー」
 仕入屋の紹介で探偵事務所の助手を始めて四ヶ月、忙しかったりそうでもなかったり、仕事にやや波はあるし、世間で言うようないわゆる事件らしきものはない。浮気調査に家出人捜索、そういうものは本来とても地味なもので、華々しい活躍など求められもしない。
 もっとも、そういう地味なところが気に入っているというか、性に合うと思うのだが。
 事務所から戻ってきたら仙田がドアの前に置物よろしく座っているのは、何も初めてのことではない。葛木は溜息を吐いて仙田の長い前髪の後ろを透かし見た。
 奥二重の目は子供のように嬉しそうだが、それが本心なのか演技なのかが葛木にはいまだに掴めなかった。
「……弁当、一個しかないぞ」
「半分ちょうだい」
「嫌だよ」
「ええええっ」
 仙田はこの世の終わりのような顔をした。
「買ってこいよ、自分の」
「一緒に行こ?」
 片腕の刺青がヤクザかロッカーか何か知らないが、とにかく仙田をまともでなく見せている。唇の端についた銀の輪が街灯を受けてちかりと光った。
 そんな外見で可愛らしく「行こ」、なんて言わないでほしいと思う。
 そう思いながらもうっかり付き合ってしまう自分はどこまで馬鹿なのかと、葛木は自分を恨めしく思いながら、早くしろよと仙田の背中を蹴飛ばした。

 結局葛木はホカ弁をぶら下げたままもう一度店に戻る羽目になった。店員が一瞬あれ、という顔をしたが、途中で友達と会ったとでも思ったのだろう、すぐに得心した顔をして仕事に戻る。
 実際は途中で会ったわけではなく家のドアの前まで行ったのにこいつのせいで引き返したのだと言いたいが、弁当屋の店員に事情を語った所で何が変わるわけでもない。
 そんなわけで小さなテーブルに弁当を広げ、葛木は仙田と向い合っているわけである。
「俺のね、美大時代の友達に彫師になったやつがいんの」
「へえ……」
 仙田はのり弁の上の白身魚のフライを噛みながら言い、食べている最中だと言うのに眠いのか、眼を擦りながらもごもごと続けた。
「でもさあ、そいつの専門ってヤクザさんとかじゃなくって。ロッカー向けっていうのかなあ、マリア様とか薔薇とか十字架とかそんなんなんだよねー」
 そういえば、仙田の腕の刺青はどう見てもヤクザ仕様とは言えない、蔦がデザイン化されたような、どちらかというと洋風のものだ。
「そんで、お前どうせまともな仕事してないんだから彫らせろとか言われてさー、彫られちゃった。あ、なんかこの言い方いかがわしい?」
「何だよいかがわしいって……っていうか、そんなんで左腕一本まるまる入れたのかよ!?」
「うん。だって、芸術のためじゃん」
 奥二重の目をぱしぱしと瞬き、仙田はふっと笑う。やけに大人臭い笑みに訳もなく一瞬うろたえ、葛木は唐揚を箸でつついた。
「だって、そんなの入れてたらさ」
「怖く見える?」
「どこも怖くねえよお前なんか!」
「誰も葛木が俺を怖がってるなんて言ってないよー」
 仙田はまた困ったような不思議な笑い方をして、ペットボトルの緑茶を呷ると肩を竦めた。
 探偵事務所で働き始めてから、仙田と会う時間は当然減った。
 べったりと横に貼りついていれば、その間こそ様々な表情を見せるのが人間ではないかと葛木は思う。
 だが、仙田に限って言えば、居候の身分で一緒にいた時よりそうでない今の方が色々な顔を見せるような気がするのが不思議だった。
「なんて言うか、俺今よりもっと自分がどうでもいいと思ってたから」
 ペットボトルを脇に置き、箸を持ち上げて仙田は言った。葛木の正面の仙田の表情は、今はいつもとあまり変わらない。どこか真剣になりきれないような、笑いを含んだような顔。
 なんと切り返せばいいのか迷っているうち、仙田はさっさと話題を変えてしまった。最近どんな仕事したの、守秘義務を守って教えてよ。
 笑う仙田は屈託なく、長い前髪の奥で目を細める。Tシャツの半袖の下からのぞく青みがかった紫の蔦模様。絡み合う不思議な植物から無理矢理視線を引き剥がし、葛木は最後の唐揚を摘み上げた。

 

「いやいや、大変だったねえ」
 マツさんは、好々爺然とした笑みを浮かべ、絆創膏を差し出した。
 何故か可愛らしいキャラクターが印刷されたピンク色の絆創膏を凝視すると、娘のだ、とマツさんは更に笑う。
 受け取ったはいいが流石に顔に貼る気はせず、左の掌の擦り傷の上に貼りつける。といっても、傷の数が多いので、気休めもいいところ、という具合ではあった。
 マツさん——松戸孝太郎は、葛木の雇い主である。
 元刑事、の割にはあまり鋭さがないというか、縁側でお茶でも飲んでいそうな風体の、所謂ごく普通のおじさんだ。
 年相応に薄く白くなった髪と地味な顔、中肉中背。尾行向きの目立たなさだが、松戸は少年課だったらしいから、尾行とは関係ないのかも知れない。
 依頼人の四十三歳の妻は、家出して年下の男の部屋にいた。帰るの帰らないのの押し問答になった挙句、手を上げたのは何と若い愛人ではなく妻その人で、飛びかかられたマツさんを庇って女に突き倒された葛木はこのザマ、というわけだ。
 若い——何とまだ十九だった——男は女のご乱心にすっかり怯え、マツさんと部屋の隅で青い顔をしていたから、葛木は暴れる女を泣く泣く取り押さえる羽目になった。
 マツさんとて腐っても元刑事、決してか弱いわけではないのだが、何せ最近ヘルニアが酷いからどうにもならない。
 結局アパートの階段を七段転がり落ちて左手と顔を擦りむき、やっとの思いで捕獲した妻を依頼人の元へ戻してきたばかりである。
「俺、喧嘩は余りしたことないんですよ……」
「そうだろうねえ。見たら何となく分かるよ。それにしても凄かったなあ、あの子は」
「あんな奥さんでも戻ってきてほしいんですかね」
 狭い事務所は出かけていたせいでむっとする空気がこもっている。雑居ビルのワンフロアを更に三つに区切った空間はただでさえ狭いのに、色々なものが置いてあるから尚更酷い。
 応接セットの周りはまだいいが、パーテーションで仕切られた事務スペースは悲しいくらいぎゅうぎゅうだった。
 コピー機、ファックス、旧型のパソコン、資料の山。整理されているとは言い難い空間にネズミさながらに潜り込んでいくと、マツさんは救急セットを抱えてまた顔を出した。
「恋愛とかっていうのは、他人にはよく分からないもんだからなぁ」
「そうですね。でも、よっぽど帰りたくなかったのかと」
「さあ、それは分からんが」
「そう思わなきゃ俺が惨めですよ、女の人相手にこんな怪我して」
 マツさんはからからと笑って救急箱をあさり始めた。ピンクではない絆創膏が出てくることを祈りつつ、葛木は促されるままソファに座る。
「喧嘩なんて、慣れなきゃそうそう出来るもんじゃないよ、葛木くん」
「でもよく高校生とかニュースになってませんか。喧嘩して大怪我させたとか……」
「あれは多勢に無勢だからさ」
 マツさんは消毒液を発見してにっこり笑う。しかし容器をひっくり返して眺めているのがどうにも怪しい。もしや、あれは使用期限の確認だろうか。
 葛木の視線に気づいたのかそうでないのか、マツさんは消毒液の容器をテーブルに置き、自分もソファに腰をおろした。
「俺も少年課長かったから色々、不良ってやつらの喧嘩も見たり止めたりしたもんだよ。だけど、本当に喧嘩に慣れてて、上手いのっていうのは少ないよ」
「へぇ……そういうもんですか」
「そういうもんだねえ」
 ティッシュに消毒液を吹きかけ、マツさんは葛木の顔を拭った。マツさんは穏やかそうで、まるで父親か、若い祖父のように思えてしまう。
「そういえば、この辺にもすごいのがいたんだよな。そんなに悪くはないんだけど、喧嘩が強くて逃げ足も速いんだな。何だっけ、ササキって言ったかな。確か葛木くんくらいの歳じゃなかったかと思うけど、知ってるかい?」
「あ、俺地元こっちじゃないから分かんないです」
「ああ、そうか。いや、彼はちょっと群を抜いててね。一遍補導したことがあるだけだけど、あの普通の体格であの強さは、高校生とは思えなかったよなぁ」
 マツさんの思い出話を聞きながら、葛木はぼんやりとさっきの若い男の顔を思い浮かべて溜息を吐いた。
 幾ら年上とは言え、自分の女の激情に対処も出来ず呆けて座り込んでいた情けないガキ。
 何となく、自分に似ていると思わずにはいられなくて、つい得意でもない暴力沙汰に必死になってしまった。
 流されるまま流されてきた人生に、これと言って意味があったのか。
 足の故障で走ることを諦めた学生時代。自分には何も残っていないと思い込んで捨て鉢になったはずだった。しかし悪くもなりきれず、だからといって真っ当にも戻れず、自分の行動が招いた結果を部屋の隅から呆然と眺めているガキと同じだ。
 自分でどうにも出来なくても、せめて立ち向かうべきなのに。
 葛木の溜息を聞きとがめ、マツさんが「痛いのかい?」と優しく問うた。
「いえ——大丈夫です」
 首を振って答え、ピンクの絆創膏が貼られた掌に眼を落とす。長距離ランナーとして走れなくなって以来大して大切だと思えなくなった自分の身体も、怪我をすればやはり同じように痛かった。