仕入屋錠前屋52.5 こんな簡単なことにさえ気づけずにいた

 開いたドアの隙間から長い指が伸びて襟元を掴まれる。
 物凄い力で玄関に引きずり込まれ、肩がドアの枠にぶつかった。
「痛えな、おい」
 抗議はいとも簡単に無視された。手加減なしで掴まれた前髪に引っ張られ、頭皮が痛む。目の前に立つ秋野の身体を押し退けようと、哲は腕を突っ張った。
「こら、痛えっつってんだろ」
 秋野の薄茶色の目が眇められ、残忍な笑みを浮かべて光る。
 喉元までせりあがる何かを、哲はごくりと飲み込んだ。

 

 電話越し、顔に似合わない品のない台詞を吐いていた秋野はただ黙って部屋の真ん中に突っ立ったまま哲を見ていた。
 何を言うでもするでもなく、無表情と言っていい顔の中で薄茶の双眸が獰猛な色を見せる。本当に、この男はどこまでも肉食獣に似ていると改めて思い、哲は煙草を取り出し火を点けた。
 テーブルの上に爪切りが転がっているのに気付き、何となく秋野の手元に眼をやった。前にこいつに指の爪を切られたことがあるなとぼんやりと思い出す。
 クーラーが、暑いと感じるぎりぎりの温度まで上げられているのは多分俺のためだろう。黙っていれば汗が出ることはないだろうが、多分動けばすぐに汗ばむ温度。他の事を考えながら眺めていた秋野の切り揃えられた爪の先が、微かに動いて哲の意識はそこに戻った。

 哲は煙草を銜えたまま、秋野に一歩近寄った。長くなった灰が床に落ちたがどうでもいい。どうせ、俺の部屋じゃない。
 秋野の肩に、服の布地の上からゆっくり触れる。結局一度も触れる事のなかった寛恵の身体は、どんな感触だったのだろう。
 掌で、筋肉を確かめるように撫で下ろす。二の腕から肘までを辿り、肘の裏を親指で押す。シャツのボタンに指をかけ、ひとつひとつ外していった。多分、邪魔が入らなければ寛恵にそうしていたように、ゆっくりと。
 窓の外を通り過ぎる車の音、隣か上か、どこかの部屋の水道管を流れる水の音。雑多な現実の音は紛れもなく哲の日常で、日常にしっくり嵌るのは寛恵ではなくて秋野だった。だが、例え彼女が非現実でも、身体を繋げたのだとしたらその間だけは確かに彼女に手が届く。
 自分が男であるというのは紛れもない事実だし、今更変えられなければ変えようと思ったこともない。だから、寛恵に抱いてくれと言われて間髪入れずに頷いたのは、雄の本能としか言いようがない。
 そこに恋愛感情があったのか、そこまで突き詰めてはいなかったから分からないが、少なくとも彼女を抱くという行為は自然の摂理に反することではなかったからその気になるのは簡単だった。
 秋野に対する感情は恋愛とはまるで違う。だが寛恵に向いた自分の関心の色合いが恋なのかどうかは、今更考えてみたところで意味がなかった。例えあれが恋愛の一歩手前だったとしても、今となってはどうにもならない。
 秋野の肩からシャツを落として脇腹に手を当てる。風呂上りらしき秋野はシャツ一枚しか着ていなかった。秋野の両手がゆっくり上がり、哲の手首を掴まえた。
 見上げた秋野の薄茶の瞳が眇められ、哲は我知らず息を呑む。煙草の穂先が赤く光り、秋野の動きに煙が揺れた。
「灰が落ちる」
 秋野はそう呟くと、哲の手を静かに放した。
 爪切りが転がるテーブルの上の、波紋のようなガラスの灰皿で乱暴に煙草を押し潰す。秋野がどこかの女にプレゼントされたとかいう灰皿は確かに美しい。美しいが、秋野はその三万も四万もしたとかいう灰皿の美しさには無頓着だ。勿論、それを秋野に渡した女にも、女がどんな気持ちだったのかということにも。
「てめえは人でなしだ」
「何だ、今更」
 いつの間にか背後に立っていた秋野は不思議そうに首を傾げた。
 肩越しに見た秋野の顔は、初めて会ったときからひとつも変わらない。黒い髪が、斜めに流れて黄色く光る瞳の上を通り過ぎる。金色の斑紋が浮く虹彩の中央、黒い瞳孔が一瞬髪の束で隠された。
「哲、俺は二度同じ間違いはしない」
「ぁあ? 何のことだ」
「二度は読み違えない」
 秋野の低い声は語尾が掠れて、部屋の空気に溶けるように消えていく。
「逃げるなら今だって言ってるんだ」
「うるせえよ、ごちゃごちゃ言うな」
 秋野の大きな掌が背後から伸び、哲がついさっきしたのと同じように肩を包む。ゆっくりと下ろされる掌の乾いた感触。何もされていないのに、どうしてか、一瞬で身体の中心が手に負えないほど熱くなる。哲の両肘をきつく掴み、秋野はそのまま哲を引き寄せた。

 

 ホテルを出がけにシャワーを浴びた。
 訊かれたからそう答えたのだが、今となっては悔やまれる。こいつは何の理由もない質問はしない、そんなことは分かっていたはずなのに。
「洗ったんだろ。ぎゃんぎゃん喚くな、黙ってろ」
 低い声がそう呟く。文句を吐き出しかけたタイミングで舐め上げられて、罵声は掠れた呼気になった。
 冗談ではないと思いながら、哲は歯を食いしばる。
 一体何が冗談ではないのか、考える事もできないくらい、目が回る。
 うつ伏せに押さえつけられ、身じろぎすらままならない。ベッドまで辿り着いた後でよかったと、頭の隅で考えた。固い床だったとしたら、尚更腹が立っただろう。
 シーツを掴み、腕に額を押し付けて歯噛みしながら哲は唸った。腕に擦れる前髪が汗で湿っていくのが酷く不快で、涙が滲む。
「——…………!」
 殆ど聞き取れないくらいの、秋野の舌が立てる水っぽい音。
 わざと音を立てるようなことを秋野はしない。その代わり、触れるものをすべてを舐め、啜り、食いつくそうとするだけだ。
 目が回る。
 まるでおかしなクスリを決めたように。
 どんなクスリも実際やったことはないが、多分それはこういう気分なのだと不意に悟り、哲は思わず低く喘いで眼を閉じた。
 世界が薔薇色になるというわけでもない、何もかもが忘れられるというわけでもない。寧ろ鋭くなった感覚に、不快も苦痛も彩度を増して目の前に立ちはだかる。
 こんな簡単なことにさえ気づけずにいた。
 あんたは全部見たかったのかと、哲は霞む視界の向こうに見える、寛恵の青ざめた小さな顔に声をかけた。
 彼女は気付かなかったわけじゃない。
 袁のすべて、袁が与えてくれるものなら、それが毒でも口に押し込み、差し出された器の底まで舐める覚悟だったのか。
「っ……、秋野——」
 非難の声は無視されて、舌はそのまま暫く哲を苛んだ。
 捻じ込まれた舌先を感じるには、その部分の触覚は鈍感だ。それも当然、そうでなければ排泄する度に苦しむことになりかねない。そのはずなのに、何かを感じる。どうしようもない格好をさせられて、誰にも舐められたくなどない場所を征服されて、どうしてこんなに興奮するのか、自分でも分からなかった。
 いいだけ粘膜を蹂躙しようやく位置を変えたそれは、腰骨を食み背骨を辿り、首筋までをねっとりと濡らしながら這い上がる。
 腹に秋野の手が回り、膝の上に抱えるように腰を抱き寄せられる。気が遠くなるほどゆっくりと侵入する硬いものとその持ち主を罵倒しながら、哲は渾身の力を込めて、眼前のマットレスを殴りつけた。

 

 乱れ、皺が寄ったシーツを足で掻き、更なる皺を作りながら、哲は激しく毒づいた。
 涙が頬を伝った跡が突っ張るように感じられて、哲は眼をしばたたく。生理的な涙には、取り立てて意味はない。執拗に攻め立てられて、頭がおかしくなりそうなくらい興奮して、汗と同じように滲んだ体液にそれ以上の意味はなかった。
「くそったれ…………、お前、長えんだよ……っ」
「早漏のほうがいいか」
「うるさ——……の、くたばりやがれ…………!!」
「もっと嫌がれよ。そうでなきゃ面白くもなんともない」
「このサド野郎」
「俺が酷くしてやりたいと思うのはお前だけだよ、錠前屋」
 しゃがれた声とぎらつく薄茶の目に、瞼の裏が赤くなる。どのくらい前だったのか分からないが体勢が変わったせいで秋野の顔が正面に見える。人食い虎は瞳に薄く笑みを滲ませて、哲を見下ろし口を開いた。
「哲、俺を抱きたいか?」
「ぁあ? 冗談じゃねえ、抱くなら女がいい。二度と…………、死んでもご免だ」
「じゃあ、俺に抱かれたいか」
 にやつく秋野の整った顔、そこに嵌った薄茶色の双眸に惹かれる自分が忌々しい。ここで笑みを浮かべるこの男の図々しさにはらわたが煮えくり返った。
「お前な——」
 哲の中のある部分は、抱かれる、ということを受け容れるのを未だに拒む。
 だから、興奮はするが、半分以上が押さえつけられる憤懣から起こる反作用に近いと言ってもいい。身体は既に行為に慣れ、然るべきところに触れられれば快感を感じるようになって、それでも尚。
 秋野が覚悟云々と言ったときにかっとしたのはそのせいだった。
 男に抱かれるということが、それに慣れるということが、どれだけむかっ腹の立つことなのか、男として認め難いことなのか。
 知りもしないで、哲が寛恵のもとへ行くと勝手に判じた秋野に猛烈に腹が立った。知らないから分からないなら、実際にやられて思い知ればいい、と思ったのだ。
 白くなり、赤くなる頭のどこか冷めた部分で何となく風を感じる。クーラーの冷風なのか、隙間風か。
「哲?」
 深く、低い声が語尾を掠れさせて名前を呟く。
 こうやって飢えた獣のように呼ぶくせに、涼しい顔で彼女のところへ行くのがお前のためかも知れないなどとほざきやがった。
 ミントの香りが鼻先を掠めていく。
 微風は女の切ない溜息のように一瞬哲の鼻腔にまとわりつき、どこへともなく消えていく。
 寛恵の顔を思い浮かべる。さっきまで近くにいたと言うのに、不思議と顔が思い出せないことに驚いた。
 分かってる。毒を食らわば皿まで、だろう。
「ああ」
 哲が短く答えると薄茶の目が細められた。口の端を曲げて秋野が笑う。
 前髪と長い睫毛が笑みに細められた瞳に影を落とし、こめかみに滲んだ汗がひとつ流れて顎の先に滴った。
「むかつくし、嬉しかねえし、殴り合うほうがいい。けど、そうでなきゃ、誰がこんな」
 一層激しく突かれて嗄れた喉から声にならない声が迸る。嬌声でも悲鳴でもない、獣じみた咆哮が。
 快感に、憤怒に、身体が震える。秋野の腰に脚を絡ませて引き寄せる。
 身体を押し付け、もっと奥まで抉れと挑発しながら踵を秋野の背中に打ちおろす。殴りつけた頬骨が哲の拳の下で硬い音を立て、眼をぎらつかせ薄笑いを浮かべる秋野が、お返しとばかりに哲の頬を強かに張った。
 お前が俺を抱きたいというのなら抱かせてやろう。決して本意ではないこの行為が錠前をあける権利の代価だというのなら、支払う覚悟は既にある。お前が気付かなかったというだけで、もうずっと以前から。
「俺は、お前の中が見てえ」
 硬いものに貫かれ、揺さぶられ、仰け反りながら、引き攣り震える息の合間に言葉を絞り出す。
「こじ開けて、最後の最後まで引き摺り出してぶちまけてやる」
 例え、最後に何が出てこようとも。
「ああ、そうしてやるよ——哲」
 秋野の低く深い声が耳の中に押し込まれた。
「お前の中に、全部ぶちまけてやる」
 そうじゃねえだろう、分からねえのか、このえげつないクソ虎が。
 言いかけた唇を噛みつくように塞がれて哲は反射的に瞼を閉じる。
 眼を閉じるその瞬間、本当はちゃんと分かっているのだと、眼前に迫る薄茶が笑うのを確かに見た。

 秋野の唇の皮膚を食い破り、沸騰したような頭で思いつく限りの悪口雑言を撒き散らしながら限界を見る。
 犯されながら侵されている、それは自尊心ではなくて何かもっと違うものだ。
 朦朧とする意識の端で、哲は何となくそう思った。

 

 

 あんたは何をどこまで見たんだろうな。
 それはどんな色だった? やっぱりミントの匂いがしたか。