仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 6

 枕元の可愛らしい籠に手を伸ばした哲が、試供品のような小さな袋を手にとって歯で引き裂いた。破れた透明な小袋から粘性の液体が秋野の腹に垂れ、冷たさに一瞬皮膚が粟立つ。哲は更にもう一つ袋を破り、液体を掌で受けた。哲の濡れた手が液体を撫でるように塗り広げる。
 黙々と行為を進める哲の顔に、相変わらず目立った感情の表れはない。薄暗く照明を落としたせいもあるが、それだけではない無表情は、一体どういう種類のものなのか。秋野にもしかとは分からず、声をかけても答えない哲に諦めて息を吐く。
 哲の指が入り口に触れたが、特に何を感じもしなかった。くすぐったさは覚えても、それは快感とはまったく別の殆ど反射で、見下ろす哲の鋭い目つきに瞬きを返す。
「……何とか言えよ」
 先に口を開いたのは哲だった。
 多分、一つ目か二つ目の関節。よく分からないが、それ以上進まない哲の指に、進まないのは哲の遠慮ではなく単に自分の身体が異物を拒んでいるのだろうと思う。苦痛と圧迫感は酷くはないが不快だった。
「何を」
 問い返す秋野の首筋を強く噛み、舐めながら哲は不機嫌な声を出した。
「嫌だとか、止めろとか、ふざけんなとか何かねえのか」
「止めてくれって懇願して欲しいのか。そのほうが興奮するか?」
 中を掻くようにされ反射的に腰が跳ねたが、とは言っても僅かだった。そういえば昔前立腺マッサージが得意だという女と寝たことがあるが、あの時も反応が希薄だったと言われたのを思い出す。要するに、自分にはそういう意味で感受性が不足しているのかも知れない。
「そうじゃねえよ馬鹿。ただ、」
「止めりゃいいだろ、気が進まないなら」
 手を伸ばし、哲の反応していないものに指を絡める。息を呑んだ哲の頭を片手で抱き、引き寄せて肩口に押し付けた。哲の濡れた左手が秋野の手を押さえたが、振り払って逆にその手を掴まえた。
「放せ——」
 掴まえた左手ごと、再度哲の脚の間へ手を伸ばす。骨ばった指に指を絡め、哲の掌で強く擦り上げた。
「くそ、おい…………!」
「前に言ったろう、興奮しなきゃ入らんって。これじゃあゴムもつけられんぞ」
「いい加減にしろよてめえ、この」
「手がかかる奴だな」
 扱くたび、哲の奥歯の間から押し出される息が浅くなる。秋野の中に潜り込んだままの哲の指が、哲の意図とは関係なく断続的に痙攣するような動きを見せた。
 すぐそこにある哲の顔は下半分しか見えないが、食いしばった顎に筋肉の筋が浮いている。絡めた指に力を籠めると、掠れた息が喉の奥から押し出された。鎖骨に押し付けられる額が僅かに熱を伝える。それでも、哲の気乗りしない態度に変化はない。
 無理矢理こちらを向かせ、唇を塞ぐ。哲の舌を容赦なく吸い上げ、口蓋を擦り、喉の奥まで犯すように舌と唾液を押し込んだ。哲の口の端から飲み込み損ねた唾液が流れる。拭うように舐め上げ手の中の物を更に弄ると、哲は思わずと言ったふうに低く喘いだ。
「…………っ、馬鹿にしやがって、野郎、マジで突っ込むからな——」
 哲は低く凄んだが、酸素不足に眼を潤ませ、見下ろす顔を怖いとは思えない。今すぐ押し倒して泣き喚かせたい。そんな思いを頭の隅に無理矢理追いやる。
「馬鹿になんかしてないよ」
 指がずるりと引き抜かれ、荒い息を吐いた哲が獣のように低く唸る。
 籠に伸ばされた哲の手。引き裂かれた包装のフィルムが秋野の頭の横に落ち、哲が肩に噛み付いた。
 哲がゆっくりと身体をずらし、顔を秋野の肩に伏せたまま、先端を押し当てた。

 快感など欠片も感じない。
 経験はないが、多分直腸カメラというのはこういう感覚なのだと秋野は変に納得した。排泄器官に挿入された異物が快感を生むなどと馬鹿げた事を考えたのは、一体どこの誰なのか。
 そして日頃哲にそれを強いている自分はどれだけ傲慢なのか。
 お前が俺に抱かれるのはどうしてだ。
 何故今、決して望んでいないだろうこの行為を俺に強いる?
 てめえこそ覚悟があんのか、という哲の台詞が不意に脳裏に浮かんで秋野は肩口の哲の髪を握り締めた。
 哲が程度はともかく、自分に執着しているのは知っていた。そうでなければその気のない哲が男に抱かれるという理不尽な行為を甘んじて受け容れるわけがない。ただ、だからと言って執着の度合いを量ることは出来ないと思っていたのだ。それはそれ、これは単なるじゃれ合いだと。
 何事につけ面倒臭い事が嫌いな哲だけに、自分より膂力で勝る秋野に抵抗するのも面倒なのに違いない、それだけだと思っていた。セックスなんて慣れればいいだけ、女にだって後ろを使う方が好きだというのがいる。多分そんなものなのだ、哲はいつか多分簡単に俺への執着を失うに違いない、と。
 男に押さえつけられる屈辱も、意味も知らずに。
「哲」
 哲は返事をしなかった。哲の動きは機械的に過ぎ、秋野の肩口に押し当てているせいで顔は見えない。
「哲?」
 覆い被さる硬い身体を抱き締めて首筋を舐めた。興奮も快楽もなく、抱かれている、という表現からも酷く遠い。
 どこかの部屋でドアが開閉するような音が聞こえる。新しいホテルだけに、防音はそれなりのようだ。それとも客がいないのか、嬌声も、いかがわしい物音も、痴話喧嘩も何一つ聞こえない。天井のどこかで回るファンの音が、虫の羽音のように微かに聞こえる。哲の息が上がり始め、瀕死の野犬のように酸素を求めて喘ぐ呼吸音が続けて漏れた。
 前触れも大袈裟なアクションもなく、突然哲の身体が脱力する。かくりと肘が折れ、支えを失った身体が秋野の上に被さった。汗ばんだ哲の胸が胸の上にあり、駆け足の鼓動が胸骨に微かに響く。哲の頭を抱いて髪をぐしゃりと掴む。哲が微かに呻き、何かを口汚く罵った。

 

「——男なんてな、穴に嵌めて擦ればイくんだよ、基本的に」
 ベッドにうつ伏せたままの哲が不意にそう吐き捨てた。
「相手が女だろうが男だろうが木のうろだろうが」
 酷く低い声は真剣に耳を傾けなければ聞こえないくらい小さい。秋野は半分の短さになった煙草を灰皿に押し付け、隣に転がる哲を見下ろした。
 哲は秋野の手に無理矢理勃たされて何とか最後までいったものの、秋野は殆ど勃起すらしなかった。
 最中は頑として顔を上げなかった哲の心境はよく分からない。単に、秋野の顔を見たら萎えるということだったのかも知れない。哲は身体を引いて無言でゴムの後始末をし、煙草すら吸わずに転がったまま今に至る。時間にすればほんの何分かだが、向けられた背中の意味が秋野には読めなかった。
「……木のうろはどうだかな」
「ヤク中だってのは分からなかった。可哀相だとは思うけどな、どうにかしてやれたらいいが、してやれねえのは俺にだって分かる」
 哲の声はしわがれて、まるで泣いた後のようにも聞こえる。硬そうな背骨が動き、哲が僅かに身じろいだ。
「琳可のときと同じだ。ただ、終わらせてやれたらいいと思った」
 哲が身体の向きを変えて秋野を見上げた。射るような視線に弱さはない。突き刺し抉るような鋭さと奥底に眠る凶暴な何かが、秋野の視線を捕らえて瞬いた。
「男のプライドなんてくだらなくて笑っちまうが、それでも捨てきれねえのが男だろ」
 秋野は、そう吐き捨てる哲の険しい眼を見返した。身体の下でよれるシーツの衣擦れの音がいやに響く。
「裸に剥かれて乗っかられてよ、なけなしのプライドなんか紙屑と同じだぜ」
 秋野から眼を逸らし、哲は天井を見上げて掌で顔を擦った。
「哲」
「せいぜい実感したろうが。突っ込む側は穴さえありゃやるのも出すのもそう難しくねえ。けどな、元々そっちの趣味もねえのに男にやられるってのは最悪だ。出すとこに硬えもの捻じ込まれてそうそう簡単にあんあん言えるもんじゃねえって」
「確かに、よく分かったよ」
 秋野は思わず笑ったが、哲はひとつも笑わなかった。
「犯されるってのは殺されんのにどっか似てるな。プライドも征服欲も取り上げられて、女にもさせたことねえようなどうしようもねえ格好させられてよ。勢いに任せてやっちまった最初のうちは別にどうでもよかった。気持ちよくなるわけでもねえ、何の覚悟も必要ねえ。それが——」
「……哲?」
 続く言葉を飲み込んで暫し押し黙り、哲は天井を見つめたまま口を噤む。次に開かれた唇からは、酷く剣呑な響きを帯びた低い声が吐き出された。
「女に欲情すんのとてめえに欲情すんのとじゃ、欲の根っこがまったく違うんだよ」
 鋭い視線は天井を突き通しそうに強く、どこまでも真っ直ぐだ。
「俺は全部自分で決める。ヤク中の女とセックスするかどうかも、その女とどん底に落ちるかどうかも、冗談じゃねえって思いながらそれでもお前に抱かれて骨までしゃぶられるかどうかも」
「哲」
「勝手に俺のために動くな。俺がどうしたいかなんて考えられても迷惑だ。お前はいつもどおり、図々しく自分のやりたいようにやってりゃいい」
 ゆっくりとそう言い、哲はごろりと身体を転がして、秋野に完全に背を向けた。

 一時間くらい寝ていくという哲を置いてそのままホテルを出る。空気の生温さは少し収まっていたが、それでも不快さはそう変わらなかった。
「ああ、アキ」
 レイは電話の向こうで開けた口の喉の奥まで見えそうなゆるみきった欠伸をした。事務所の中に顧客は居ないのだろう。
「悪いな、出られなくて」
「いや、いいけど。電話したのは俺じゃなくて楊だよ。アキから連絡来たら寛恵ちゃんを言われたとおりタクシーに乗せて送っていくって言っといてって。書類持って三人で出かけた」
「分かった、明日にでも礼はする。すまんな」
「——それはそうと、アキさあ、」
 レイは一瞬の間の後、底意地の悪い声を出した。にんまり笑うレイの顔が目に浮かぶ。本性を知らなければ、女友達と電話している大学生の笑顔くらいにしか見えないに違いない。
「随分時間経ってのコールバックじゃない? ラブホで佐崎くんと二人で、一体何やってたんだよ」
「……説教くらってた」
「説教?」
 如何にも期待が外れたと言わんばかりの素っ頓狂な声に内心苦笑しつつ、声には出さずに答える。
「たまに気を遣ってやればそんな必要はないって激怒するんだあの馬鹿は。まったく、こっちの苦労も知らないで」
「なんだ、そうなんだ。まあこれからお楽しみってところに踏み込まれて怒らなかったら男じゃないけどね。かわいそー」
「そうだな」
 じゃあ、と言って電話を切りかけた秋野にレイの声が追いすがった。
「ちょっと待ってよアキ、そういえば、この間俺の名刺勝手に持っていかなかった?」
「何の事だ」
 惚けて聞き返すとレイの疑わしそうな声が探りを入れてくる。秋野の顔を物欲しそうに見つめてうろうろしていたラテン系らしき女が、諦めたのか尻を振りながら去っていく。
「この間、机の上の名刺入れが半分くらいの嵩になってんの発見したんだけど」
「机の上の名刺入れ? どんなのだよ」
「さっき自己紹介したら寛恵ちゃんが変な顔してたんだけど」
「具合が悪いんだろ」
 遠ざかる女のミニスカートの尻を目で追いながら、秋野は半ば上の空で返事をした。
「…………まあいいや」
 諦めたらしいレイに適当に返して電話を切った。明日になったら——時間的にはとっくに明日になっているが——楊と琳可、ついでにレイにも少しばかり礼をしなければならない。それから、更正施設を紹介してくれた輪島にも。
 寛恵の打ちひしがれたような顔を思い浮かべ、正直意外なことに胸が痛んだ。元々寛恵が嫌いなわけでも何でもない。ただ、あまりにも見慣れた、堕ちていく女の一人に特別な感慨を抱いたという事が自分でも意外だった。
 特に珍しい事でもないし、彼女の中毒はそれほど重度ではないから望みはかなりあるだろう。だから哲が行きたければいけばいいとも思ったのだ。今のままでは彼女だけは駄目だと思う。だが、彼女さえ正常に戻れば、薬物への依存から完全に抜け出せれば、或いは。
 そう思いかけて痛み始めた頭を振り、秋野は母親の知人の店に足を向けた。
 以前哲にチョコレートを貰って以来哲を贔屓にしているママは、秋野が一人で顔を見せるとがっかりした顔をした。どことなく異国の味がする煮物と具沢山の味噌汁で遅すぎる夕飯を済ませ、耀司からの電話を受けて仕入れる品物のための下見を済ます。部屋に戻ってシャワーを浴びながら歯を磨き、水を飲みながら爪を切る。
 そうこうしているうちに気付けばあれから随分と時間が経ち、大して考える事もなく、秋野は哲の携帯を呼び出した。
「用がねえなら切るぞ」
 繋がるなり、切りつけるような鋭さで吐き捨てる不機嫌な声。
「もう部屋に戻ったのか」
「いや。途中だ」
 愛想のない声の後ろに車が走りぬける音がする。バイクの音。左右に抜ける救急車のサイレンの音。窓の外に同じサイレン音を聞き、秋野は知らず口の端を曲げて笑った。
「——早く来いよ」
「——……」
 救急車の音に気付いたのだろう、哲の舌打ちが耳の中に大きく響く。
 会いたいとか、そういう話ではない。哲も恐らくそうだろう。お互いの事情も、都合も、言ってしまえば感情も、斟酌するようなそういう関係ではないのだから。
「骨だろうがあそこだろうが、幾らでもしゃぶってやるから、早く来い」
 下品な台詞に鼻を鳴らす音がする。何の返答もなく、通話が切れる。
 秋野は哲の仏頂面を想像し、喉の奥を鳴らして笑った。したいようにすればいいと言っただろうとそう言えば、多分「言うんじゃなかった」と哲は不機嫌に答えるに違いない。

 見誤ったか、と苦笑とともに秋野は考え、自分を怒鳴りつけた哲の怒った顔を思い返した。
 覚悟が足りないのはあいつではなくて俺だった。簡単に手放そうとしたわけでは決してないが、踏みにじられたプライドを横目で眺め、それでも俺に抱かれるあいつの覚悟の程を、俺は確かに軽く見た。
 ドアを蹴飛ばす乱暴な音が三度響いて秋野は笑う。
   哲が肉を切らせて骨を断つというのなら、この体中、すべての骨を差し出してあいつの心臓を喰ってやる。
 ——さあ、食事の時間だ。お前の心臓を喰わせてくれ。

 ドアノブを回し、開けたドアの隙間から。
 不敵に笑う哲の顔がはっきり見えた。