仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 5

 王琳可を、哲にはしっくりしない女だと思った。
 阪田寛恵がもしも普通の状態なら、多分それなりに似合いだと思った。

 レイから電話を貰い、合流した。レイを帰して一人になると続けざまに溜息が出る。
 正直気乗りがしない。やりたくないのはレイ以上で、出来るものならこのまま黙って見ないふりをしたかった。だが、そういうわけにもいかないから仕方がない。楊から連絡が入り、すぐに道路の向こうに愛嬌のある丸顔が見えた。
 日中よりは涼しいが、それでも例年の昼間くらいの温度がある。出掛けにシャワーを浴びたが、長時間外にいればまた汗が噴き出す。じっとりと湿る空気に嫌気が差す頃、阪田寛恵が現れた。
 並んで歩く対照的な二つの背は、まるで顔見知りですらないように一定の距離を保っていた。どこかよそよそしいような緊張感は、多分寛恵が発するものだろう。
 半年くらい前にオープンしたラブホテルの入り口に消える二人、その後を追いかけて走る二人を見送って、秋野はつくづく嫌になった。別に一発済ませた後でもいいじゃないかと哲に同情する本心が囁き、それでは駄目だと理性が諌める。
「——アキさん?」
 暫くして鳴った電話の楊の声に息を吐く。秋野は短く返事を返し、ホテルの入り口に足を踏み入れた。

 寛恵は白い顔をしてベッドに腰掛け、琳可が横に立っていた。楊は秋野の顔を見て気弱に笑い、哲にちらりと眼を向ける。この様子では哲は大人しくしていたのだろう。楊が些か及び腰なのは居酒屋の件を眼にしているからだと思えた。実際哲に凄まれたとしたら、こんな反応で済むはずがない。
「やっぱお前か」
 哲はポケットに手を突っ込んで立っていた。煙草を銜え、火を点ける。眼を眇めた哲が吐き出す煙が小綺麗な部屋に漂って、換気扇に吸い込まれて消えていく。
 部屋の中には煙草の煙とまだ新しい壁紙の匂いがするが、寛恵が口を噤んでいるからミントは香っていなかった。
「何か用か」
「お前にじゃない。阪田さんに」
 寛恵が顔を上げ、心許ない視線を秋野に向ける。一段と白い肌に濃いチーク。写真で見た時より化粧が濃いのは、顔色を隠すためだったのかも知れないと今になって思う。
「あなたに行ってほしい場所があります。あなたのために」
 琳可が寛恵の肩に優しく触れる。琳可には寛恵のことは話してあった。
 ——袁は彼女も殴ったのかしら。だったら私が謝らないといけないわ。
 楊の通訳が的確なのかは分からないが、琳可は秋野にそう言った。いつの間にか愛情だけではなくなっていた袁との関係も、彼女の中では既に過ぎた事なのだろう。異国で生きていくためには強かさも必要なのだと言うように、小柄な女性は小さく笑った。
 自らが生き抜くために足掻く女と、男への愛情ために自分を失くしてしまった女と、一体どちらが幸せなのか。袁はどうして寛恵に優しく毒を与え、琳可に暴力と生きる道を与えたのか、秋野には想像すら出来なかった。
「詳しい事は彼から聞いてください」
 視線で楊を指すと、寛恵は目をしばたたいた。
「待って、何のことか」
「袁は帰って来ない。辛いばかりでしょう…………身体も」
 寛恵は唇を引き結び、隈の出来た眼を哲に向けた。哲はまだ何の事だか分かっていない。怪訝そうに眉を寄せ、寛恵を見つめる。寛恵はゆっくりと哲から眼を逸らし、秋野を見上げて溜息を吐いた。
「……どうして、あの時言わなかったんですか」
「あなたが一人で崩れていくのは勝手です。こいつを巻き込んで欲しくない」
「そう——そうですね。私、確かに思ってました。どうにかなるんじゃないかって。調査会社の人なら、私にない伝もあるのかなって。どうしていいか分からなかったから、だから誰かに——」
 立ち上がった寛恵は緊張の糸が切れたようによろめいた。張り詰めていた気が緩んだせいか、指の先が震えて額に汗が滲んでいる。
「ごめんなさい」
 哲に頭を下げ、俯けた顔を上げないまま寛恵はグレイがかったピンクの絨毯に向けてよく通る声で語を継いだ。
「まるでうそつきの挨拶ね。何の有り難味もないでしょうけど——来てくれて、泣きたいくらい嬉しかった」
 一瞬口ごもり、震える声が更に続ける。
「ご迷惑をお掛けしました。心配してくださって、本当にありがとう」
 頭を下げた寛恵は、哲も秋野も見なかった。琳可と楊に支えられて寛恵の背中が廊下に消える。哲が灰皿で吸殻を押し潰し、どういうことだ、と低く乾いた声を出した。

 

 こんな場所で哲と向かい合うのは酷く滑稽で、もし状況が違えば笑えたかも知れない。だが、とてもそんな心境ではなかったし、哲にしてみれば秋野以上にそうだろう。これから女を押し倒そうという時に邪魔されれば誰だって頭に来るが、理由が分からなければ尚更だ。
 哲は何事もなかったように普段どおりの態度だが、鋭い視線の端に、困惑が僅かに見て取れた。
「楊と琳可にはよく言い聞かせてある。これから彼女の部屋へ送って行って、取り敢えず二、三日分の荷物を纏めさせる」
「荷物? 何で」
「輪島さんの伝で、入院先を手配した。職場への連絡とか何とかは向こうでも出来るし、彼女が望むなら俺が全部手配する。その辺は楊にも輪島さんにもきちんと伝えてある」
「……入院?」
 哲が顔をしかめて秋野を見上げた。
 秋野は不意に自分がとんでもないお節介を焼いたような気分になって軽い眩暈と苛立ちと、急激な疲労を覚えた。突如として、頭痛の前兆である首筋の強張りが発生して舌打ちする。
 今時のラブホテルらしくプレーンなデザインのベッドに歩み寄り、その端に腰掛けた。枕元の籠にゴムやら何やらが入っているが、それすらリゾートホテルのように洒落ている。シンプルな内装は、一昔前のこの手のホテルとはまったく違う。もしも天蓋つきの丸いベッドなんかが部屋の真ん中に鎮座していたら、さすがにここで話を続ける気にはなれなかったに違いない。
「話をしに行った時、俺達を座らせて踊ったりしてたろう。あれはあの子が言うように、一時も無駄にしたくないからってわけじゃない。ただ、じっとしてられなかったんだ」
 哲はゆるく腕を組んで秋野の顔を見下ろしている。秋野は息を吐きながら右手でうなじを掴み、強く握った。手を離した瞬間だけ、強張った首筋からほんの僅かに痛みが抜ける。
「強烈なミントの香りは、あれは口臭を消すためだ。時々目が泳ぐのに気付いてたか? お前は身近にいないだろうからあの程度じゃ分からんのかも知れないが、あの子は覚せい剤の中毒だよ」
「……は?」
 哲の組んだ腕の力が抜け、思わずと言った風に身体の脇に垂らされる。秋野を睨みつけていた視線が驚きに一瞬苛烈さを失った。口を開けた哲の顔を見上げて、秋野は低い声で続けた。
「大方袁に勧められて、最初は覚せい剤だとは知らずに始めたんだろうな。そういう意味では元々まともな子に見える。好きな男に、セックスがよくなる薬で通販でも売ってるなんて言って甘えられりゃ、まともなら尚更、疑わずに受け容れる。袁が居なくなって薬が切れた。顔色が悪いのも、急に痩せたのもそのせいだと思う」
 哲は何も言わず、秋野の顔をじっと見る。
「袁が殺された直接の原因は仲間が馬鹿やったとばっちりだが、あいつら薬を捌いてたって言ってたろう。自分の女にヤクを使うのは珍しい事でも何でもない。おまけに袁は組織がバックにいる訳じゃないから、売り物をくすねても自分の実入りが減るだけの話だ。琳可にそれをしなかったのは金蔓だと思ってたからかも知れないし、自分の女とはいえ同郷の仲間はまた別だったのかも知れないし、そこまでは分からんが」
 一気にそこまで言い終え、秋野はうなじをさする手を止めて煙草の箱を取り出した。一本取り出し、銜えたまま火を点けずにフィルターを噛む。
「ガキの頃から、母親の知り合いや周りの奴等が中毒になって死ぬのを何度も見てきた。俺がクスリの類を扱わないのもそれがあるからだ。更正する人間だっているが、出来ないのもいる。一度はまったら絶対に抜け出せない人間も悲しいけど確かにいるんだ」
「——あの子がそういうタイプだって言うのか」
「さあな、それは分からん。けどな、お前にシャブ中の女抱かせて崖から突き落とすような真似はさせられんと思うから」
 哲の顔に酷く不機嫌な色が浮かぶ。その不機嫌さが何に起因するのかはよく分からない。
「……それでも、どんな目に遭っても墓場まであの子の手を引いていくなら追えばいい。前にも言ったがお前が本気で惚れた女の後を追うならこれ以上口は挟まんよ。そのほうがお前のためかも知れんしな」
 哲の口からぎしり、と歯噛みする音が聞こえた。
「愛してるなんて、あの子じゃないがうそつきの挨拶と同じだ。言うは易しで、実際人一人の人生を請け負うには何もかも諦めて相手に差し出すくらいの覚悟が要る。それがあるってんなら」
「——覚悟だ?」
 哲が、秋野の言葉を遮るように鼻で笑う。見上げた顔は不機嫌に歪んでいた。
「偉そうに」
「哲」
 大股で秋野に近寄ると口元だけで笑い、哲はベッドに腰掛けた秋野の脚の間に立った。見下ろす顔は今まで余り見た事がない静かな怒りの表情で、不機嫌だ何だと形容しつつも必ずどこかにあった哲の余裕が消えていた。
「てめえはどうなんだよ、仕入屋」
「……何が」
「俺が欲しいだ何だっててめえはしょっちゅう抜かすがよ、てめえこそ覚悟があんのか。シャブ中の女抱くのに覚悟が要るってんなら男の俺とやるのはどうなんだ? どんな目に遭ってもいいからそれでも俺が欲しいのか。それとも簡単に誰かに差し出す程度で覚悟なんかねえ、それこそ口から出任せの挨拶程度だったのか」
 決して笑っていない眼は膜がかかったように表情を窺わせず、色の抜けた顔は口元だけが嘘くさい笑みに歪んでいる。
「…………」
「やらせろよ」
「何?」
 思わず問い返した秋野の頬を手の甲でそっと撫で、哲は残忍な笑みを浮かべて低く吐き出す。
「答えねえってことは、何されても文句がねえくらい覚悟がある、って言うつもりなんじゃねえのか? 俺が欲しいって言うてめえの主張は一体どんだけのもんなのか見せてみろよ。俺に突っ込まれんのも我慢出来るくらい腹据えてんなら脚開いてそこ横んなれ、クソ野郎」
「何でそういう話になる? 哲、大体お前」
「うるせえ!!」
 哲が怒鳴り、突然の感情の爆発に秋野は思わず口を噤んだ。
「ちょっといい女だと思ったから、抱いてくれって言われて抱こうと思った。それが何だ!? それだけのことじゃねえか、男と女の、下半身の話だっつってんだよ!」
「哲」
「ふざけんなよ、仕入屋。俺が毎度毎度喜んでお前に突っ込ませてると思ってんのか。それこそどれだけ腹据えてんのか——男に犯されるのがどんだけ冗談ごとじゃねえかお前分かってやってんのかっ!!」
 叩きつけるような怒声に思考が上手く纏まらないまま停止する。
「俺相手に勃つのか、お前」
「無理かもな」
 くだらない質問だと言ったそばから後悔したが、哲は表情を僅かも動かさず吐き捨てるように低く答えた。
 さっきまで優しく頬を撫でていた手の甲を振り上げ哲は秋野の頬を打つ。銜えた煙草が床に落ちる。手加減のない殴打に口の中が切れたのか、舌の上に錆の味がした。
 哲が秋野の腿に片膝を載せる。胸を押され、体重を掛けられ身体が傾ぐ。跳ね除けることなど容易だったが、秋野は大人しく仰向けになった。思わず漏れた溜息に、哲が鋭い視線を向けた。
「冗談じゃねえ、と思うか?」
 哲の引き攣った頬の線に、何とも言えず胸がざわつく。身体の上の哲を引き摺り下ろしてねじ伏せたいという獰猛な欲求が、一気に腹の中に膨れ上がった。
「俺だってなあ、反吐が出そうだぜ。仕入屋」
 聞き取れないくらい低い哲の声が、耳の後ろの骨を通して頭蓋に響く。押し当てられた唇が更に何事か呟いたように動いたが、秋野にはそれ以上は聞き取れなかった。