仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 4

 琳可は泣いたが、涙の味は些か微妙に違いない。恋人を失ったというより同郷の友人を失ったというのに近いのかも知れない。肩をさする楊の存在もあるのだろうが、それにしても彼女はたくましいと秋野は思う。
 琳可の細い身体は少女のように華奢に見えるが、ここで生き抜くために何を捨て、何を掴めばいいのか彼女はよく知っている。
 袁が鍵を持ったまま消えたため、哲が以前に開けた金庫をまた解錠する。その間に泣きやんだ琳可が楊の通訳で礼を言い、寸志の袋に包んだ金を寄越した。秋野はちょっと驚いたが、そういうことをする日本人客がいて、覚えたのだろう。もしかしたら、どこかの女の腹の上で大往生した爺様かも知れない。
 どこかすっきりとした表情の琳可を見て、きちんと終わらせてやらないとと言った哲の言葉は正しかったのかも知れないとふと思った。
 哲と連れ立って琳可を部屋の出て、秋野は陽射しを手で遮りながら口を開いた。
「次は阪田寛恵だな」
「ああ」
 何の感情も窺わせない口調で、哲が答える。強い日差しに眇めた目が秋野の視線に気付いてゆっくりと動いた。
「じろじろ見んじゃねえよ。何か文句あんのか」
「別に」
「面倒はさっさと終わらせようぜ」
「そうだな」
 秋野は煙草を銜える哲の横顔を暫し見つめた。先日阪田寛恵と会ったときに哲が見せた一瞬の隙。あれは、恋の始まりというやつだろうか。
 さっさと先に立って歩き出す哲の背中にはどんな感情の動きも現れてはいない。肩甲骨の硬そうな線がTシャツの下で動くだけだ。
「なあ哲」
「ああ?」
「写真で見るよりはいい女だったな」
「あの子か? ああ、そうだな」
 振り返って肩を竦め、銜え煙草の唇の端から濃い煙を吐く哲の顔も、声も、普段どおり。特に気負っている様子もない。秋野は安堵に一瞬息を吐き、焼け付くアスファルトを靴の踵で強く擦った。
 哲が誰に恋をしようと構わない。哲が行くと言うのなら、好いた女のところへ行けばいい。だが。
「歩くの遅えぞ」
「うるさいよ」
 阪田寛恵は駄目だ。呟きは声に出さず、秋野は哲の背を追った。

 事前に連絡を入れると寛恵は休憩時間を伝えてきた。場所は前回と同じダンススタジオ。昼間のレッスンはないのかと不思議に思ったが、生徒の大半が勤め人ならそれも然りだ。
 暑さのせいか相変わらず静かに不機嫌な哲と目に付いた漫画喫茶に入り、併設されたインターネットブースで時間を潰した。
 仕事の調べ物があったからで、小一時間ほどかけて情報を探し吟味する。数件のメールを送りブースを出ると、哲は漫画の並んだ書棚の間、真っ赤なソファに腰掛け、仰向けた顔に月刊の青年漫画誌を乗せて眠っていた。まるで公園の浮浪者か終電の酔っ払いだが、こんなところでは誰も他人に目はくれない。
「こら、哲」
「…………」
 意味不明のくぐもった唸り声が、派手な色の表紙を通して聞こえてくる。秋野が雑誌をつまみ上げると、眉間に皺を寄せたまさに寝起きの顔の錠前屋は再度唸って欠伸をした。
「——冷房がきつい」
「その割には熟睡だったんじゃないのか。行くぞ」
「ああ、煙草吸いてえ」
 律儀に雑誌を書棚に戻す哲を促して店を出る。通りを挟んで何軒か向こうの雑居ビルの側面で、ダンススタジオの看板が容赦ない陽射しに焼かれていた。

 この暑いのに、阪田寛恵は酷く青ざめた顔をしていた。小学生並の想像力でも、秋野達が袁が多分永遠に見つからないという報せを持ってきたのだろうということは分かるだろう。それにしても真っ白な寛恵の顔に、哲が怪訝そうに眉を寄せたが、それもまた一瞬だった。
 僅かな間で細い身体は更に痩せたように思える。写真で見たときはどこまでも十人並みだと思ったが、痛々しいほど青ざめた顔と、柳の枝を思わせるしなやかな動きに妙な存在感があるのは今日も同じだ。
「一分一秒も無駄にしたくないんです」
 秋野と哲に折り畳み式の椅子を勧め、自分はフロアの中で柔軟体操のような動きを繰り返しながら寛恵は言い訳するように呟いた。
「上手くなりたいの。訓練を怠るとすぐに駄目になるから」
 ジーンズにファミレスのロゴの入ったTシャツとエプロンという、前回と同じ格好。Tシャツから伸びる二の腕はその首と同じように華奢だった。
「あなたに、お知らせする必要があるのかないのか分かりませんが」
 秋野が口を開くと、寛恵は壁面のバーに乗せていた片足を床に下ろして真っ直ぐ立った。
「袁さんは、もう戻らないと思います」
「それは——彼女のところに戻ったということですか。それとも」
「後者です」
 寛恵の吐き出した大きな溜息とともに、またミントの香りが部屋を満たす。短時間だから、と空調を入れていないスタジオ内は、窓を開けていてもこもった熱気で蒸し暑い。
 窓から吹き込む弱々しい風が、ミントの香りを押しやるように空気を乱す。遠慮がちな微風は香りすべてを駆逐はせず、ほのかに漂う清涼な香りに、秋野は僅かに眉を寄せた。
「前衛とかアングラとかね、言い方はなんでもいいんだけど」
 突然喋りだした寛恵の声はスタジオの中に酷く響いた。特別高くもないその声の通りがいいのは、訓練の賜物なのかも知れない。
「そういう枕詞つけるでしょう。そうすると、誰も理解できなくてもいいなんて、皆勘違いし出すのよ。受けないのはそのせいなの、私たちの才能がないせいじゃないわ、って」
 寛恵は秋野を見ていたが、視線は秋野を通り越して別の何かを見ているようだった。
「観客は仲間内か売れないアーティストか、そうじゃなきゃアーティスト気取りばかり。批評だけは一人前なんです。難しい言葉を並べて」
 バレリーナのように指先を伸ばし、爪先立ってみせる。寛恵の動きは優雅で、そのくせ人形のようにぎこちない。
「袁は私の躍りを見て上手いって言ったの。寛恵はすごい、上手だ、って。お世辞だったのか日本語がそこまで達者じゃなかったからかは分からないけど、すごく嬉しかったわ」
「……彼とは、どこで?」
「一年くらい前に同僚がインフルエンザで休んで、ヘルプで深夜の勤務してたことがあったんです。暑い日なのに、暖かいお茶が欲しいって、ここはクーラーが効き過ぎてて寒い、って、ちょっとおかしな日本語で。危ない事してるのは何となく分かったけど、その時はもう好きだったから」
 寛恵が笑い、秋野から哲に眼を移した。そういえば、哲は寛恵が来てから一言も喋っていなかった。
「私は弱い」
 呟いた寛恵は一瞬も止まることなくどこかしら動かしていた身体を自らの手で抱え、俯いた。
「才能だって」
「——上手だよ、あんた」
 眼を上げた寛恵に哲がつまらなさそうに声をかけた。
 外を通る車が何に苛立ったのか何度も短くクラクションを鳴らす。陽が落ちる時間が近づくにつれ色を増す陽射しが窓から斜めに射しこんで、寛恵の足元を切り取ったように四角く照らす。
「誰か一人でもそう言うなら、それでいいんじゃねえの」
「だけど、私」
 何故か困ったような顔をして、寛恵は秋野の顔に視線を向けた。瞬く瞳が不意に泳ぐ。秋野は内心舌打ちし、これ以上哲に近寄るなという警告を無理矢理噛み砕いて飲み込んだ。
 嫉妬でも独占欲でもなんでもない。哲がどんな女に惚れてもそれは哲の勝手だが、あんたは駄目だ。
「……じゃあ、これで失礼します。お時間取らせてすみません」
 秋野が低く告げると、寛恵が青ざめた顔を哲に向ける。哲は相変わらず顔色も変えず、椅子からゆっくりと腰を上げた。

 哲と別れ、その背が見えなくなると同時に携帯を取り出した。
 レイは散々渋ったが、最後には意に沿わぬことをしつこく主張しつつそれでも承諾の返事を寄越した。
「お前ってほんと過保護」
 嫌味など別に痛くも痒くもない。楊に代われという秋野に盛大な溜息が吐かれ、妙な発音のコンバンハが耳に届いた。楊との話を終え、輪島を呼び出す。話はすぐに済み、もう一度楊にかける。
 一通りの電話を終えて秋野は携帯を折り畳んだ。掌の中の小さな機械は、まるで沈む寸前の陽のように、重く鈍い熱を持っていた。