仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 3

「いいねえ、若いってえのは」
 ナカジマの声は、そのシャツと同じくらい陽気だった。
 茄子紺の地に提灯や金魚、狐の面やりんご飴。要するに祭がモチーフらしいその柄は、とにかく目に優しくない配色だ。このヤクザの服装の酷さは今に始まったことではないが、スーツの時は趣味の悪さが限定されるからまだマシで、柄物になってしまえばその幅は無制限、と言っていい。
 哲が嫌そうな顔をしてちらりと目を上げ、鼻を鳴らしてキーボードの上の指の速度を上げた。

 

 袁の立ち回りそうな先は、琳可が既に一通り見て回っていた。故郷に残してきた妹を思い出すとかで、楊がそれに手を貸しているらしい。どうやら兄と妹と呼ぶには不適切な関係が既に出来上がったようにも見えるが、別にそれは秋野の知った事ではない。
 寛恵にまた連絡するかも知れないと断り、念のために秋野と哲両方の電話番号を伝えてあの場を辞して二日、袁が琳可のもとに戻る気配もなければ、袁から連絡があったら知らせると約束した寛恵からの音沙汰もなかった。
 残暑は衰えを知らず、日光の下を数分歩いただけで汗が噴き出す。アスファルトは立ち昇る熱気に歪み、哲は酷く不機嫌だった。
 消えようと思えば容易に消えられる。それがこの辺りの常識ではあるが、探すと約束した以上二日で放りだせるものでもない。哲の主張には頷いたものの八方塞がりであったが、その状態を思いがけず打破したのはふらりと目の前に立ったナカジマだった。
「よお」
 派手なシャツのナカジマは、細い眼を更に細めて笑ってみせる。ヤクザの上機嫌な笑顔に反比例して哲は渋い表情になったが、ナカジマは益々嬉しそうに口元を緩めた。
 秋野は内心このおっさんとはある意味好みが合うと思って苦笑し、何となくナカジマの背後の車に目をやった。シルバーのシーマが誰の所有物かは分からないが、運転席に見える涼しい横顔は遠山だろう。
「坊主、久しぶりだなあ。元気かい」
「お陰様で、どーも。それじゃあ」
「おいおい、相変わらずつれねえなあ。ちょっと待って頂戴よ。憐れな年寄りに愛の手を。合いの手じゃねえぞ、言っておくけどな」
「おっさん、暑くて頭沸いてんのか」
「ヤクザなんてなあ、みんな頭沸いてんのよ。今更何を言ってるんだい、お前さんは。あんたも相変わらずかい、仕入屋の兄さん」
「ああ、その節はどうも」
 秋野が会釈するとナカジマはひっひと喉が突っ張ったように笑って顎を掻いた。
「小宮山はあれからすっかりおとなしくってねえ。いきがるのも程々にって、痛え目に遭って学んだみたいだよ。ただのチンピラ風情って野郎だったが、ちったあ皮が剥けたってもんだ」
「より性質の悪いヤクザ者になるじゃねえか、どっかのクソ虎のお陰で」
 哲が口を挟み、ナカジマがまた笑う。
「まあまあ、そう言いなさんな。大事にされて坊主は幸せ者だろうが、ええ?」
「誰が」
 暑いなあ、とナカジマはそら惚けて呟き、哲は低く悪態を吐く。照りつける太陽に額に汗を浮かべたヤクザは掌で顔を煽いだ。
「なあ、炎天下で世間話じゃ年寄りは干上がっちまうよ。とりあえず車に乗ろうや」
「何でよ」
「お願いがあるんだよ、お願いが。頼むよ、坊主」
 キツネ顔のヤクザに形ばかり拝まれて、哲は益々低く不機嫌な溜息を焼けて柔らかくなったアスファルトに吐き出した。

 そういうわけで、北沢組の組事務所である。
 哲の前に出されたのは金庫ではなくパソコンだった。ナカジマの話によると、最近はヤクザもハイテク化が進んだらしい。メールで回る連絡もあれば、インターネットだって駆使しなければならない。そんなわけで導入されたパソコンだったが、ナカジマはまるで駄目なようだった。
「うちの事務所にも使えるのはいるんだけどなあ、大体がちょこっとメール打つくらいなのよ。そいつも出かけちまって、この膨大な量の書類を清書しなきゃならねえっつったってなあ、俺じゃあ三日はかかるだろ」
 女の子がいたら頼むんだけどなあ、とまるで古い銀行員のようなことを言ってナカジマはへらりと笑う。
 遠山がいるのだから、まさか本気でお手上げということもあるまい。要するに偶然見かけた哲をいじりたくて仕方がないだけなのだろう。
 ヤクザとは係わり合いになりたくないという哲の切なる願いは時々こうやって裏切られるが、秋野にしてみればこれは係わっているうちに入らない。ナカジマの干渉は近所のおじさんと同程度で、それだけにこのヤクザがどれだけ哲を気に入っているか分かろうというものだった。
「お前さんだって今時の若者だ、パソコンくらいちゃちゃっといじれるだろう、坊主」
 つい三日前まではパソコンの電源の落とし方もよく分かっていなかった哲がしかめた顔を上げたが、秋野は哲より先に口を開いた。
「打つだけなら出来るだろう、やれよ」
「……なんでてめえに作業指示出されなきゃなんねえんだよ」
「まあそう言うな、坊主」
「おっさん、その口癖止めろよ。むかつくな」
 嫌そうな顔をして、哲は大きく舌打ちした。
「何で」
「別に。とっとと終わらせて帰るから電源入れてくんねえかな、まったく」
 遠山が苦笑しながらノートパソコンを立ち上げる。OSが立ち上がる微かな音に眼をそちらに向けつつ、ナカジマがマルボロライトの箱を胸ポケットから引っ張り出した。
「——さて、仕入屋さんよ。俺は坊主の労働力の対価に何を支払えばいいのかね」
 にやりと口元を歪めるナカジマを哲が肩越しに振り返り、秋野を見て片眉を引き上げた。

 

 哲がキーボードを叩くぱちぱちと言う音が響く。秋野はどこか火の爆ぜる音にも似たそれを聞きながら、何故か阪田寛恵の踵がステップを踏むように床を打つ音を連想した。
「うちは確かにヤクは扱ってねえ。これは親父の方針でな、何も人道的なヤクザってわけじゃねえよ。お上との間にも見逃すの見逃さないのってのはあってな、ヤクってのは見逃してもらえねえ代表選手よ。拳銃も麻薬も人を殺すが、まあ、見境なしってな薬のほうだわな」
 ナカジマは二本目の煙草の穂先を馬鹿でかいクリスタルの灰皿の縁で払いながら眼を細めた。
 哲がキーパンチャーの真似事をする代わりに秋野が要求したのは、袁の事情を話した上で、どこかの組がシマの中で薬を捌いていた中国人と揉めていなかったかどうか、その情報だった。
 レイに頼めば調べられないことではないが、レイは秋野と違って特定の組とそれなりのビジネス上の関係があるらしかった。おかしなしがらみを押し付けられては敵わない。
「中国人グループがお国から密輸した質のよくねえヤクを捌いてたって話は聞いたよ。関東洸龍会の下の香川組な、あそこの看板背負ってる小倉商会ってのが最近中国人を追い掛け回してたらしい」
「そんなに大口で捌いたんですか」
「そうさなあ、量はそうそう問題じゃねえと思うぜ。それよか小倉商会のナンバーツーが中国人とくだらねえことでやりあってな、鉛玉食らって昏睡状態なのよ」
「先月末の、キャバレーで発砲があったとかってやつですか」
「それそれ。あれなあ、中国人ホステス間に挟んで二人が揉めてたらしい。そのホステスってのが両方にいい顔してたらしいんだが、面倒になってわざと二人の予約をブッキングしたらしいんだな。ヤクザっつったって飲みに行くときに拳銃ぶら下げて行きゃしねえがよ、あちらさんはそういう意味では何も考えてねえもんだから、頭に来てぶっ放した。現場に落ちてたのが銀ダラだってんで、暴力団同士の抗争ってことになったんだろ。小倉の奴等もまさかおおっぴらに中国人にやられましたとは言えねえだろうしなあ。しかし幾ら何だって得物落としてくかねえ」
「密輸銃なんて何の証拠にもなりませんからね。鍍金した軍の廃銃でしょう? 指紋も取られた事がないなら、とりあえず危険はない」
「……あんた、詳しいねえ」
「いいえ、とんでもない」
 ナカジマに穏やかな笑みを向け、秋野は無理矢理話を元に戻した。
「じゃあ、小倉商会に追いかけられてた中国人は」
「今頃山か海か、どっちにしても見つからねえだろうな」
 哲がぱちん、とキーを一つ打つ。ナカジマは煙草を灰皿で揉み消して、キツネ面を秋野に向けた。
「お互い複数でやり合ったらしいが、小倉は仮にも香川の看板背負ってんだ。外国人にでけえ面されて挙句幹部がおっ死んだじゃ面子が立たねえ。あの時その店にいた中国人は端からとっ捕まったって話だし、それが丁度十日くらい前か。死体も出ねえだろうし、誰が死んだかも今になっちゃ分からねえよ。あんたらの探してる兄ちゃんがその中にいたんなら、十中八九お陀仏だと思うがねぇ」
 後半は振り返り、キーを打つ手を止めた哲に向けて無表情な視線を投げつつ、ナカジマは低く続けた。
「忘れんじゃねえぞ、坊主よ。ヤクザってのは外道の集まりだ」
「あんたもか」
 素っ気無い哲の質問にナカジマはにやりと笑い、また秋野に顔を戻した。哲は既に書類を転記し終えたのか、椅子を軋ませて背凭れに寄りかかる。席を外していた遠山が丁度ドアを開けて顔を覗かせ、ナカジマに視線を当てた。
「仕入屋の兄さんはさ、なんかあれだな、坊主よりか色々知ってそうだから言うまでもねえんだが」
 ナカジマは派手なシャツに似合いの大袈裟な身振りで秋野を指した。ナカジマが秋野の何を知っているのか知らないが——いや、多分小物に興味はないだろうから何も知らないに違いない。ただ、幾許かの期間でも同じような世界に身を置けば、異臭は染み付いて消えないということかも知れない。
 ヤクを捌いていた袁。追い回され拉致されたチャイニーズマフィア達。秋野が想像することはナカジマには同じように想像でき、しかし哲にはそうではないはずだった。
「なあ、兄さん。そうだろ? 辛い思いすんのはいつでも女と決まってる」
「…………」
「言ったろ、坊主。ヤクザだけじゃねえ、こっちの世界這いずり回ってる野郎なんてえのは皆頭沸いてんのよ。扱ってんのが銃だろうがヤクだろうが闇金だろうが女だろうが、規模が大きかろうが小さかろうが大差はねえ。食い物にされて泣くのはいつでも何の罪もない弱者だよ」
 今ひとつ要領を得ない顔の哲が曖昧に頷くのを眺めながら、秋野は内心溜息を吐く。
 不機嫌な哲の本心など見えはしない。見えはしないが、どこか危うい寛恵に向ける哲の視線の微かな翳りに、残暑のせいばかりではない倦怠感が秋野を襲った。