仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 2

「それにしてもよ、マフィアって」
 哲のキーボードを叩く指に、秋野は半ば呆れ、半ば感心して息を吐いた。
 パソコンなんかほとんど触ったこともないと胸を張っていた錠前屋は、少しばかり教えただけでブラインドタッチを覚えてしまった。打ってみろと適当に捲った本を差し出すと、こちらが目を剥く勢いで指がキーボード上を滑り始める。もっとも、アプリケーションを使いこなせるかというとそういうわけでは決してなく、狙った所にマウスポインタが行かなくてむかつくと、高齢の初心者のような文句を言うばかりだ。
「打つだけなら昔の携帯とかタッチパネルより簡単だな。的がでけえし」
「……数字と指先使わせたらお前本当に凄いのな」
「別にすごかねえだろ。自慢じゃねえが数学で2以上は取ったことねえ」
 銜え煙草で眼だけ上げ、その間も手は動き続ける。
 実は哲の記憶力と集中力は、ある部分においては人並み外れている。気づいたのはずいぶん前だが、日常生活の中でその事実を目の当たりにすることは殆どないと言っていい。解錠の最中はその才能が如何なく発揮されているのだろうが、何分目に見えることではないから外から見ているだけでは余りよく分からない。
 単なるテキストエディタの上に次々と打ち出されていく文字の並びはあっという間に数を増やし、増殖する。錠前の番号が哲の脳内に吐き出される様を目にしているような感覚に、秋野は僅かに眩暈を覚え、哲の手首を軽く掴んだ。
「もういい。で、何だ。マフィアがどうした」
 大して面白くもなかったのか、哲はあっさり頷いて手を止めた。
「いや、お前この間あの子の彼氏をチャイニーズマフィアっつったろうが」
 秋野は床に胡坐を掻いている哲の膝からノートパソコンを受け取って電源を落とす。真菜のためにセットアップしていたもので、後で耀司が取りに寄る事になっている。
 あの後琳可を居酒屋から勤務先の近くまで送った帰り、真菜のパソコンの話からワイヤーロック、それから優也の話になった。それで何となくパソコンを触らせてみたくなって面倒くさがる哲を連れて戻ったのは二時間前だ。短時間でキーボードを征服した錠前屋は、既にそのことは忘れたのか、秋野が片付ける機械には視線を向けもせずに語を継いだ。
「マフィアっていうことは、中国版ゴッドファーザーみてえのがそこらへんにいんのかと思ってよ」
「ああ」
 秋野は苦笑して煙草を銜え火を点けると、パソコンがなくなった膝の上に頭を乗せて転がってみる。哲は嫌そうに唸って秋野の頭をひとつ殴りつけ、動かないと見ると低い声で不機嫌に呻いた。
「退け、邪魔くせえ」
「便宜上マフィアって言うが、実態はチンピラ集団だ。組織だってないヤクザ……とも違うな」
「お前人の話を聞かねえのはわざとか、それとも耳が遠いのか?」
「両方。で、何でマフィアじゃないかというと、ボスがいるわけじゃない」
「ジジイめ、くたばれ」
「地域ごと、気の合う仲間、とにかく適当な小集団だ。窃盗、強請、仲間から手に入れた麻薬の売買、用心棒、そんなことをしてるのが多い。彼女が東北出身なら彼氏もそうだろう」
「東北?」
「満州のほう。だからお前の祖父さんの知り合いと言葉が通じたんだろ」
 哲は煙草を銜えたまま忌々しげに煙を吐いた。不機嫌に顔を歪めながらもああ、と理解したことを表す声を上げ、僅かに頷く。
 膝枕と言えば本来はほのぼのとした雰囲気だろうが、いつ顔の上に拳骨が降ってくるかと思えばなかなかにスリリングではある。話に気を取られて秋野を攻撃するのを失念している哲の顔を下から眺め、秋野はゆっくりと語を継いだ。
「中国経済は急成長してるっていうが、農村部は相変わらずだっていうしな。都市周辺にある企業の工場なんかは環境劣悪ともいうし。まあ外から見た話だから実情は知らんが、東北地方から流れ込んでくる中国人は実際多い。昔はタイ、フィリピンなんかが多かったが、今はイラン、中国、東欧も結構いるな。あの子も彼氏も、地元で仕事がなくてこっちに来たんだろう。小遣い稼ぎにホステスやる日本の女の子と違ってあっちは真剣だからな、日本語の話せる彼氏がいるならそりゃ生きて帰って来てくれた方がいい。いざと言うときに頼れる人間がいないと心細いだろう」
 別に哲があの女の子に代わってレイを使うのが嫌と言うわけではないし、哲がそうしたいならそれでもいい。だが、あの子が彼氏を探すのは、決して愛情ばかりではないだろう。お互いの利用価値の対価を恋愛ごっこで払うならそれもいいが、哲が巻き込まれる謂れはない。
 もっともそんなことが分からない錠前屋ではないから、余計なお世話というやつには違いない。哲を賢しいと思う人間はいないかも知れないが、少なくとも哲は鈍くもなければ馬鹿でもない。
「いいんだよ、別に。じいちゃんの知り合いに頼まれてた話だから最後まで面倒見ようって気になっただけで、別にあの子に同情したとか、若い二人の愛に感動したとかそういうことじゃねえよ」
 そう言うと、哲は煙草を灰皿に押し付けた。
「パソコンと同じで、電源入れたら誰かが切らなきゃなんねえだろ」
「お前が切ることないだろう」
「じゃあ誰が切んのよ。いいんだよ、しつこいな。てめえは黙ってろ」
 手を伸ばして哲の後頭部を引き寄せる。唇が触れ合う寸前に哲の左肘が思い切り胃に食い込んで、秋野は咄嗟に握り締めた手を握りこみ、哲の髪を捻り上げた。
「いってえな! 禿げるじゃねえか、離せクソ野郎」
「この……本気で胃に肘入れるな……」
「シャットダウンだ、シャットダウン。再起動しなくていいぞ、永遠に電源切れてろ、虎野郎」
 生意気な口を利く錠前屋の首を引っ張り寄せて唇に齧り付く。哲が喚くのと同時にチャイムが鳴って、哲にとっては救いの神が、パソコンを取りにやって来た。

 

 レイは変人だが優秀だというのは、彼を知る誰もが認めることだ。
 今回も無駄かも、彼女のためにならないかも、と渋った割にはきっちり結果を出してきた。もっとも、哲の瓦割りならぬ殻割りにびびっただけかも知れないが。
 レイは哲や今の秋野より、余程裏の世界と繋がりがある。ヤクザを始めいかがわしい人種との付き合いも多いから、幾ら相当な迫力があるといっても哲に怯えるとは思っていなかった。しかし考えてみれば、ヤクザは怖くて当たり前、怖くなければ仕方がない。
 それに反して哲は、相手によって喧嘩の仕方はあくどいかも知れないが、それほど悪い人間というわけでもないし、見た目はただの若者だ。一見怖くないものが豹変するときこそ、恐怖というのは生まれやすいのかも知れなかった。
 ともかく、哲に尻を叩かれたレイが見つけてきたのは、依頼人の彼氏である袁という男の失踪寸前までの足取りで、女の写真が何枚かついていた。
「へえ、可愛いな」
 まるっきり心がこもらない声で哲が言う。秋野が横から覗き込むと、哲が見ている一番最初の写真はぼやけた横顔で、可愛くても分からない代物だった。
「お前、近眼か?」
「お前は絶対老眼だろ」
「あのねえ……」
 溜息を吐いて、レイは頭を抱えてみせる。哲が一瞬口の端で笑ったのが視界に入った。
「調べろっていうから一所懸命調べたんだからな。聞く気ないなら教えないけどっ!」
「誰がそんなこと言った?」
「教えてくれなきゃ眠れねえよな」
「なあ」
「あーもうやめてくんない? 俺漫才って大嫌い」
 眼を吊り上げたレイが口を尖らせて刺々しい声を出す。秋野と哲が揃って神妙な顔を作り口を噤むと、嫌そうに、それでもやっと説明を始めた。
「これ、あの中国人の女の子の彼氏の彼女」
「ややこしいな」
 面倒くさそうに呟いた哲に肩を竦め、レイは捲った写真をこちらに向けた。今度は顔がはっきり映っている。どこにでもいる二十代女性。
 特別田舎臭くもなければだからといって目を瞠るほど垢抜けているわけでもなく、擦れ違っただけでは覚えられない、要するにいい意味でも悪い意味でも普通の容姿だ。
「琳可ちゃんのところに帰って来なくなった直前にはこっちの彼女と会ってたみたい。ちなみにこっちは阪田寛恵、日本人」
「こっちに鞍替えしたって単純な話なのかもな」
「うーん、だったら琳可ちゃんを放り出せばいいだけのような気もするけど。ま、ほとんどあの子のヒモだったらしいから、それはないのかもね。寛恵ちゃんのアパートには今はいないし、何日か張り込みしたけど姿も全然見なかったよ。会って話聞いたらいいかもね」
「そうだな」
「彼女、演劇かダンスかなんかそういうのやってるんだって。昼間はファミレスでホールスタッフしてるみたいだよ。行ってみる?」

 

 レイは、曰く秋野の秘蔵っ子である哲を拝んで満足したのかそれとももう関わりたくないと思ったのか知らないが、とにかくそれ以上首を突っ込もうとはしてこなかった。
 いってらっしゃいと笑顔のレイから渡された書類によると、寛恵は映画館の斜め向かいにあるステーキ専門という触れ込みのファミレスで働いているらしい。
 レイが演劇かダンスかなんか、という曖昧な言い方をしたのは、彼女の所属する集団はその中間で活動しているということのようだった。写真は彼女が休日に自宅を出てコンビニに行ったところを撮影したものだったせいか、実物は写真より化粧が濃かった。
「あれか?」
 秋野が煙草の先で寛恵らしき女を指すと、哲は何気なく顔をそちらに振り向けた。
「……じゃねえの」
 秋野がすいません、と声をかけると、寛恵はこちらにやってきた。ひとつにまとめた髪が頭の後ろで左右に揺れる。女らしい丸みがあまりなく、写真で見るより痩せているように見える。お待たせしました、と寛恵が声を出すと、ミントの香りが声と一緒に漂った。
「阪田寛恵さんですか」
 秋野が穏やかに言うと、寛恵は眉を寄せ、僅かに首を傾けた。写真で見る限り凡庸だが、ダンスをやっているせいか動きがなめらかで、実物は意外に華があった。寛恵は秋野と哲を交互に眺め、伝票をエプロンのポケットにしまって頷いた。
「はい、そうですけど……」
「ちょっとお聞きしたいことがありまして。阪田さんのお付き合いされてる男性のことで」
 秋野は哲の呆れた視線を無視しつつ、レイのところからくすねてきた、レイ本人の名刺を差し出す。寛恵は調査事務所の名前に更に眉を寄せ、秋野をじっと見て唇を引き結んだ。
「休憩のときにでも、お話を伺えませんか」
 秋野の声に暫し躊躇ってから頷き、寛恵は細い息を吐いた。

「あの、もしかして彼結婚してたんですか」
 寛恵が指定したのはファミレスの斜め向かい、一階がコーヒーショップのビルにあるダンススタジオだった。スタジオには誰もいない。週に何回か、夜の社会人向けクラスで講師の真似事をしているのだと言う。
「どうして?」
「だって、調査事務所って言われたら浮気調査くらいしか思いつかないから」
 休憩時間だから十五分しか時間がないという寛恵はファミレスのエプロン姿のままだった。ポニーテールにひっつめた髪が、小さな顔を更に小さく見せている。写真よりチークが濃く、アイメイクもしっかりしていた。香水なのか、寛恵が動くとミントの香りがふと漂う。哲はどちらかというと興味なさげで、いつものように何も喋らない。秋野は軽く息を吐き、バーにつかまってジーンズに包まれた細い脚を上げ下げする寛恵に眼を向けた。
「浮気調査じゃありませんが、袁さんには一緒に暮らしてる人がいるんです。といっても彼女が問題にしているのはあなたの存在ではありませんからご心配なく」
「そうなんだ……。言い訳に聞こえるんだろうけど、同棲してる人がいるのは知らなかったわ」
 秋野が肩を竦めると、寛恵は小さく笑う。どこか寂しげな笑みは、彼女を何故か特別な女に見せた。演技なのか素なのかは、この短時間では分からない。
「袁さんが家に戻らないんで、心配してます。あなたが行き先をご存知なら教えて頂けませんか」
「……もし、私の家に彼がいたとして、彼女のところに彼を素直に帰すと思います?」
「さあ。僕はあなたと彼女の勝敗には興味ないですが、少なくとも依頼は完遂して料金を貰いたい。彼が家に戻ろうが戻るまいが正直言ってどちらでも構いませんが、居場所くらいは持って帰らないと」
 寛恵はくるりと回り、哲を見た。壁に凭れて黙って立つ哲は片眉を上げ、寛恵を見返す。
「知らないわ。私も暫く会ってないし、電話も来てない。私も彼に会いたいの——嘘じゃありません」
 寛恵は哲を見つめてそう言った。断言する寛恵を哲が不思議なものでも見るように見つめ、僅かに首を傾ける。
 寛恵の痩せた身体が僅かに震え、秋野は一瞬彼女が倒れるのかと錯覚した。同じように感じたのか哲の肩がぴくりと動く。
 哲の眼を見つめたまま寛恵はまたあの寂しげな笑みを浮かべ、指の先を優雅に、まるで踊っているように動かした。