仕入屋錠前屋52 うそつきの挨拶 1

 哲にはしっくりしない女だと思った。
 そうでなければ女連れの知り合いにいちいち声を掛けたりはしないし、実際自分がされても面倒なだけだ。野暮なことはしたくないしする気もないが、何となくひっかかって声を掛けた。
「哲?」
 秋野の声に、まだ熱気の残る夜気の中、流れる人の波の真ん中で哲の足と背中の筋肉の動きが止まる。髪の先だけが、動きの余韻に僅かに揺れた。
 ゆっくりと肩越しに振り返った哲は、億劫そうに身体を向けると喉の奥で低く唸る。そういえば最近この唸り声で随分意思の疎通が図れるようになった気がするが、嬉しくないどころか何やら哀しくなってくる。
 それはさて置き、哲の隣の女も、哲が立ち止まったので振り返った。明るく染めた長い髪の根元から十センチが黒くなっているのが気になるが、そこそこ美人の部類に入る女ではある。しかし、少女を思わせる体つきやそれに反してどこか蓮っ葉な印象は、どう見ても哲が好む女の特徴とは思えなかった。
 女は秋野を見ると哲に向かって早口でまくし立てたが、秋野には何を言っているのかさっぱり分からない。甲高く鋭い音は恐らく中国語と思われるが、定かではない。そもそも中国語と言っても北京語、広東語——と幾つもあるのだから、この速さでは聞き分けることなど不可能だ。
「お前、中国語分かるのか」
 女の言葉の奔流の中でそ知らぬ顔をしている哲にそう聞くと、「いや、さっぱりわかんねえ」と返事が返ってきた。
「わかんねえってお前、物凄く普通に話しかけられてないか」
「知るかよ。通じねえって何べん言っても通じねえんだ、これが」
「……当たり前だと思うけどな」
「ああ? 何でよ」
「唸るだけで通じるのは俺くらいのもんだよ、馬鹿だね」
 言いたいことを言ったのか、当の女も今は口を噤んで哲と秋野の顔を交互に見ている。
「で、どこに行くんだ」
「さあ」
 肩を竦めた錠前屋は、どうでもよさそうに伸びた前髪をかき上げた。

 

 秋野の眉間に刻まれた縦皺に怯えたのか、レイはおどおどと身じろぎを繰り返した。繰り返したが、かと言っていなくなる気配もない。
「——レイ」
「ん? 何?」
 そのわざとらしい満面の笑みに腹が立ち、秋野は座ったまま目の前のテーブルを蹴り付けた。蹴飛ばされた安っぽいテーブルは派手な音と共にレイの膝頭に激突する。以前にもどこかで見た画だ。膝を抱えて呻いているレイを見やって鼻を鳴らし、秋野は哲たち三人が座る隣のテーブルに目を遣った。

 哲の連れていた女は、哲の依頼人で王琳可という中国人だった。依頼人と言っても哲が中国語を解するわけではなく、哲の祖父の知り合いからの紹介だったのだと言う。彼女は就学目的で来日したが結局学業は放り出して風俗勤めを始めた。カネにつられた、よくある話だ。
 そうこうしているうちに故郷から彼氏もやってきて、彼女の前に現れた。彼氏はいわゆるチンピラで、空き巣に入ったり本国の知人から分けてもらった薬を小口で捌いたり、まあろくなことはしていない。
 少し前に中国人と哲が睨み合う現場に出くわしたが、あの時はこの女からの依頼で仕事をした日だったのだと、ファミレスの喫煙席で煙突のように煙を吹き上げながら哲は言った。
「この子の彼氏ってのがあん時の一人だ。角材持ってたやつ」
 哲が顎を振って指した女は、大人しくクリームあんみつとか言うものを食べている。良く見てみればまだ二十代前半だろう。疲れた表情が老けて見せるが、子供っぽい笑顔も時折覗かせる。
「彼女風俗って言っても本番なしの店に勤めてたらしいんだけどよ、彼氏の強制で中国エステに商売変えさせられたらしいんだわ。彼氏にしてみりゃ金蔓なんだろ、パスポートも取り上げられて金庫に入れられたんだと。で、それを開けてやってくれってのがじいちゃんの知り合いの依頼でよ」
「じゃああれはその帰りか」
「そ。部屋出てくるとこ見られたみたいで、間男だと思われたみてえな。俺最近そんなんばっかじゃねえか、よく考えたら」
「そういう年頃なんだろ。しかし爺さんの知り合いって、チャイニーズか?」
「まさか。つーか何だよ年頃って。いい加減なこと言うんじゃねえ馬鹿」
「じゃあどこで彼女と接点が?」
「聞けよ人の話をよ。依頼人ってジジイは彼女の客だよ、客。ただの助平ジジイだ。満州からの引き揚げで中国語喋れるってんで話聞いてみたら、可哀相になったんだと。俺にしてみりゃ曾孫みてえな女に突っ込んで喜ぶジジイなんざ反吐が出るが、まあ俺が腹立てても仕方ねえわな。この子にしてみりゃそれでも客だし、拾う神だったのかも知れねえし」
 その彼女が前回念の為に教えた哲の携帯に電話をしてきたのが秋野に目撃される一時間前。
 そもそも来日の理由は就学目的だったくせに、彼女は客へのリップサービス用語以外の日本語はまったくと言っていいほど話せない。というわけで哲には何がどうなっているのか分からない。どうにかすでに閉店時間を過ぎた大手の百貨店の名前を確認して出て行くとぼんやり突っ立っていたから取り敢えず連れて歩いてはみたが、これからどうしようかと思っていたと言う。
 その老人に電話をしてみればいいじゃないかと言う秋野に、哲は煙草の灰を灰皿の縁で落としながらしたに決まってるじゃねえか、と返事を寄越す。
「先週心不全で死んだって、電話に出た女に言われてよ。腹上死だって、さすがに開いた口が塞がらねえよ俺も。ところであの電話に出た姉ちゃん、あのジジイの何なんだろうな?」

 

 そんなわけで丁度いいお前通訳探せ、と横柄に言われ、高くつくぞと言いながら秋野はさすがに考え込んだ。英語とタガログ語なら日本語と同じように話せるし、スペイン語も日常会話なら問題ないが、中国語までは流石に喋れない。何人か思い当たる人物もいるが、今の今で手配できるかどうかは分からない。そこで頭に浮かんだのが最近レイの事務所に出入りしている男だった。
 レイは秋野の幼馴染で今は調査会社をやっている。使える男だが正直言って馬が合わない。嫌いではないが好きでもない。秋野は足を洗ったつもりの世界に腰まで浸かった男だし、哲に興味を示しているのも気に食わない。引っ張り込まれれば容易に抜け出せない世界に、幾ら裏社会の人間と言っても哲を突き落とすほど自分は人非人ではないつもりだ。心配というのとも違う。ただ、必要でないならあんなところに入り込んでも益はない、それだけだ。
 そのレイが最近引き取って調査員として使っている——名目だけかもしれないが——中国人ならいつでも暇そうにしているからうってつけだろう。怪しげな日本語を喋る男は確か楊とか言ったが、本名かどうかは怪しいものだ。
 訳は言わずに金は払うからそいつを貸せと捻じ込んだら、何故か待ち合わせの居酒屋にはレイが一緒についてきた。まさかと思ったが、さすがに鼻が利くことにかけては人後に落ちない。今回ばかりは秋野の負けと言うことだった。

 楊は丸顔に愛嬌のある笑顔の元スリだそうで、背は高くないがひょろ長い手足が案山子を思わせる。その棒切れのような手足を大袈裟に動かして通訳しているのが面白い。同じ東北地方出身らしく、言葉には問題がないらしい。
 哲が彼に何事か言うと立ち上がり、こちらへやって来た。女と楊は笑顔でなにやら話に花を咲かせているようだ。
「終わったのか」
「ああ」
 哲はベンチソファの秋野の隣にどっかり腰を下ろして煙草を銜えると、レイの顔を正面から眺めて眉を上げた。突然真正面から臆することなく見据えられて、レイが戸惑ったように瞬きする。
「……こんにちは、佐崎さん?」
「どーも」
「えーと、俺は」
「あんた探偵だっつったな。あの子の彼氏、探してくんねえかな」
「哲」
 秋野が顔をしかめると、哲は秋野の前に置かれたグラスを勝手に呷り、斜め下から睨んできた。
「何か文句あんのか」
「文句はない」
「じゃあじろじろ見んな。鬱陶しいんだよ、てめえの面は」
 険しい顔も吐き捨てるような物言いもいつものことだが、レイは目を瞠っている。レイが食べもしないのに頼んだミックスナッツの中からピスタチオを選び、手に取って指先で殻を粉砕しながら哲は物憂げな声を出した。
「あの子の彼氏、十日帰って来てないんだと。まあ死体になってんのか他の女のところにいるかなんだろうが、探してくれねえか」
「——彼氏、中国人? 内輪揉めでその辺で刺されたならもう見つかってるだろうし、どこかのヤクザのご機嫌損ねる真似したんなら死体なんか出ないんじゃないかな。海の中か山の中か」
 僅かな沈黙の後、レイはそう言って僅かに首を傾げた。相変わらずその辺の大学生のようにも見えるレイは、ちらちらと哲の顔を観察しながら掌の間でグラスを回す。
 こいつが哲に会ってみたいと言い出したときには面倒を抱え込むのは嫌だと思ったが、会ってしまったものは仕方がない。秋野は息を吐いて固いベンチソファの背凭れに身体を預ける。
「さっきアキから大体聞いたけど」
 レイは秋野を見て、また哲に視線を戻す。
「佐崎さんがパスポート取り返す手助けしたんでしょう? 彼女、なんでまだ彼氏と?」
「言葉も分かんねえとこで一人でやってけないって分かって、そしたら彼氏をどんなに愛してるか気付いたんだとよ。それが本当がどうかは知らねえけど、泣きながら部屋に戻って結局元の鞘、ってやつだ。男には一発殴られたらしいが、それで終わり。同じ生活が戻っただけ」
 ぱきり、ぱきりと小さな音が哲とレイの間に落ちてゆく。哲の顔は無表情だが、見慣れた秋野にはどこか苛立っているようにも見える。哲は基本的に女子供には優しいのだ。レイは気を取り直したのかグラスの中の酒を舐め、うーん、と呻き声を上げて少し笑った。
「でもさ……、もし生きてたとしても、いないほうが彼女のためじゃないのかな。アキもそう思うだろ? 自分の女を殴るような男と幸せになれるわけないし。別に恋人が出来たなら戻ってくるわけないし、死んでるなら今更死体見つけたって、彼女が困るでしょ」
「頼まれたら見つけるのがお宅の仕事じゃねえのか」
「だけど、見つからなくても経費分の料金は貰うよ。無駄なら諦めたほうがいいんじゃないかなあ。僕は別にやってもいいんだよ、勿論。でもさあ、お金も勿体ないし、それに——」
「ぐちゃぐちゃうるせえ」
 低く静かな声の直後、ピスタチオの殻と哲の掌がテーブルに叩きつけられた。物凄い音がして、レイは座って口を開いたまま目を丸くし、中国人二人は立ち上がってお互いに手を握り合っている。テーブルの上に粉々に砕けた殻が飛び散って、白い粉が吹いたようになっていた。
「——……あの」
 哲の銜える煙草の先が、口ごもるレイを促すように何度かゆっくりと上下する。
「やるのかやらねえのかはっきりしてくんねえかな。俺は気が短くて馬鹿なんでな、イラつくんだよ」
 自分の腿に肘を置き両手を脚の間に垂らした哲は、獲物を睨む凶暴な野犬のようだ。秋野は通路の向こうから恐る恐る顔を出した店員を手を振って追い払い、思わず低く苦笑を漏らす。笑い出した秋野を一瞥し、哲は背もたれに身体を預けた。秋野の肩に掌を擦り付けて粉を拭う。その手を掴んで動きを止めると怖い顔で睨まれた。哲は秋野の指を振り払い、ゆっくり煙を吐きながら正面のレイに目を向ける。
「やります」
 レイが小さな声でそう呟き、哲は初めてにたりと笑った。