仕入屋錠前屋51 あ、思い出した。

「あー、酷いな」
「すっげえな。スコールってのか、こういうの。傘もあんまり意味ねえな」
「まったく、熱帯じゃあるまいし。足がびしょ濡れだ」
 秋野は濡れて黒っぽく色が変わったサンダルから足を抜き、顔をしかめる。
「もう拭くのも面倒だな。シャワー浴びてくる」
 さっさと浴室に向かう秋野の通った道筋に、濡れた足跡がついていた。

「何か飲むなら勝手に出せ」
 シャワーから出てきた哲を見て、秋野は言う。哲は髪をタオルで拭きながら冷蔵庫を開け、ペットボトルを出して蓋を捻った。秋野の家の冷蔵庫には水だけは必ず入っている。
 今日は他にもいろいろ入っているが、この間覗いたら拭いたようにきれいな庫内にミネラルウォーターだけが五本整然と並んでおり、他には缶ビールすら入っていなかった。
「てめえは水と空気喰って生きてるのか」
「あと、お前とな」
 その時秋野が吐いたつまらない冗談は相変わらず、役に立たないことは空っぽの冷蔵庫と大差なかったが、まあそれは今はどうでもいい。
 秋野は濡れてる、と呟いて自分の足跡をティッシュでいい加減に拭う。見かけより横着でものぐさなのも、相変わらず。筋の浮いた足の甲が、哲の視界の端を横切る。
「そういや、お前がサンダル履いてんの初めて見た気がすんな」
「そうか? まあ確かに滅多に履かないけどな。どうも昔の癖で落ち着かないんだよ」
「癖? 何だそれ」
「サンダルなんか履いてたら命にかかわるだろ。何かあった時脱げて走れなかったら逃げ切れんし」
「……それ、日本国内の話か」
「だからブーツが好きなんだよ」
「特殊部隊かてめえは」
「何言ってんだ、しがないチンピラつかまえて。それ言ったらお前だってサンダルなんか見たことないぞ。いつもスニーカーじゃないか」
「ああ」
「マカロニアン?」
「よく見てんな」
「ラインの色違いで何足も履いてるだろ。いつも同じだから目につくんだよ」
「色々選ぶのが面倒くせえんだよ。回して履きつぶしていかれたらまとめて買うからな、靴は大概同じの三足買うんだよ」
「どこまで面倒臭がりなんだ、お前は」
「それに、あれだ、蹴っ飛ばす時はスニーカーがいいんだよな。ブーツとかごつい靴だと重くて威力は出んだけど、足の裏の感覚が鈍んのな。蹴ったー、っつーあの高揚感がねえのよ」
「……今度地下足袋買ってやるよ」
「地下足袋ぃ? 似合いすぎて惚れても知らねえぞ」
「阿呆か」
「てめえがな」
 ペットボトルを呷る哲を横目で見て、秋野は呆れたように首を振った。

 哲の手からペットボトルが滑り落ちたのは、事故と言える。
 何の前触れもなく崩れた右手の煙草の灰、灰か残り僅かな水のボトルか、どちらを落とすか一瞬で判断した上での落下だった。
 殆ど残っていないボトルは軽い音を立てて床に落ち、秋野の足が濡らした跡と、そう変わらないくらいの水が撒かれた。
「悪ぃ」
「いいよ、別に。それより哲、この間——」
 秋野の手がペットボトルに伸ばされて、動かした哲の足の裏に意図せず触れた。
「————っ!!!」
「……何だよ」
 怪訝そうに見つめる薄茶の瞳が幾度か瞬き、眇められた。哲は座ったまま少し後ずさり、何事も無かったふうを装って煙草を灰皿に擦り付けた。秋野は黙ってゆっくりと倒れたペットボトルを掴んで起こす。水が跳ねかかって濡れた哲の足を一瞬見やり、肩を竦めて眼を逸らす。哲は秋野に気付かれぬよう、小さく安堵の息を吐いた。

 

 それこそネコ科の猛獣のような敏捷さで、秋野の手が哲の足首を掴まえる。踵から土踏まずに沿って這わされた指に哲は思わず飛び上がった。加減せずに足を蹴り出したが焦って冷静さを欠いた分角度が今一。踵は秋野の腕に当たったが、蹴られたほうは涼しい顔で更に哲の足の裏をくすぐった。
「ちょっと待てっ!! やめろ触んなっ」
「……ちょっと掠っただけだろう」
「ああそうだなだからもう触んなよ」
「そう言われたら余計触りたくなるのは、別に俺だけじゃないと思うが……お前、首筋とか脇腹平気なくせに面白いな」
「ちっとも面白くねえ。寄るな」
「そう言われてもねえ」
「足の裏だけは駄目だってうわだから触んなっつってんのにこの——…………!!!」
「自分から白状するなよ、馬鹿だね」
 濡れた足を舐められて眩暈がするほど気分が悪い。
 足の裏に他人が触れたときの心許なさ、これは単にくすぐったいという感覚以上に哲が嫌う感触だった。
「ぶん殴るぞこら!!」
「どうぞ」
「てめえこの」
 秋野は哲の足元に跪き、哲の足の水を丹念に舐め取った。指を口に含まれても平気だが、土踏まずを舐め上げられて本気で焦る。根拠のない切迫感は傍から見れば滑稽かも知れないが、本人にとっては切実だ。
「マジでぶっ殺すぞ、この——止めろって!!」
 靴の話なんかしている場合ではない。二度とこいつの前で裸足になるものか。
「どうして」
「どうしてって……っ」
「大して触ってない」
「…………頼むから止め——、勘弁してくれ秋野っ!!」
 引き攣り裏返った声に秋野が吹き出し、哲の足首を捕まえたままげらげらと笑い出した。
「哲、何情けない声出してるんだよ……ああ、腹が痛い」
「うるせえ、手を退けろクソ野郎!!」
 涙眼で怒鳴っても可愛いだけだよと呟いて、秋野は肩を震わせて一頻り笑った。

 

「あ、思い出した」
 秋野の低い声は、ごく平静に低く響く。
「足の裏って性感帯だってよく言うよな、そういえば」
 爪で引っ掻くように何度も触れられ、舌先でくすぐるように舐められた。指の間に差し入れられた舌が濡れた靴の中の水気のように、不快に表皮を刺激する。気持ち悪いんだか良いんだか、吐き気すら伴ってこれはまさに責め苦だと哲は思う。幾ら世間で性感帯と呼ばれていても、個人差がある。哲にとっては性感帯というよりかは、急所に近い。
 吸い上げられて背が反り、肩甲骨が床に当たって痛む。見えるのは天井ばかり、感じるのは舌先が与える刺激ばかり。
 秋野の濡れた足跡も床に撒かれた水も、哲の足に跳ねた水も。
 水気は既に乾いて、湿っていた髪も乾いた。哲の足は根性の悪い虎に喰われて唾液に濡れ、喚く声に僅か、湿り気が混じる。
 哲の足元に蹲る秋野の目が笑いを含んだ視線で、それでも鋭く哲を射った。

「俺も思い出した」
 哲の掠れた声に合わせ、秋野の歯が、左足の親指を甘く噛む。
「——足の裏より膝の裏のほうが感じるぜ、俺は」
「もっと早く思いつけばよかったのに、馬鹿だね」
 すべて見透かして笑う秋野の腹を蹴り、哲は短く唸って体を起こす。立ち上がった秋野がペットボトルを拾い上げ、ゴミ箱に放り込んだ。放物線を描いたボトルは乾いた音を立てて落下して、僅かに飛び散った水滴が一瞬蛍光灯に光って案外繊細な輝きを放つ。
「哲」
 秋野の低い声に眼を上げる。
 下りた前髪の隙間からこちらを見据える金色に、はらわたが煮えるように錯覚し、哲は噛み締めた歯の間から、低く掠れた呻きを漏らした。
 裸足で熱した鉄板を踏むような、熱さと痛みと追い立てられる焦燥感。
「足の裏と膝の裏、どっちがどうか比べてやるからここに来いよ」
「……くたばりやがれ」
 可愛げのない返答に満足そうに眼を細め笑う秋野が、もう一度哲、と繰り返す。収まり始めたにわか雨の雨音が、窓の外を緩やかに遠ざかって行くのが耳の奥に密かに響いた。

 

 

 

「もういいだろっ……!」
 哲は息も絶え絶えで、涙の滲んだ険しい眼を秋野に向けた。
 さっきから執拗に足と膝の裏を弄る秋野はまさに鬼だ。哲に対する容赦とか、思いやりとか、とにかくそういうものに無縁な秋野はセックスだとまた一段とえげつなさを発揮する。
 男と寝るということに、抵抗がないわけでは決してない。秋野と殴り合いの末、勢いでそういうことになった時は状況が状況だっただけに考えている暇がなかったが、もう何度目か分からなくなってしまった今でも抵抗はあるし、気持ちがいいというより辛い部分が多い。それでも、優しさがない、やけに生々しいその行為に、興奮が抵抗を凌駕する。
「くそ、もう絶対てめえの前で靴は脱がねえぞ」
「無理だろ、そりゃ」
「靴下は死守してやる」
「——子供みたいなこと言ってるんじゃないよ」
「…………っ、この、さっさと突っ込んで終わらせやがれ……」
「下品だねえ。お前にはあれだな、どこに何が欲しいか言ってみろとか、ああいう台詞は通用しないよなあ」
 秋野は喉の奥を鳴らして笑い、哲の額に浮いた汗を掌で拭う。面白がるような顔は相変わらず、服を乱してもいない秋野は哲の耳元に顔を寄せ、しゃがれた声で囁いた。
「前からと後ろからと、どっちがいい? それともお前が乗っかるか」
「マジで一遍死んで来い、クソ野郎……後で弘瀬に電話してやる。銀の弾でも打ち込まれろ、くそったれ」
「で、どれがいいんだよ」
「死ね阿呆!」
「はいはい」

 

「……動くのは面倒くせえ。四つん這いで後ろから突っ込まれてると屈服させられた気がしてすっげえむかつく」
「——分かってるよ、お前の好きなやり方くらい」
「じゃあいちいち訊くんじゃねえよ、前から突っ込め、早く寄越せ」
 狭隘な場所を押し広げる異物。突如として、高校の時に胃炎で飲まされた胃カメラを思い出した。ファイバースコープが胃と十二指腸に異常が無いかを確認する、有難迷惑な異物感。
 暴力と紙一重の激しくて濃いセックスに、足裏を弄られたのとは別の切羽詰った何かが芽生える。秋野の掌が哲の手首を頭上で纏め、きつく引き絞るように引き上げた。
引き伸ばされた身体、内臓、低く濁った呻き、苦痛と快楽。哲の足の指がシーツを掻き、足の裏が、痙攣するように何度か震えた。