仕入屋錠前屋50 失われるものを恐れることはもう無い 2

 一人でおろおろしても仕方がないが、だからと言って落ち着いても仕方がない。優也はパソコンを前にしてどうしたものかと首を捻り、椅子の背に凭れて仰け反り、また身体を戻してうう、と唸った。
 優也の会社は一人一台パソコンが支給されていて、経理や人事と言った内勤はデスクトップ、優也のような営業はノートと区分けされている。優也も出張や会議があれば出先で使う小型のノートパソコンが与えられているが、今優也が唸っているのはまさにそのパソコンが原因だった。
 何処にいったものやら、机の中から鞄の中までひっくり返したが見つからない。優也が探しているのは、パソコンとデスクのケーブルダクトを繋ぐワイヤーの鍵である。
「あ、秋野さん……? 井波です。優也です」
 秋野に会って電話番号を聞いてから二日しか経っていなかった。以前秋野に告白し、やんわりと、しかし断固として断られたことがあった。それだけに迷惑に思われたら嫌だから掛けるのを躊躇ったが、今思いつく解決手段は秋野だけで、優也は散々迷った挙句に携帯のボタンを押したのだった。
「どうした? 何かあったか」
 秋野の背後から人の声によるざわめきが微かに聞こえる。どこか人の多いところにいるのだろう。
「すみません、こんな時間に——」
 吉川の店に電話を掛けたら娘らしき女の子が出て父は今揚げ物から手が離せないと言われたが、折り返し電話はすぐに掛かって来た。日付の変わった今頃電話を掛ける非常識を思って悩んだが、吉川はこの時間に秋野が寝ていることは殆どないと請合った。
 果たして、明らかに出先と思われる喧騒をバックに、秋野の低い声が耳元で優也を促した。
「優也」
「すいません、遅くに。吉川さんに聞いたら掛けても大丈夫だって言われて」
「構わないよ。どうした」
「その、実は、秋野さんの仕事のことちょっと聞いて、俺今欲しいものが」
「今? お前今何処だ」
「会社です。明日から出張なんで残業してて——あ、別に悪い事しようとかじゃなくて! その、俺、パソコンのセキュリティワイヤーロックの鍵、なくしちゃったみたいで……」
 誰もいないフロアに自分の言い訳がましい声がやけに甲高く響く。真っ黒いガラスに映る整った女のような顔を見て、優也は思わず眼を閉じた。

「いやーん、お人形さんみたいっ!!」
 現れた秋野は、一人ではなかった。
 秋野と同じくらいの背丈の、明らかに何処からどう見ても見間違いようがないオカマと、先日一緒に居た哲という人が連れだった。三人はこの如何にもありふれたオフィスという空間で異彩を放ち、ここに馴染んでいるはずの優也の存在が間違いなのではないかとさえ錯覚する。
 オカマは登場するなり優也をぬいぐるみのように抱き締めた。息苦しくて死ぬかと思ったが、不思議と嫌な感じはしない。秋野が呆れたような声でマサル、いい加減にしろ、と言い、取り敢えず彼——彼女——がマサルさんなのだということが分かった。
 セキュリティーワイヤーロックのマスターキーって、ないですか。
 問い掛けた優也に、秋野はああ、と呟き暫し押し黙ると、それよりいいものがあるからすぐに行くと言って電話を切った。電話を切って十五分、如何に近くにいたとは言え、深夜であるはずのこの時間にそんなに簡単にキーが手に入るものなのか。驚きを禁じえない優也の顔を見て、秋野はおかしそうに頬を緩めた。
「どれだ?」
「こっちです。俺の机に」
 秋野より先にマサルが哲という人の背をどしんと叩いて優也の方に押しやった。
「てっちゃん、出番よっ」
「うるせえなあ、離れてろよ。気が散る」
「もう何よっ、折角ついてきてあげたのに」
「頼んでねえし」
「遠慮しなくていいのよ!」
「遠慮してねえし。これか?」
 彼はワイヤーを引っ張って、ちらりと優也に眼を向けた。鋭いが意外に落ち着いた目が、優也を見つめる。気圧されて頷くと、彼は優也から眼を逸らし、手元を見た。まるで優也の顔の造作に頓着しない様子に内心でまた安堵して、優也は屈んでワイヤーを手に取る彼の頭を見下ろした。
「あの……?」
「こういうの開けんのが仕事なんだよ、俺」
 ぼそりと呟く声は低い。決して感じは悪くないが、どこか穏やかでない人だと思う。彼は優也の椅子に腰掛けて、ジーンズの尻ポケットから工具入れなのか小さなケースを出す。中から二本、金属の小さな器具を取り出して机の上に置き、ワイヤーの先についた鍵の部分を手に取った。
 市販されているワイヤーには南京錠タイプやダイヤル錠タイプもあるようだが、会社で使っているのは、すべて鍵穴に鍵を差し込み、回して開けるタイプのものだ。アルファベットのQに似た鍵穴に本来差し込む鍵は、先が筒状になった小さなもの。家庭で使われることはないと思うが、優也もどこか別の場所で見たことがある気がする。
「八万ロックっつーんだ」
 呟いた彼は左手に持った薄い鉄板のようなもの——平たく長い棒のようなもので、真ん中に二本の足のような突起がある——で鍵穴を固定し、右手の、歯医者の器具のようなものの先で鍵穴をつつき始めた。ぼんやりと数えていたから確かではないが、およそ二十回弱だろうか。素人目には穴に詰まったゴミでもほじくっているようにしか見えないが、そのうち彼が鍵穴に噛ませた左手の器具を回すとかちりと音がした。
「ほら、開いたぜ」
「もう、ですか!」
「仕事だから」
 肩を竦めた彼はさっさと立ち上がった。秋野がそのまま立ち去ろうとした彼の腕を掴んで乱暴に引き戻す。優也は秋野の仕草に一瞬、乱暴なだけでない何かを見た気がしたが、掴まれた方はまったくそう思っていないらしかった。まるで犬が歯を剥くように歯軋りをして唸ると、仕方なさそうにその辺の椅子を引き出してどっかり座る。
 前に見たときにも思ったが、彼は秋野の問いかけにはいつも吐き捨てるような鋭く短い返答をする。優也に返す言葉にはない微妙な棘のようなものから、どうも余り仲が良くないらしいと思えた。それなら何故二人で酒など飲んでいたのかとも思うが、仕事上の付き合いなら多少の我慢はするということなのかも知れない。
「なあ優也。会社にマスターキーはないのか?」
 彼の仕草に気を取られていた優也は、突然の秋野の質問に咄嗟に反応できなかった。
 真っ白になった頭で言い訳を探しながら秋野の顔を見返すと、薄い茶色の瞳が優也を見つめ、徐々に息が苦しくなった。この人を好きだと思った昔の自分は、多分何も見えていなかったのだと思う。剃刀の刃で頬を撫でられるような感触から逃れたくてか、閉じたノートパソコンの表面を指が無意識に何度も撫でる。指の動きにようやく気付き、優也はごくりと唾を飲んだ。
「……ある、かも知れません。分からないけど」
「勘違いするなよ。別に来るのが面倒だったってわけじゃない」
「分かってます」
 机に凭れたオカマがなんの話、と鍵を開けた彼に訊き、彼は何も言わず肩を竦めて座った椅子をくるりと回してこちらに背を向けた。しかしオカマの手で強制的に椅子を回され、またこちらを向いて低く悪態をつく。
「多分、電話すれば誰か来てくれたと思います。誰も、きっと俺を叱らない。俺は、こういう顔だから」
 絞り出した声は自分でも驚くくらい掠れていて、喉に閊えそうなくらい硬かった。
「だから絶対に、会社の人間には電話したくなかったんです」

 

 確かに並の女より余程美貌という言葉が似合う。優也という青年は青ざめた顔をして、どこか必死の面持ちで食い入るように秋野の顔を見つめていた。それは思慕とはかけ離れた、言ってみれば溺れる人間が救命具を見る目つきとでも言えばいいか。相手がどうこういうのではない、自分の身の安全のためにロープの切れ端を掴もうとしている、そんなふうに見える。
 エリが困ったような顔をして哲を見たが、哲には何も言う気がなかった。そもそも、何を言っていいのか分からない。眉を上げた哲に顔をしかめてみせ、エリは眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「俺、平凡だから。物凄い間違いもしたことないし、悪い事もしてません。だから、何でも顔で許されるんです。人格や能力じゃなくて、ただの顔のつくりで。女の子は綺麗でいたいって思うでしょ? マサルさんだってそうですよね」
 こちらを向いた白皙の面に、いかついエリの顔は慌てて頷く。
「俺も前はそうでした。俺の母もそうです。母は、若さと美しさを手放すまいと日々足掻いてる。いつかは衰えるものなのに、です」
「見た目がいいってのは別に罪悪じゃない。それに、何もかもが許されるわけじゃないだろう?」
 秋野が穏やかに口を挟んだが、優也は硬い表情のまま首を振った。パソコンの蓋を撫でる右手の指が神経質に上下する。
「その時付き合ってる恋人にね、何で俺を好きになったのか訊くと、顔って答えが返ってくる。いつもですよ、毎回です。容貌が武器になるのはいつまでですか? 顔だけで無能が許されるのは? 許されなくなるのが怖いんじゃありません。俺は早く年寄りになりたい」
「お前が無能なんて誰が言った」
「母は失うことを死ぬほど恐れてる。でも俺は、失われるものを恐れることはもう無いです。顔だけで与えられるものなんてひとつも欲しくない。こんなもの早く衰えてしまえばいい」
「贅沢な悩みねえ」
 エリが溜息とともに吐き出した。優也は一瞬自分の居場所が分からなくなったように瞬きしたが、エリを見つめ、何ともいえない表情になる。
 まったくもってその通り、エリに言わせれば王侯貴族の悩みなど理解できない庶民の気持ちに近いだろう。優也にその気はまるでなくとも、エリの前でのそういう台詞はあまりに皮肉だし、残酷だ。
 もっともエリが傷ついているかと言えば、恐らくそんなことはない。哲は思わず苦笑に頬を緩めたが、哲を見ていたわけでもないのに、エリも同時ににっこり笑った。
「まあ、でもね。人間の価値観なんて色々だわ。あたしがあんたみたいな素敵な顔だったらなーんにも悩まないで手に入るものは貰っちゃうと思うけど、悩みはそれぞれだもんね。あたしお手洗いにいってくるわ」
 エリはそう言って、でかい尻を振りながらフロアを突っ切っていく。
 優也が気まずそうな顔をし、手元に眼を落として何か言いかけたが、秋野がそれを遮った。
「優也、本当に失くすのは怖くないのか? 欲しいから怖いんじゃないのか」
 デスクに尻を乗せた秋野がそう口にし、優也が跳ねるような勢いで顔を上げる。哲は椅子の背凭れに身体を預け、煙草を取り出しかけてここはオフィスなのだと思い出した。舌打ちして箱をしまう哲に、秋野が一瞬肩越しの視線を投げる。
「確かにゲイだってだけで、人より多くのものを失うかも知れんな」
 優也が皮肉な顔をして笑ったが、秋野は少しも笑わなかった。
「嫌がらせじゃない。そんな顔するな。お前がゲイってことでリスクを負ってるっていうなら、俺は生まれが原因でそういうことを思う。俺はフィリピンとアメリカと日本の混血でな。親父のことは日本人だって事以外は何も知らん」
 混血というのは知っていたが、欧米人と日本人とのだと思っていた。哲も思わず秋野を見上げたが、その顔にフィリピン人の特徴はまったく見つけられず、些か混乱する。大体背丈は並みの日本人より余程高いし、肌の色はやや白いくらいで、フィリピン人の浅黒さは見当たらない。かといって欧米人のピンクがかった白とも遠く、肌の色と言う点では日本人が優位を誇ったらしかった。
 優也はどう思っていたのか知らないが表情を余り変えず、それでも見開いた目が初めてこの話を聞くことを物語って瞬いた。
「俺は失うのが怖かったよ。ずっと、長い間」
 細められた秋野の目が優也を見つめる。優也はパソコンから手を退けて、身体の脇に垂らすと拳をきつく握り締めた。