仕入屋錠前屋50 失われるものを恐れることはもう無い 1

 自分の身体で、どこが一番好きかと訊かれたら。
 迷う事なく顔、と答えたはずだった。そして多分、殆どの人はそれに異を唱えないと断言出来る。それは俺が自惚れているからではなくて、客観的な事実として、厳然とそこに横たわる。
 俺がそれを望んでいるかいないかは、別として。

 

「あ、秋野さん——」
 思わず声に出してしまって、優也は慌てて口を押さえた。
 と言っても、出てしまった言葉はもう既に本人の耳に届いてしまっていて、男の目がこちらに向いた先にはただ間抜けに口を塞いだ自分の姿があるだけだ。
 そもそも、覚えていないかも知れないのに。
 今更思ったところで如何ともし難い。恐る恐る外した掌をカウンターにそっと下ろす。彼は顔の下半分を隠すものがなくなった優也を見て、僅かに笑った。
「久しぶりだな」
 社交辞令なのかと思った。名前はきっと忘れたのだろうと。
「ユウヤ? 何固まってる」
 彼の口から出た自分の名前に安堵して、優也は長い息を吐いた。
 勿論、顔はともかく、名前は忘れられていても仕方がない程度の顔見知りだ。それでも、自分にとってはそれが幾許かの慰めになり、救いになると、この人は気付いているのだろうか。
 口を開きかけ、彼の隣に連れと思しき人が座っているのにようやく気付いた。邪魔をしてしまったかと思い当たり、謝ろうとして言葉を捜す。彼が、唇の間の煙草を指で挟み、スツール一つ分向こうで低い声で名前を呟く。
「優也?」
 優也の目から涙が溢れ、スーツのズボンの上に黒い染みを作った。

 

「秋野、何やってるんだ」
 店長の吉川の声がして、優也は慌てて突っ伏していた机から身体を起こした。今は優也の休憩時間だから、控え室にいても咎められることはない。分かってはいたが、泣いた顔を誰かに見られるのは嫌だった。アルバイト学生だという身分もあるし、女々しいと思われるのが嫌なのだ。
 優也は所謂、美形、という部類に入る。自分でこんなことを言うのと馬鹿のようだが、実際優也の顔は美形モデルとして一時期話題になったらしい母の若い頃と瓜二つだった。女のような綺麗な顔、というのは優也のコンプレックスでもあり、ある意味では武器でもある。
 小さな頃から女みたいだと言われることに怯え、その反面世間的には酷く肩身の狭い性癖——同性しか恋愛対象にならない——に関しては有効に活用しているのだから自分でもどうかと思う。傍目には馬鹿らしい悩みでも、優也にとってはこの顔は、二つの違った面を持つ悩みの種なのである。
「何って、ケース運ぶんだろ、これ」
「お前はそんなことしなくていい。客だろ、今日は」
 吉川と、知らない男の声がする。泣いた顔を見られればどうしたのかと訊かれるだろう。さっき電話で恋人に捨てられたのだと正直に言えば、当然彼女に振られたのだと思われる。女の子に振られて泣いていると思われるのも情けないが、本当のことを言うわけにもいかない。出来れば誰にも知られたくないと思うのは、同性愛者としては当然の心理だ。
「何でだよ。来たからには手伝う——ああ、失礼」
 突然ドアが開いて、机の上のティッシュに手を伸ばしかけた優也は中途半端な体勢で固まった。ドアノブを持った姿勢を保ったままの男が、優也の顔を正面から見据える。
「秋——井波、どうした?」
 男の長身の影からこちらもいかつい吉川が顔を出して眉根を寄せ、心配そうなその声に優也はようやく我に返った。
「あ、ええと、すみません、ちょっと……その」
 見た目は格闘家のようだが風貌に反して面倒見のいい、年齢はともかくまるで父親のような吉川に色々聞かれたら、うっかり相談してしまいそうで怖い。咄嗟のことで言い訳を思いつかない優也の顔から視線を外した男が、吉川を振り返ってその肩を軽く押した。
「おい、やっぱり止めた。裏に持っていく」
「ええ? それはいいが、井」
「花粉症だろ。いいから持ってけって」
「って秋野」
「ほら店長、仕事仕事」
「わかったよ」
 遠ざかっていく声と足音に、優也はその場に固まったまま動けなかった。

 状況はあの時とどこか似ている。
 あれからもう三年が経っていた。吉川のタイ料理屋には客としても何度も行っているが、この人に会ったことはない。あの頃は二十代の後半だったと思われる秋野は、特段変わってもおらず、さりとて若いままというのでもない、相変わらずの得体の知れなさだった。
 突然泣き出した優也に慌てもせず、煙草を銜えて煙を吐き出しながらこちらを見ている。底が見えないウィスキーのような薄い茶色の目もまた、相変わらず、だ。
「どうした」
 低い声でからかうように訊かれ、優也は尻から取り出したハンカチで乱暴に顔を拭った。
「懐かしくて」
「また振られたんじゃないのか」
 今度は声を上げて笑う秋野につられて優也も笑った。
「違いますって、もう……」
 実際、先ほど仕事の相手と打ち合わせを兼ねた飲みがお開きになったばかりだ。相手が帰宅し優也も資料を片付け、勘定をして帰ろうとしていた所だった。
 秋野は優也を手招きすると、ブーツを履いた足で隣に座った人物の足を蹴っ飛ばし、てつ、と言った。そのぞんざいな態度と噛み締めるような口調のギャップに、優也は思わず秋野の向こう側を注視した。
 先ほど一瞬連れだと思ったのは間違いではなかったようだ。そうでなければゲイバーでもない場所で、見知らぬ男同士が並んで座っているわけもないが。
「ぁあ?」
 語尾を跳ね上げる不機嫌な声に、優也は我知らず首を竦めた。
「昔、ミツルの父親の店でバイトしてた優也だ」
 ゆっくりこちらに視線を向けて、てつ、と呼ばれた人物は、僅かに首を傾ける。初対面だと大抵は、綺麗な顔だとか、美人だとか言われるのが常だった。別に嫌ではないが正直嬉しくもない。それでも来るべき台詞に何と謙遜しようか無意識に頭が回っていた優也のその顔を見て、彼は煙を天井に向けて吐き出した。
「突っ立ってねえで座れば」
「佐崎哲、だ。仕事の関係の知り合い」
「初めまして、井波優也です」
「どうも」
 結局、佐崎哲という鋭い目つきの彼は、可愛いとか綺麗だとか、一度も口に出さなかった。

 

 哲は秋野の背中を蹴っ飛ばし、邪魔だ、避けろ、と吐き出した。秋野の背が丁度テレビ画面の邪魔をする。別にどうしても見たいわけではないが、遮蔽物があって見えないと腹が立つ。秋野は携帯のメールに返信をしているようで、適当な相槌を打ちながら尻をずらした。
 何となく飲みに行くか、と行った先で秋野の昔の知り合いに会ったのはついさっきだ。いきなり泣き出した男と秋野の昔話に付き合う義理はどこにもなく、帰ろうかと立ち上がりかけたら毎度の如く足を踏まれた。勿論踏み返したが、何となくタイミングを失って、帰ることもできず酒も中途半端だった。
 その後はさして目的もなく秋野の部屋に寄り、酒を飲みながらテレビをつけたらメジャーリーグの日本人特集とやらをやっていた。
「お前、野球分かるのか。サッカー部だろ」
 秋野がどうでもよさそうに訊いて来る。哲はもう一度秋野の背中を強く蹴った。
「親父が飯んときによくナイター見てた」
「へえ」
「お前は」
「そりゃ子供の頃遊んだし、人並みには分かるが。そういや優也の彼氏が草野球やってたな」
 一瞬聞き違えたかと思ったが、さっきまで目の前にいた優也とか言う人物を思い出せば、すんなり嵌る。秋野は携帯をテーブルの上に置き、哲の腰掛けるソファに背を凭せ掛けた。
「あいつ、ゲイなんだ」
「俺には関係ねえ話だ」
 哲が言うと、秋野はそれはそうだ、と呟いて煙草を銜え、火を点けた。真っ直ぐ立ち昇る煙が途中でふわりと崩れ、揺らめく筋になって哲の顔の前を流れていく。秋野は煙を目で追っていたが、溜息を吐いて口を開いた。
「前に、あいつに好きだって言われて往生したことがある」
「男にも女にももてて羨ましいな、おい」
「……お前ね。弘瀬けしかけるぞ」
「要らねえ、あんな馬鹿」
「お前に言われたら弘瀬も終わりだな」
 秋野は肩を震わせて笑い、灰皿を取れと無言で左手の長い指をひらひらとさせた。取ってやるのも面倒だが、ここは秋野の部屋だから仕方ない。
「悪いな。まあ、昔の話だし、あれは優也の一時的な気の迷いだからいいんだが」
 秋野は肩を竦めて灰を払う。灰皿の縁に擦りつけられた穂先が一瞬紅い火の粉を散らした。
「あいつが泣くの見るとどうもこう、落ち着かなくてな」
「秋野さん、やっさしーい」
 哲の棒読みの感嘆に肩越しに眼を向け、秋野は忌々しげに顔を歪めた。
「止せ、気色悪い」
「余計なお世話だ。ま、あの顔だしな」
「男なのに細くて小さくて、オカマとは違うが、どこか女みたいだろう。どう扱っていいのか分からんから厄介でな」
 そう言って溜息を吐く秋野を見て、哲は不思議な気分になった。扱いが分からないというふうには見えなかったし、秋野は平素から男も女も、人間というもの相手には常にそつなく、適切な対応をしていると思える。もっとも上辺を取り繕うのは簡単と言えば簡単で、特にこいつはそれに長けてはいるが。
 間違いなく優也より男臭いであろう自分と関係を持っている事実を振り返ると、優也に好意を持たれて困惑する秋野という図こそ浮かばなかった。勿論哲は秋野に執着こそすれ恋愛感情を持った覚えはまったくないが、だったら抱けるのかという話でもあるまい。
「お前よ、」
「ん?」
 振り仰ぐ秋野の薄茶の目の色も、優也を心配してか、心なしか柔らかく見えるのは気のせいだろうか。
「何で俺なんだ?」
「……はぁ?」
 秋野の間延びした返事に、哲は思わず吹き出した。グラスの中の酒を一口舐め、屈み込んで秋野の手から煙草を取り上げて一口吸った。
「いや、何となく。訳の分かんねえ奴だと思って」
「今頃か」
「自分で言うか。ああいうのの方が、納まるとこにすんなり納まりそうな気がすっけどな」
「何言ってるんだ、馬鹿かお前」
 秋野は心底呆れたような顔をして、哲の手から煙草を奪い返すと身体を持ち上げ隣に腰掛けた。
「そういうんなら優也より——お前より女のほうがいい。分かってるだろうに」
「言ってみただけだ」
 テレビの中で日本人打者がゲームの出来について訊かれ、笑顔で何か喋っている。哲と秋野の間の沈黙に白い煙の筋がまとわりつき、秋野の口から不意に深い溜息が漏れた。
「……お前、されるばっかりで分からんかも知れんが」
「あ?」
「幾ら色々使って慣らそうが、女のあそこと違ってもろに筋肉だからな。箍が外れそうなくらい興奮して、硬くしてなきゃ入らんもんだ」
「…………」
 先日映画館で交わしたくだらない会話と秋野の迫力を一瞬思い出し、哲は僅かに眉をしかめた。隣に座る秋野の顔は横を向かねば当然見えない。わざわざ見るほどのものでもないと思いながら、殆ど反射的に眼を向けた。
 秋野はメジャーリーガーの顔に視線を当てたまま、銜え煙草の先を揺らして口を開いた。
「俺は優也と違ってゲイじゃない。綺麗な顔してるとか好きだとか、そんなんじゃ男相手には少しも反応しない」
「お前だけじゃなくて普通は勃たねえよ」
「だろ? だから幾ら優也がそこいらの女より綺麗な顔だって言ったって、対象外だ」
 秋野は煙草を左手の指に挟み、その左手をソファの背に這わせた。秋野の左側に腰掛ける哲の肩の向こうに煙が上がる。傾けた顔、吐き出される微かな息が哲の耳の後ろをくすぐった。
「ちょっとばかり好きとか愛しいとか。そんなもんで俺は相手に手の内を見せもしなけりゃ、傍に居てくれなんて懇願もしない。愛したい、愛されたいっていうのはギブアンドテイクだろ。俺は進んでお前に何かしてやる気なんかない、錠前屋。欲しいだけだ」
「傲慢だな、おい」
「けどな、してくれって言われりゃしてやるぞ。何だって」
 秋野の声は低く、甘さはどこにも見えなかった。まるで恫喝されているように、哲の背筋が一気に粟立つ。温度の低い深い声は、まるでそこに感情など存在しないかのように平坦に、しかし皮一枚捲った下には煮えたぎる何かを隠して部屋に響いた。
「……試してみろよ」
 耳の中に呟く秋野を横目で見て、哲は煙草、と吐き捨てる。秋野の左手が持ち上がり、哲の口元を覆った。秋野の親指が哲の頬を撫で、人差し指と中指の付け根が煙草と一緒に唇に押し当てられる。哲が息を吸い込む長さを正確に読んで僅かに離れた掌に、ゆっくりと煙を吐きかけた。
「邪魔だ、避けろ」
 先ほどと同じ哲の台詞に素直に手が離れていく。哲はソファから立ち上がり、グラスを置いて玄関に向かう。秋野は何も言わず、立ち上がる気配もない。哲は黙って秋野の部屋を出て、生温い夜風に髪を乱されながら家路に着いた。
 あの男に、特に何をして欲しいと思ったこともない。今更試してみろと言われたところで咄嗟に出てくることもない。そんな哲の反応を見越してああいう台詞を口に出す秋野も秋野だし、大して心を動かされもしない自分も自分だ。
 哲は優也が聞いたら卒倒しそうな悪態を吐き足元の地面を蹴飛ばすと、頭を掻いて溜息を吐いた。