仕入屋錠前屋49 now and then

「おい」
 哲の低い声が耳朶を打ち、秋野は不意に我に返った。暗がりの中、哲の顔が滲んで見える。光源のないせいかと思ったが、頬の冷たさで涙のせいだと自覚した。
「目ぇ開けろ」
 威嚇するような、低く押し殺した哲の声が、暗い部屋に微かに響く。
「ああ——、すまん」
 荒い息を吐きながら、状況がつかめずに秋野は辺りを見回した。
 住み始めて何年目かになる安アパートの部屋。ベッドは間違いなく自分のベッドで、当然ながら腕の中には誰もいない。覗き込む哲の仏頂面さえ、いつもと何ら変わりはない。日常に囲まれて瞬きを二度する間に昨夜の記憶が甦ってきて、秋野はベッドに身体を起こして顔を擦り、再度呟いた。
「大丈夫だ」
 昨晩は哲を連れ、解錠の仕事で貿易会社のコンテナ倉庫まで足を運んだ。仕事は滞りなく済み、哲と耀司と酒を飲んだ。哲は泊まると言って上がりこむとソファであっという間に眠り込み、自分もさほど変わらぬ時間に眠りについた。特筆すべきことなど何もない一日、この押し潰されそうな不快感に思い当たることと言えばひとつしかない。
 飲み屋で斜め後ろに座った女性が、タガログ語を口にしていた。
 片言の日本語と英語とタガログ語のちゃんぽんはこの界隈では珍しくないフィリピン人だろう。彼女と連れの会話はどうということもない世間話に終始し、自分達より先に帰って行った。
「本当か?」
 哲の声に目を上げる。さっき、彼女もこう言ったのだ。
「本当? じゃああんたもすぐ来てよ」
 たわいない会話の中の、さして意味のない一言。それがタガログ語であっただけで。

 密造銃の販売をしていた知り合いのフィリピン人が日本人と諍いを起こして刺殺されたのは、十年ほど前のことだ。販売ルートを巡って揉め、刺されて放置された彼を偶然発見したのは秋野だった。息を引き取る直前、死の恐怖に怯えて子供のようにしゃくり上げる男にかけた慰めは、社交辞令と言えば不謹慎だが、本気ではなかった。二十近くも歳が離れ、友人とすら呼べないただの顔見知りのエミリオ。
「大丈夫だ、エミリオ。報復はする、絶対だ」
「ほんとか、アキ? でも死ぬのは怖いんだ、怖いよ、アキ。お前もすぐ来てくれよ——」
 彼の腹から流れ出した大量の血液と臓物の臭いが、自ら手に掛けた男の血と同じ臭いであったかどうか、秋野には思い出せない。
 あの頃の自分に人一人の命を奪う資格も権利もありはせず、それは今でも変わらない。知り合いを殺されたからと言って秋野が誰かに危害を加える言い訳にはならない。分かっていたが結局あの男を撃った自分の心中は、今ではもう思い出せはしなかった。
 遠い昔に殺した人間の苦悶の顔ひとつ、今更思い返してみたところで、疼くべき罪悪感すらどこかに置き忘れて久しい。それでも時折思い出したように悪夢を見る。夢の中に佇む血塗れの男は、エミリオのようでいて、自分が手にかけた男のようでもあった。
 腹から溢れる血を撒き散らしながら嗚咽を漏らす男がゆっくりと歩く。目の前を通り過ぎ、秋野を一瞥する眼窩は底知れない紅黒い淵で、憎悪が見えないことに秋野は夢の中で煩悶する。男が自分を罵るのを期待する。いっそ殺意を見せてくれればいいとすら思うのに、男はただ悲しげに秋野の周りを足を引きずりながら歩くだけだ。

 哲の前で涙を流す気などどこにもない。見られたくないというのではないし、恥ずかしいなどとは思いもしないが、意味がないと、そう思う。
 ベッドの上に覆いかぶさった哲が前と同じ夢か、と低く問い、秋野は何とか口の端を歪めて笑いのようなものを浮かべた。
「ああ。さっき飲み屋にフィリピーナがいたろ。タガログ語でちょっとな。いつもより酷い」
 向こうの部屋のソファで寝ていた哲が起き出して来るのだから何か口走ったか暴れたのかと思ったが、確かめるのも面倒で、秋野は額に手を当てて軽く擦る。冷や汗が浮かんでいるのは気のせいではないだろうが、敢えて気付かないふりをした。
「悪かったな。寝ろよ」
 目を閉じた自分の上に、息を潜めた獣の気配を感じて溜息を吐く。暫く黙っていた哲が急に口を開いた。
「撃ったのか、刺したのか」
 唐突な質問に目を開いて哲を見た。哲はいつもの面白くもなさそうな顔で秋野を見下ろして、ゆっくり一度目を瞬く。
「……撃ったんだ」
「へえ?」
 哲はそれ以上何も言わず、沈黙が音を立ててそこいらじゅうに散らばるようなおかしな感覚に陥った。
 悪夢にうなされること、夢の内容はこの間哲に話したばかりだった。知っているのは耀司とあとは何人か。哲にも言ってしまった以上、今更細部を隠すことでもないが、聞いても面白くはないだろう。チンピラの過去としては捻りもないありふれた話だし、話して解放されるものなら幾らでもそうするが、自分が折り合いをつけられない以上誰かに聞いてもらっても結果的には同じなのだ。
 実際、手を汚したことは一度ではない。別に殺し屋ではないから何十人も殺ったかといえばそんなことはありはしないが、少なくとも人生の一時、自分は明らかに違う世界で生きていた。それでも、十年経った今も尚初めて人の命を奪った記憶が秋野を苛むこの現実は、天罰ということか。余りに感傷的で笑えるが、まったくそうでないとは言い切れない。
 哲が無造作に秋野の頬に手を伸ばす。掌で乱暴に頬を拭われ、まだ涙が伝っていたことに初めて気付いた。
「泣くな」
 フラッシュバックなのか。
 むせ返るような血の匂い、額に浮かぶ冷や汗。死にたくないと言ってエミリオが流した涙、人一人の命を奪う簡単さに恐怖して流した自らの涙。哲の顔が粘つく紅い色の向こうに見える。その喉を絞め上げたいという強烈な欲望は、哲に感じるものなのか、過去の何かへのものなのか、頭が混乱して掴めなかった。
 哲はベッドの上に腰を下ろし、秋野の髪に指を差し込んで強く掴んだ。
「……哲」
 心臓が、神経が悲鳴を上げた。何かがまとめて焼き切れそうな感覚に秋野は歯を食いしばった。哲がゆっくり秋野に覆い被さる。頭蓋の奥で閃く鋭い光に、一瞬、目を閉じた。

 

 何かをひっくり返すような騒がしい音がした。秋野は煙草を銜えたまま立ち上がり、浴室に向かう。案の定ドアの向こうから哲の下品な悪態が立て続けに聞こえてきた。
「哲?」
 ドアを開くと浴室の床に座りこんだ哲が低く唸って見上げてきた。
「何だよ」
「転んだのか」
 運動神経の塊のような錠前屋らしくない、と思わず笑うと、哲は裸足の足で秋野の脛を蹴りつけた。
「てめえのせいで腰が立たねえんだよ。まったく、上品な面しやがってやることはえげつねえ」
 秋野は苦笑して風呂場に入った。確かに、自分のせいには違いない。
 哲の腕を掴んで引っ張り上げ、片足を掬ってそのまま湯船に突き飛ばすように放り込む。勢いよく湯が跳ね、秋野のジーンズにも大量の飛沫が飛び散った。
「物じゃねえんだから投げ込むなくそったれ!!」
 哲が怒鳴り声を上げ、秋野はそれがおかしくてまた笑った。

 何を強要しようとも思わなかったが、手加減しようともまた思えず、短かったが多分酷いやり方で抱いた。単なる欲情であれば、ああいうやり方はしなかった。どちらにしても哲にはいい迷惑であっただろうし、良くはなかったに違いない。
 哲が自分を気遣うことはまずないと言っていい。哲にとって気遣うというのは、基本的に自分より非力な保護対象に向ける感情であるらしく、秋野に対してほんの僅かもそういう思いを持っているとは考えられない。
 先程のあれも気遣いや慰めとは無縁のもので、だったら何だと訊かれるとうまく説明できないが、少なくとも秋野自身が癒されたとも慰められたとも思っていないことだけは確かだった。
 浴槽の脇にしゃがむと手が伸びてきて煙草を奪われる。湿気で消えて行く火を惜しむように、哲はゆっくり肺まで吸い込んだ。
「眠ったほうがいいんじゃねえのか」
 煙草を吸い切り、手で湯をかけてそれを消す。何分かのその過程、一言も発しなかった哲は抑えた声で呟いた。
「どうせ今日はもう眠れない。夢を見るのが怖いからな」
 正直に答えると、哲は吸殻を床に放り投げ、掌で顔を擦った。
「そうかよ」
 温い湯の中から伸ばされる両手。
 水滴が滴る骨ばった腕が、裸の上半身に絡み付く。
 浴槽の縁に手を突いて身体を支えたが、床に残るシャンプーか何かの滑りでうまく踏ん張れない。男二人にはベッドより狭すぎる浴槽へ、秋野は結局引きずりこまれた。
「哲!」
「もっと慌てろよ、つまんねえ野郎だな」
「お前なあ」
「いつだ?」
「人の話を聞けよ」
「仕事か、私怨か」
「哲」
「俺は別に興味ねえけどな。お前の昔話なんてどうでもいいんだけどよ、まあ、仕方ねえから聞いてやる」
 濡れた髪をかき上げて、哲が言う。秋野は口を噤み、哲の獣のような目に思わず見入った。
「吐いちまえよ」
「…………素面じゃ吐けんよ」
「意気地がねえな」
 片頬を歪め、哲は秋野の身体に手をついて自らの体を持ち上げた。浮力のついた体は容易に移動し、哲は上半身を湯から出した状態でその場に留まる。何も言わず捻った蛇口から水が勢いよく迸り、湯の温度を下げていく。秋野は哲の意図が分からずに身体をずらす。浴槽から出ようとすると哲の手が伸び腕を掴んで引き寄せられた。濡れた唇が何度も秋野の喉を這う。
「哲?」
 水を足されて体温と同じ温度になった湯は、まるでそこに存在しないように思えた。それとも皮膚が溶け、この身体が水に溶け出したのかと錯覚する。
「のぼせんだろうが、熱いままだとよ」
「おい」
「素面じゃ無理だっつったじゃねえか」
「哲」
「さっさと吐け」
 まるで喧嘩の相手を威嚇するように低く凄みのある声が、耳の中に吹き込まれる。耳朶を何度も舐められた挙句、強く噛まれて身震いした。
「……十年前だ。俺は、死んだフィリピン人の知人が持ってた密造拳銃の販売ルートを一時的に引き継いで商売してたんだが」
「前にも聞いたな、その辺は。それって今の仕事始めた切っ掛けってやつじゃねえのか」
「まあ、結果的にな。最初はやりたくて始めたわけじゃない。成り行きだ」
 哲の脚が身体に絡みつく。どちらかが身動きすると、水面に波が起こり、水の跳ねる音がする。哲の吐く浅い息が、水に濡れた肌にやけに暖かい。
 忌まわしい記憶。忘れたい感触。
 罪の意識はとうにない。苦しむのは要は自分のためだというだけで、確かに自分はどうしようもなく人でなしだ。秋野は哲のうなじを苛立ちのまま強く掴んで引き寄せた。
「知り合いがチンピラと揉めて刺されて死んだんだ。それで——……哲」
「何だよ」
「話したからって、忘れられるわけじゃない」
 哲は尖った視線を投げながら、薄く笑う。
「そりゃそうだ。けどよ、黙ってりゃ忘れられんのか? そもそもお前は忘れてえのか。どうにもならないなら噛み砕いて吐き出しちまえって言ってんだよ」
「吐き出しても口の中に残るかも知れんだろう」
 身体をずらし、哲は秋野の腰に手を滑らせた。水に濡れた衣類は極端に脱ぎにくい。さすがにこの状態で最後まで行こうとは思っていなかった。哲の手を押しやって目を覗き込む。哲は口を開きかけた秋野の髪に退けられた手を差し込み、生え際から撫で付けるようにして前髪をよけ、鼻先に顔を近づけた。
「残ったら舐めてやるから俺に言え」
 実際に口の中を舐めまわされて、浅くなる息に手を焼いた。
「お前は俺を殺す気か? こんな時だけ甘やかすな。逃げたくなるだろう」
「てめえが死んでも俺はちっとも惜しくねえよ」
「——哲、俺は自分に都合よく勘違いするぞ」
「したいようにすりゃいい。それよりさっさと脱げ」
 脅すような剣呑な声音に、口が渇いて腹の底が熱くなる。容赦なく奥深い何かを引き摺り出そうとする哲の内臓を、それこそ引き摺り出してやりたくて吐き気がする。
「水の中でジーンズ脱げってお前、無茶苦茶言うな」
「脱げねえなら穿いたままそのご立派な物だけ引っ張り出しゃいいじゃねえか。突っ込むのに脚は要らねえ、そんなことも知らねえのか」
「……お前ね」
 哲は頬を歪めて皮肉に笑うと、秋野の脚の間に手を伸ばした。揺れる水を透かしてジッパーにかかる哲の指が、夢の中のように揺らいで見える。
「哲」
 秋野の肩先で、哲の密かな笑いが聞こえる。早くしろ、と低いつまらなさそうな声が零れ落ち、水面に落ちて波紋になった。

 

 水を足したり抜いてみたり、とにかく錠前屋は身勝手だ。
 揺れる水が鬱陶しいと栓を抜き、どういう基準か僅かに残してまた栓をする。噛み付けば「痛いじゃねえか死ねくそったれ」と怒鳴りながら自分のほうが余程酷く噛み付き返すし、奥まで押し込み揺すり上げたら「てめえは何もかもむかつくんだよこの野郎」と横面を殴り飛ばされた。
 身勝手な行動と悪口雑言の合間に飛ぶ短い質問に、切れ切れの言葉でようやく答える。
 恨みなどなかったのだ。可哀相なエミリオ。確かに結果として敵は討ったがあれは単なる勢いと偶然の産物で、俺は若くて馬鹿だった、それだけだ。
「凭れかかってきて、血が——」
 口径の小さな銃で撃ったせいか、小さかった銃創。至近距離で撃ったせいで男が秋野に倒れ込み、秋野は男の血で半身を濡らした。悪夢の中の男のように、真っ赤になったのはそいつではなく自分だった。そして、夢の中の男の目は銃創なのかと初めて気付く。紅くて黒くて底の見えないあれは銃創だったのか、と。
 一時的な閉所恐怖症にでもなったのか。狭い浴槽に張られた水音が血の飛び散る音に聞こえ、耐えられなくて眩暈がした。哲から引き抜き、抱え上げて脱衣所も出る。そのまま居間の床にもつれるように倒れ込み、濡れた身体にもう一度強引に押し込んだ。
 哲が喚く悪態がようやく耳に届いて秋野は目を瞬く。
「人を荷物みてえに持ち上げんじゃねえ仕入屋!!」
 怒っているのはそこなのかと、思わず笑うと踵で背中をどつかれた。
「にやにやすんじゃねえよ、青い顔して泣いてた野郎が」

 

 声が嗄れる程吐き出される哲の罵声は、例え隣の男が聞いたとしても諍いと思っただろうし、実際かなりそれに近かった。暴れる哲に跨って一発殴る。本気で背骨めがけて蹴りつけてくる足を掴まえて乱暴に押し広げ、力任せに擦り上げた。
「っ……! 野郎、ぶっ殺す……!」
 今の状況を完全に読み違えそうな哲の台詞に思わず唇が笑みを刻む。掌で口を塞いで顔を押さえつけ、何度も、傷つけるほど乱暴に突き上げて、肩に喉に手当たり次第に歯を立てた。
「このままここから内臓引き摺り出してやろうか、なあ」
「……てめえ……」
 一方的に欲望を押し付けている気分にはならなかった。哲は歯軋りし、秋野を罵倒し、抵抗しながら秋野の動きに応えて仰け反り、呻く。何故か滲みそうになる視界から意識を逸らし、秋野は哲の耳元に唇を近づけた。
「冗談だよ」
 悪態を吐きながら達した哲を抱き締めて何度も深く穿つ。いつまでも続く絶頂に哲が悲鳴を上げて秋野の顔を睨みつけた。暴力的な衝動を滲ませた表情に煽られるのはいつものことだ。今更自分が滑稽だとか浅ましいとか思いもしないし、どうでもいい。
「クソ虎が……、後で覚えとけ……」
「本当に食っちまったらまずいかな」
「毎晩夢枕に立ってやる——呪われろ」
「噛み砕いて、吐き出してやる。ひとつ残らず。そうすりゃいいんだろう」
 燃えるような凶暴な光を宿した目が眇められ、哲は音を立てて歯噛みした。
「——誰がてめえに、食われるか」

 悪夢が遠ざかる感触に一度、突き入れる。飛び跳ねた哲を無理矢理押さえ込み、逃れようとする身体に更に強く。刃物で刺された男のようにああ、としゃがれた大声で叫んだ哲の下唇に思い切り齧り付いた。
 快楽の中遠くなる死んだ男二人の顔に、流した涙も慄きも消えてゆく。こんなふうに貪り合ったところで何の益もありはしない。それでも厭わしい記憶を、一時的に過ぎなくとも力任せにねじ伏せる何かには、きっとなる。
 腕の中で暴れる哲の、血と骨と。
 嗄れた喉が何かを絞り出し、秋野は大きく波打つ胸に身体を押し付けて耳を寄せた。
「抜け、くそ、もう腹いっぱいだって……畜生……」
「——俺はまだ満足してない」
「ただでさえ、っ……、くそったれが——」
「只でさえ、何だ」
「るせえ、いちいち——、」
「お前でなきゃ意味がない」
 哲が一瞬押し黙る。秋野は瞬間虚勢も理性も見失い、心臓が刻む鼓動のまま、脳が動かす筋肉の動きのままに言葉という音を連ねた。
「眠れないんだ。お願いだ、傍にいてくれ、哲」
 何を言っているのか、とも思う。言った端から後悔し、後悔しながら別にどうでもいいと思い直して哲の中をゆっくりと抉る。このまま骨から肉をこそげ、骨を削って自分の痕跡を残したかった。単なるマーキングなのか欲なのかある種の愛なのか、意味づけには最早、興味がない。
「ここにいてくれ」
「……てめえはいっそ一生眠るな、このクソ馬鹿が」
 秋野はもがく哲の血の味のする唇を吸い上げて、頭の隅で無意識に思う。血の臭いは、エミリオも殺した男も、哲も何一つ変わらない。

 夢の中佇む男が歩き去る。血の筋を引き摺りながら、ゆっくりと。
 今は、眠れ。呼びかけると銃創のような目が僅かに細められ、血のような涙のような何かが流れて地面の血の帯に同化する。彼は去ったわけではなくて、またすぐに秋野の眠りの中に訪れる。それは明日かもしれないし、来週かも知れないが、少なくとも今日ではないと、そう思えた。

 今、この瞬間は。
 気紛れな野犬が意図的に見せた隙に付け込んで、忘れた振りをしたかった。
 またすぐに、鼻腔の奥に血生臭さを感じても、それはさっきまでのものとは少し違う、そう思うのは楽観的に過ぎるのだろうか。

「秋野、眠れ」
 哲が低く呟く短い言葉が、胸に落ちる。
「うなされたらその面ぶん殴って叩き起こしてやるから、さっさと寝ちまえ」
 閉じた瞼の裏の暗闇に、紅い色は混じっていなかった。