仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 6

 哲がコンビニの袋をぶら下げ、煙草に火を点けながら歩いていると、後ろから足音が近づいて来た。それはそのまま哲に追いつき、ずっと前からそこにいたかのように隣に並んで歩き出した。
「携帯、電源切ってるのか?」
 秋野は前置きなくそう言うと哲を横目で見下ろした。言われて思い出したが、そう言えばバイトに出る前に見た時に、充電が切れそうになっていた。引っ張り出して確認すると、やはり液晶画面は黒くなっている。
「充電切れ」
「そうか」
「何か用だったのか」
 哲が訊くと、秋野はああ、と頷いた。
「この間言ってた金庫、用意出来たんだ。昨日店に寄ったんだが、お前早退したんだって?」
「急に用事出来てな」
 哲は煙を暗い空に向けて吐き出した。秋野は哲の顔を眺めていたが、特に何も言わなかった。アパートの階段前までの僅かな時間、ただ無言で歩いた。哲の沈黙に深い意味はなかったが、秋野がそうかどうかは分からない。
 秋野を先に昇らせ、路上で煙草を揉み消した。自分の部屋に消えた秋野の背中を眺めながら、哲は何となくその場にしゃがみこむ。
 加納に言ったことは嘘でもなければはったりでもなく、加納が秋野に対して何を思っていようがどうでもいいのは本当だった。恨みと言うほど強くもなさそうなその感情は、それほど脅威とも思えない。よしんば何か行動に移したにせよ、秋野はうまく対処できるだろう。
 それでも、何かあったら加納の腹を裂いてやると思ったのも無視できない事実だった。秋野を心配する気持ちがあるわけでもない。自分に嘘を吐いても仕方がないから正直に思うのだが、心配も思いやりもないのは確かだった。
 愛情も気遣いも感じなければ失う恐怖すらないと言うのに、これほどまでに執着する自分の内心の不可解さ。時折鬱陶しくなるその思いに苛立ちを覚えるのは今に始まったことではない。
 一つ大きく首を振って、溜息と共に肺に残った最後の煙を吐き出すと、哲は腰を上げた。

 

 部屋の中の秋野は座って煙草を吸っていた。哲が入っていくと目を上げ、まだ長い煙草を灰皿に押し付ける。
「で?」
「何が」
 哲が問い返すと秋野は片眉を上げた。薄茶の目は、いつもと変わらずにそこにある。
「加納だろ?」
 昨日のことを言っているのだろう。哲は顔をしかめて秋野を睨んだ。
「分かってんなら訊くな」
「分かってたわけじゃないよ。そうなのかなと思っただけだ」
 口の端を曲げて笑った秋野の顔を見ながら、哲は壁に凭れて腕を組んだ。秋野は座ったまま哲の顔を見上げている。
「要するにお前が好きじゃねえって話だよ。お前の仕事をしねえで俺と組めって、この間と同じ話だ」
「そうしたけりゃしたっていいんだぞ」
 秋野はゆっくりと口に出す。低い声は、丁度耳に心地よい周波数で哲の聴覚を刺激する。
「お前に許可されるまでもねえんだよ。誰と仕事をするかは俺が決める」
 哲が吐き出すと、秋野は僅かに微笑んだ。
「そんな答えを聞かされたら加納は随分喜んだだろう」
「さあな。そうは見えなかった」
 哲は秋野の獣じみた瞳をまっすぐに覗き込んだ。離れた場所から見つめても、興奮を煽る獰猛な目。絡め取られたように視線を逸らせないまま、哲は語を継ぐ。
「あの男がお前に敵意を抱こうが、その結果何をしようが、俺の知ったこっちゃねえ。それでお前がどうなろうが、邪魔する気はまるでない」
 薄情だな、と呟いた秋野が低く笑う。
「けど、事と次第によっちゃあいつの腹掻っ捌いて中身を全部引っ張り出してやる」
 秋野の笑みが、潮が引くように消えていく。意地の悪い快感と共に、哲はそれを眺めた。秋野をうろたえさせることほど、胸のすくことはない。
「——そういう話をしてきただけだ」
 秋野は酷くゆっくり目を瞬き、立ち上がった。なぜか動けない——いや、動きたくないだけか——哲との間を詰めると、どこか怪訝そうな表情で哲の目を覗きこんだ。
 視神経を直接掴まれ引きずり出されるような感覚に、瞬きすら封じられる。間近に見える秋野の目には、他の誰も持ち得ない何かがあった。その何かが、哲にここまで強い執着心を植えつけるのだ。
 だから。だから加納でも、他の誰かでも有り得ない。
 秋野と自分の感覚は微妙に違う。哲自身は、秋野に対して所有欲は抱かない。それでも恋慕に似た、そして決定的に何かが異なるこの思いは多分よく似ているに違いなかった。
 秋野の手が哲の肩を軽く押す。壁と秋野の掌の間、挟まれた肩が僅かに軋んだ。寄せられた唇が触れる直前、秋野は微かに笑いを漏らした。柔らかな濡れた舌が潜り込んで来た時も、喉の奥の笑いはまだそこを震わせていた。

 丁度肩甲骨と腰の骨が壁に当たる。獣に食われているような口付けより、哲としてはそちらの痛みのほうに気を取られた。押し付けられて身動きも出来ず、壁に画鋲で留められたチラシのような気分になってくる。チラシに気分があるのかどうかは知らないが。
 口蓋を生温かい舌先が這うと、むず痒さに思わず顎が引ける。秋野は容赦なく追ってくると、前歯の裏側を丁寧になぞった。後頭部を覆う秋野の掌に力がこもる。息が詰まって、満足に呼吸が出来なかった。
 不意に秋野の動きが止まり、唇が離された。同時に顔の横にひんやりとした空気を感じる。目を開けて顔を冷気の漂う方——玄関へ向けると、顎が外れたような表情の加納が立っていた。
 秋野が、哲の間近に顔を寄せたまま横目で加納を確認すると、低い声で言う。
「だから、鍵をかけろと言ってる」
「うるせえな」
 至近距離の秋野の薄茶の目を睨みつけると、哲は顔を加納に向けた。
「しつこいな、あんた。まだ——」
 哲が言い終わる前に、再度秋野の手が髪を鷲掴み、無理矢理顔を戻された。舌をきつく吸われ、哲は僅かに眉を寄せた。絡みつく舌を思い切り齧ってやると秋野は喉を鳴らしながら顔を離し、姿勢は変えず哲の髪に頬を寄せた格好で玄関へ顔を向ける。哲は舌打ちして横目で加納を見た。加納はこの世のものならぬ何かを目撃したかのように、何とも表現しにくい表情で立っている。
「こいつに用があるならまたにしてくれ。取り込み中だ」
 秋野が低い凄みのある声で言う。滅多に他人に見せない残忍なぎらついた目に、加納が無言で一歩後ずさった。哲は秋野の脛を強く蹴飛ばしたが、秋野は別段気にした様子もなく、哲の喉元に顔を寄せた。顎の裏から首筋へ辿る唇の感触に肌が粟立つ。
「——邪魔なんだよ、いつまで突っ立ってる」
 既に加納を見てもいない秋野のくぐもった声に、加納は踵を返し、後ろ手にドアを閉めた。階段を降りる足音が響く。途端に秋野が体を離し、珍しいことに英語の悪態を並べ立てながら哲の脇の壁を力一杯蹴飛ばした。

 

「壁抜けるぞ」
 秋野の長ったらしい罵詈雑言が途切れたところで、哲はのんびりと口を挟んだ。秋野は何度か壁に八つ当たりながら、英語から今度は哲には分からない言語に移行して何かを罵っていた。悪態は万国共通だ。意味は分からずとも、言っていることは何となく分かる。秋野が険しい目をして振り返ったので、哲は浮かんだ疑問を口に出す。
「何語だ?」
「……タガログ語……」
 哲が聞いたことがあるようなないような名前に首を捻っていると、秋野はもう一度、今度は日本語で「くそっ」と吐き出し床に荒々しく座り込んだ。
「世間体が気になるってわけじゃないよな、お前の場合」
「——そんなもんどうでもいい」
 秋野の低い声はいつになく荒々しい。哲は秋野の脇に立って不機嫌な顔を見下ろした。
「何か知らんけど、見られたくなかったんだったらせめて挑発するような態度取らなきゃよかったじゃねえか」
「あの状態から取り繕ったって仕方ないだろうが」
「じゃあ何なんだよ」
 哲は軽く秋野の膝を蹴飛ばしたが秋野は反応せず、片手で俯けた頭を抱え、重く長い溜息を吐いた。怪訝に思って見下ろす哲の足首を、秋野の手が強く掴んだ。秋野は指が白くなるほど力を入れる。哲は痛みに顔をしかめたが、秋野は哲の顔を見ずに呻き声を絞り出した。
「……ミツルに伝わる」
 その意味するところはわかっても、なぜそうなるのかは、哲にはよく分からなかった。