仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 5

「結構てこずったな」
 隣を歩く秋野の声が酷く遠いものに聞こえた。古くて高価そうな化粧箪笥の錠前と睨みあっている間、哲は秋野の存在を完全に失念していた。叩き壊せばすぐに開くような錠前でも、綺麗に開けようとすれば時間がかかることもある。思いのほか精巧な錠前に集中していたので、頭が普通に動いていない感じがする。
 見上げた顔は、普段と何一つ変わらない。穏やかな表情は、水面下に何が隠れているにせよ、それを透かして見せるほど薄くも脆くもないようだ。
「ああ」
 短い返事に気を悪くした様子もなく、秋野はゆっくり隣を歩く。少し崩れ気味の前髪が、いつもより多く額にかかっている。
「後のほうは今日は無理だから、用意出来次第連絡する。それで——」
 秋野が皆まで言い終わらないうちに、大きな声が響いて続きを遮った。
「秋野さん、佐崎さん!」
 弾むように駆けて来る細い人影は、ミツルだった。哲と、隣の秋野の前に立ち、頬を上気させたミツルは顔中で笑った。
「こんにちはぁ」
「どうも」
 明るい笑顔につられて哲が少し笑うと、ミツルはますます嬉しそうな顔になる。ミツルは秋野の知り合いの娘だとかで、哲のことが好きだと言う。有り難い話だが、残念ながらまだ十八だった。幾ら中々の美少女だとは言っても、哲は未成年には興味が沸かない。あと五年くらい歳がいっていれば、と惜しい気持ちは確かにあるが。
「どうした、こんなとこで」
「映画見に行くんですよー、武宏くんと。最近会ってなかったから」
「お前がトモキくんにご執心だったからだろう?」
 からかうような秋野の言葉に、ミツルは大袈裟に両手を顔の前で振り始めた。
「やだあ、秋野さん! もうトモキとは別れました! 佐崎さんの前で変なこと言わないで下さいよ!!」
 真っ赤になって哲の顔をちらりと見上げるミツルを可愛いとは思うが、やはり女とは思えない。苦笑する哲の顔を見て益々赤くなったミツルは、ぎくしゃくした動きで秋野の腕をぺしりと叩く。
「嫌いです! もう!」
「酷いな。哲は好きで俺は嫌いか」
「秋野さん!!」
 哲はじゃれあう兄妹のような二人を眺めながらも、秋野の妙な表情に気付いていた。何が気を散らすのか、ミツルを構いながらもどこか上の空だ。
「待ち合わせ時間もうすぐだから、行きますね」
 ミツルが腕時計を見てそう言い、二人に手を振る。
「ミツル」
 秋野が歩き出しかけたミツルに声を掛けた。

「武宏君に宜しくな」
「はぁーい」
 哲は、元気よく駆け去っていくミツルに目を遣る秋野を一瞥した。どこか心配げな表情は、哲の視線に気付いた途端にきれいに掻き消え、秋野は無言で歩き出した。

 

 給料日前の月曜日、店は閑古鳥が鳴いている。忙しければ味も分からず掻き込むまかないの夕飯も、その日は味わって食べることが出来た。別に嬉しいことでも何でもないが、たまにはのんびりするのも悪くはない。店の裏でバイトの服部と煙草を吸っていると、携帯が鳴り出した。前にも見たことのある番号だが、誰の物かよく分からない。気を利かせたのか先に店に戻る服部が裏口を閉める音を聞きながら、哲は電話を耳に押し当てた。
「はい」
「佐崎?」
「……誰だっけ」
 哲の気のない返事に落胆したような溜息が聞こえる。その溜息で、やっと相手が誰だか分かる。
「ああ、あんたか」
「——あんたにとって俺がどの程度の存在か誤解しようがなくて気持ちいいよ」
 加納は気持ちいいとは程遠い声音でぶつくさ言うと、気を取り直したように無理矢理明るい声を出した。
「なあ、これから暇か?」
「仕事中」
「取り付く島もないってあんたのこと言うんじゃないのか」
 呆れたような声を出す加納は、それでもしつこく食い下がった。
「ちょっと出て来れないか?」
「明日の昼間なら」
「いや、俺近くに行くからさ」
「俺は別に用事ねえぞ」
「五分でいいって」
「しつこい奴だな……」
 哲は短くなった煙草を持ったまま、頭を掻いた。加納の用事は聞くまでもないが、付き合ってやるまでしつこく纏わりつかれてもかなわない。どうせ今日は暇だし、少し早く帰っても誰も困らないと思えば、却って都合がいいとも言える。
「分かった。どこに行きゃあいいんだ」
 裏口のドアに凭れて溜息を吐いた哲の耳に、上機嫌な加納の声が聞こえてくる。向かいの店の裏口に出て来たホステス二人の金切り声の言い合いがその上に被さって、何とも言えずうんざりした気分に拍車をかけた。

 加納が指定してきたのは駅のホームだった。少し離れた所にいるから、駅まで人に送ってもらうと言う。それならそのまま真っ直ぐ帰ればいいものを、傍迷惑な話だ。哲は人もまばらな薄暗いホームの端にしゃがんで煙草を吸いながら、待ちたくもない待ち人の顔を思い出した。秋野に含むところがあるならば当人同士でやり合えばいい。巻き込まれた形の哲にとってはすべてが迷惑で面倒極まりない。
 ホームの向こう端で、酔っ払いが歌っている。月曜だというのにそんなにとばして後で息切れしないかと、他人事ながら心配になるほどだ。
 揉み消した吸殻を拾い上げながら立ち上がって腰を伸ばす。酔っ払いは意外にいい声で演歌を歌い始めていた。
「この間の話、考えてくれたか?」
 背後で、加納の声がした。振り返ると真面目な顔をした加納が立っている。上辺だけのにやけた顔は止めたのか、それとも案外真剣なオファーなのか。哲が身体を向けてじっと見ると加納はその場で立ち止まり、所在なげに足を踏み変えた。バックで響くオヤジの演歌が、やけに不釣合いで笑いを誘う。
「俺はあんたとは組まない」
「……仕入屋の条件を聞かせてくれよ。それよりいい条件を出すって言ってるじゃないか」
「そういう問題じゃねえから無駄だ」
 加納は溜息を吐くと哲の隣に立った。人気のないホームに目的もなくぼんやり立っていると、なぜか空虚な気持ちになる。乗るべき電車も来ないのに、ここに立つ意味などどこにもない。
 踵を返そうとした哲の腕を加納が掴んだ。
「なあ、考え直せよ。あんただって儲かった方がいいだろう」
「しつこいな、あんた」
「それが商売の秘訣だよ。あっさり諦めてどうする」
 加納はそう言って笑ったが、哲に腕を振り払われると大人しく手を放した。
「あんたは、仕入屋の過去も知りたくないって言うんだな」
 加納の声がやけに大きくホームにこだます。聞くものなど誰もいないが、一瞬辺りを気にした自分に吐き気がした。酔っ払いはいつの間にか静かになって、駅の出口へと脚を引き摺るようにして歩き去っていた。
「興味ねえな」
「仕入屋は相棒のあんたにも隠すつもりなのかね?」
 加納はそう言って窺うように哲を見る。ホームに、最終列車がまもなく到着します、とアナウンスが流れる。この駅からの発車は既に終わっている。演歌オヤジがいなくなり、ホームに立つのは二人だけになっていた。
「俺は、別に仕入屋に恨みはないんだ。たださ、殺しをやっといて一人のうのうと生きてるっていうのも気に入らないんだよ」
「正義の味方ってわけか?」
「そういうわけじゃないさ。別にあいつを裁こうとも何とも思っちゃいないよ」
 加納は口元だけで微笑んだ。
「あいつとは共通の知り合いもいてね。彼らはあいつが何したかなんて知らない。あいつは何もなかったようにして彼らと仲良くやっている。それって、むかつくには小さな理由かな? どう思う?」
 加納は僅かに首を傾げた。遠くに電車のライトが見える。微かに響くその音に、哲は一瞬そちらに気を取られた。
「佐崎」
「俺は」
 哲の声は、近づく電車の走行音に紛れそうなほど低かった。
「あんたがあれをどう思おうが否定しねえし、あんたはあんたの好きにすりゃいいと思うぜ」
「俺がどうしようと口出ししないって思っていいのか」
 加納が不思議そうにそう訊いた。哲は電車のライトに照らされた顔を歪めて見せた。禍々しくさえあるその笑顔に、加納が目を瞠って哲との間に一歩距離を取る。
「口出しはしねえし、邪魔もしねえよ。けど、結果によっちゃあんたの腹捌いて内臓掻き出してやる。その覚悟で手ぇ出せよ、加納」
 加納が小さく何か呻いたが、ホームに滑り込んだ電車の音で、哲にはよく聞き取れなかった。停車した電車から、ばらばらと僅かな乗客が吐き出されて来た。彼らと一緒に、哲は電車に背を向けて歩き出す。
 加納の声が、背中から追ってきた。
「気が変わったら教えてくれよ」
「変わらねえよ」
 肩越しに投げ返した哲の言葉に、加納は力なく肩を竦めて見せた。
「また聞きに行くよ。商売はしつこいのが大事でね」
 何も言わずに歩き出した哲を、加納は追って来なかった。
「電話する」
 声だけが哲の背中に追い縋ったが、哲はそれを掬い上げようとはしなかった。