仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 4

 久し振りに聞く電話の声は、能天気を通り越して別の世界から聞こえて来る気さえする。行き交う人はぱらつき始めた雨を気にしながら、早足で進む。相手のあまりにとぼけた口調にその流れを一瞬堰き止めてしまい、秋野は慌てて道の端に寄りながら電話の声に集中した。
「何だって?」
「だからぁ、あの気の強い相棒は元気かって聞いたの」
 仙田の声はいささか大きすぎるほどよく響いた。
「そんなでかい声出すな。聞こえてるよ」
「だってあんたが聞き返すからでしょ」
「ボリュームの問題じゃなくて内容がよくわからなかったんだよ」
「仕事ちょうだい、仕事」
 まともに相手をしていたらいつまでも雨に濡れていなければならないかも知れない。秋野はゆっくりと歩き出しながら仙田に訊いた。
「あれば回すさ。何の用だ?」
 仙田はなぜか楽しそうに笑い、質問に質問で返してきた。
「加納さんって知り合い?」
「——それが?」
 また加納か、と思うとうんざりする。どうせ自分のことを仙田に聞きに行ったとかそういう話だろう。偽造屋である仙田が秋野の仕事を多く請け負っているのは周知のことだし、加納は時々そうやってこちらを苛立たせることをする。
 いつもではないというところが、加納の秋野に対する感情の弱さを物語ってはいる。それもあって特別恨まれていたりするとは思えないだけに、正直言って訳が分からない。加納は一癖ある男だが、本来は別に嫌いというわけでもない。やたらちょっかいを出してきさえしなければ、特に厭う理由もないのが正直なところだった。
 仙田に問い質すと、意外なことに違う、という答えが返ってきた。
「あんたじゃなくて、あの錠前屋さんのことしつこく訊いてったよ」
「哲のこと?」
 電話越しにも不機嫌さが伝わったのか、仙田は急に大人しくなった。
「そんな怒んないでよ。俺じゃないよ、加納さんだよ。それに俺、何にも喋ってないからね」
 仙田は拗ねたようにぼそぼそと呟く。
「あんたに死ぬより恐ろしい目に遭わされるのも怖いけど、錠前屋さんの暴力であっという間に死ぬのも嫌だからね、俺は」
 雨脚が強くなってきた。前髪を転がり落ちた雨粒に空を見上げると、夜の空に雲が広がっていく様がよく見えた。
 明るい夜。繁華街に真の闇は存在しない。暗がりはどこまでも照らされ、隠したいものは暴かれる。だからと言ってすべてが晒されるわけでもなく、路地裏に跋扈するものの正体はよく見えない。そして紛い物の輝きで彩られた何かは、白く鋭い朝の光にあっという間にカボチャになるのだ。
「わざわざすまんな」
「ううん、別に、何となくお知らせ。お世話になってるから」
 仙田はまた仕事待ってるよ、と付け加えて電話を切った。秋野は水滴がつきはじめた頭を犬のようにぶるりと振って歩き出した。

 秋野の名前が少しずつ漏れ始めたのは翌日からだった。仕入屋の名前がアキノと言うらしいという噂は、ほんの僅かな範囲で人の口の端にのぼった。名前が知れたところで別段困ることもないが、知られなければ知られないほうが何かと便利ではある。
 深く考えなくても加納に違いない噂の元は、一応は流しても大した影響がない所を選んで囁いているらしいが、それでも気分のいいものではなかった。要するに稚拙な嫌がらせの域を出ない行為ではあるものの、秋野には嫌がらせを受ける心当たりがなかったし、原因が分からないという事は人を不安にさせるものだ。
 確かに馬が合わない相手ではあるが、仕事に関して言えば頼まれて便宜を図っただけであって、恨みを買うようなトラブルはなかったはずだ。秋野には加納の考えがいまいちわからなかった。
 仙田からも再度電話があり、そんな話を聞いたと言っていたが、慌てて対処するほどの大事でもなく、結局秋野は、何日かで収まるだろうと静観を決め込んだ。

 

「お前、やばい奴の女でも寝取ったんじゃねえのか」
 口に出した途端に嫌そうな顔になった秋野を見上げ、哲は思わず頬を緩めた。
「そんなヘマはしない。何だ、一体」
 膝の間に置いた小型の金庫のダイヤル錠を弄る哲の背中に、秋野の蹴りが入る。手元をずらさないように手加減しているのか、衝撃は殆どない。
「これ持って来た知り合いがお前の話してたんだよ。あと、川端のおっさんからも電話来たしな」
「俺はどうも人に好かれる質らしくてな」
 立ったまま哲を見下ろした秋野は面白くもなさそうに吐き出した。上方の顔を仰ぐと、薄茶の目がじっと哲を見つめている。見られると反射的に睨んでしまうのは、別に相手が秋野だからというわけではない。逸らされた視線は、哲の膝の間の金庫に移った。
「ダイヤル錠付きスチールロッカー型の金庫二つ、それからかなり古い箪笥。開けるか?」
「いちいち訊くな」
 愛想のない哲の手の中で、ダイヤルがかちりと音を立てた。哲は小さく息を吐き、金庫を丸ごと袋に入れた。祖父の知人が持ち込んできた袋にそのまま金庫を放り込んで口をしばる。中身に興味はないから、見ることもしないのはいつものことだ。哲は部屋の隅に袋を移動させると、手袋を丸めて捨て、まだ立ったままの秋野に向き直った。
「これからか?」
「箪笥の方はな。お前がよければ」
「一服させてくれ」
 頷いた秋野は自分も煙草に火を点け、立ったまま吸い始めた。哲は床に胡坐を掻いて、吐き出す煙を目で追った。
「加納って、この間会った奴がいたろう」
「ああ」
 哲が目を向けると、秋野は顔をしかめて続けた。
「あいつが何だか妙に突っかかってきてな。俺の名前ばら撒いてるのもきっとあれだ。まあ、どこに撒くかはご親切に考えて下さってるらしいがね」
「何か恨まれてるんじゃねえの」
「心当たりがまるでないんで、俺も訳が分からない」
 肩を竦める秋野を見て哲は少し考えた。加納が来たことは面倒なので言わなくてもいいかと思っていたのだが、黙っていた方が余程面倒そうだった。自分と組もうと言う加納に理由を質しても、曖昧な返事しか返っては来なかったが、今考えればあれも秋野に対する嫌がらせの一部だったのだろう。
「この間、来たぞ。あの男」
 のんびりした哲の口調に、秋野は一瞬意味が分からないという顔をして、次に目を見開いた。
「何で」
「知らねえ。お前とじゃなくて自分と組めってよ。報酬はいいってさ」
「くらっと来たか?」
 苦笑する秋野に鼻を鳴らして、哲は煙草を銜えなおした。
「別に。それと、お前の過去を知りたくねえか、こう来たぜ」
 途端に秋野の顔が強張ったが、哲は目を逸らさなかった。この部分を省いて話して、それで何かが解決するでもないのなら、そんなことに意味はなかった。
 秋野の引き攣ったような目尻を見ながら、哲は思う。前にも聞いたことがある。秋野が人を殺したと、そう言うなら。背負うべきものは背負うのが当たり前だ。周りが見ない振りをして、それで血糊が洗い落とせるわけもない。哲は別に秋野を責めはしない。ただ、自分から逃げることは出来ないに違いない。

「……それで?」
 実際にはほんの僅かな沈黙の後、秋野が冷静な声を出した。
「それで、って何だよ」
「何か聞いたか?」
「俺は聞きたきゃお前に訊く」
 灰皿に煙草の先を押し付けながら、哲はそう言って秋野を見上げた。
「話したきゃ話せ。どっちでもいい」
 秋野の表情は、内心どうあれ、一見特に変わりはなかった。僅かにきつくなった目元や引き結ばれた唇の線に気付くのは、普段顔を合わせることが多いからだ。
 不機嫌なのか、触れられたくないのか。そこまで気持ちは読めないが、どちらも当たらずとも遠からずには違いない。
「お前がどっちでもいいって言うなら、別にわざわざ言いたくない」
 秋野はぽつりと呟いた。常日頃の一人泰然自若とした雰囲気は今はない。表情さえ見えなければ弱々しいと言ってもいいその声音に違和感を覚えながら、哲はぼんやり頷いた。
「じゃあ言うな」
「お前は」
 秋野は言いさした言葉をいきなり切ると、口を噤んで哲を見た。覆うものとてない剥き出しの表情に、不意に何かを間違ったような気分になった。何をか、は分からない。迷いや怖れや怒り。当たり前すぎて顧みることもない諸々を、秋野の顔に見つけただけで居心地が悪かった。
「お前は、こういうのは嫌なんだろうな」
 秋野は唇を歪めて嗤った。酷く卑屈な表情に、内臓を捏ねられるような何とも言えない心地がした。
「何のことだ」
「お前の前で俺は何も隠せない。前は出来たが、多分、もう無理だ」
 泣き出す前の子供のように、秋野の声が時折詰まる。無表情に戻った顔の中で、目だけが内心のままざわめいている。
「弱いのは、嫌なんだろ」
 笑む秋野に、何と言っていいか分からなかった。確かに、自分より強い秋野だからこそ価値がある。弱々しく項垂れた姿などに興味はなかった。だが、今秋野の言う弱いと自分の厭うそれが、果たして同じなのかどうか。人であれば誰しも、脆弱な部分くらい持っている。完全な人間などいるわけもなく、面白かろうはずもない。
 哲は何も言わずに秋野の顔を見返した。秋野の指が煙草をぐしゃりと折り曲げた。叩きつけるようにシンクに投げ込まれた吸殻から、未練がましい煙が上がる。何を思い、そうしたのか。何かを嘲笑うような秋野の口元は、やけに邪悪に歪んでいる。眦を引き攣らせた薄茶の目が、巧く逸らされ離れていった。
「行くぞ」
 冷たく突き放した声で、秋野は哲を促した。哲は頷いて立ち上がる。ほんの僅かな時間曝け出された柔らかな部分は自らの爪で傷を付けられ縮んで隠れ、今はどこにも見当たらなかった。