仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 3

 チャイムが鳴ったが面倒なので出なかった。加納は辛抱強くドアの外で待っている。やや暫く経ってもう一度。短い間隔で更に二度。
「開いてんだけど」
 哲の声に、眉を顰めた加納がゆっくりとドアを開けた。
「——あんた、意地が悪いな」
「何で俺があんたに親切にしなきゃなんねえんだよ」
 加納は拗ねたような表情で何やら文句を垂れたが、構ってもらえないと分かると溜息を吐きながら上がりこんできた。お邪魔します、と呟き、部屋の中を見回している。恐らく年上ではないかと思うが、どこか子供っぽい男だ。
 哲が座れとも立っていろとも言わないので困惑したようだったが、暫く待ってゆっくり床に座り込んだ。図々しい質に見えるが実際はそうでもないのか、それともこれも表面上なのか、それはよく分からなかった。
「あんた、仕入屋とつるんで儲かるか?」
 腰を下ろした加納が口にした台詞があまりにも意外で、哲は一瞬何を言われたかと思った。加納の目をじっと見ると、加納はやや怯んだように目を逸らす。
「……儲かりゃしねえよ」
「へえ、そうなんだ」
 加納はやけに嬉しそうに微笑んだ。間近でよく見れば、それなりに整った顔立ちをしている。ただ、他人に安心感を与える顔ではない。笑いながら背後から刺しそうな顔とでも言おうか、崩れた、としか言いようのない雰囲気を持っている。やけに馴れ馴れしい態度も満面の笑みも、内面を覆い隠す張りぼてでしかないような印象を与えた。
「あんたの腕がいいってのは結構聞いたよ」
 加納はそう言ってまた笑う。
「なあ、俺と仕事しないか」
 哲が黙っていると、加納は身を乗り出してもう一度言った。
「俺と仕事したほうが儲かると思うけどな。仕入屋は……、まあ、あいつの仕事のやり方はあんたも知ってるだろうからいいけど、俺ならあんたへの報酬も」
 加納の顔は相変わらず笑っているが、目の色は冷たかった。哲は手を振って加納の話を遮った。
「俺が本当にあの馬鹿の弱みかどうか見に来たんじゃねえのか」
 加納は開けたままだった口を閉じると、不意ににやりと笑った。そうすると、加納本来の雰囲気がいきなり露になる。やたらと親しげな表情が消え、いかにもひと癖ありそうな歪んだ笑みが現われた。
「いや、この話だって本気だぜ。あんたが俺と組むって言ってくれるなら、俺はあいつ以上の金額を出す」
「何だ、あいつに恨みでもあんのか」
 気のない哲の口ぶりに一瞬考えるような顔をしたものの、加納はまた口を開いた。
「別に、恨みはないさ。ただ、虫が好かない相手っていうやつだ」
「俺だってあいつは虫が好かない」
 加納は、哲の呟きに熱っぽい目を返した。膝の上の拳を握ったり開いたりしている。
「だろ? だから」
「虫は好かないが、あんたよりはあいつのほうが好みだね」
 勢い込んだ加納が、話の腰を折られて固まった。
「腹の底で何考えてるのかわかんねえのはあんたもあれも同じだが、あんたはいまいち中途半端だな」
 言いながら目を上げると、加納の引き結ばれた口元が目に入った。笑っていないほうが余程まともな人間に見えるから不思議だ。よく日に焼けた鋭い顔には、にやけた面より厳しい表情のほうがしっくり来る。
「——仕入屋の過去を知りたくないか」
 加納が突然低く呟いた。
「あの男は人を殺してる」
「……だから?」
「そんなのを聞いて、それでも仕事するっていうのか、あの男と。俺は少なくとも人を殺すような外道じゃない」
「別にどうでも構やしねえよ」
 加納はゆっくりと立ち上がった。哲が見上げると、強張った加納の顔が見下ろしている。その顔は、僅かに忌々しげに歪んでいた。

 

「こんばんは」
 ジャズが低く流れてくる。ドアを開けた女性が白い歯を見せて微笑み、秋野を店の奥に促した。
「ああ、悪いなあ」
「毎度どうも」
 吉川は大きな笑みを見せた。秋野と同じくらいの身長にかなりがっちりした体はまるで格闘家か何かのようだし、坊主に髭の顔は恐ろしげだ。彼の小柄な妻を知っているだけに、隣に寝ていてよく潰してしまわないものだとそれこそ毎度感心する。
 手に持った袋を差し出すと吉川は無骨な手で大事そうにそれを受け取り、女の体でも撫でるように愛しそうに指を這わせた。
「いやあ、本当に手に入るとは思ってなかったよ」
「あれだけ積めばね。たかがアナログ盤にねえ」
「お前なんかによさがわかるか」
 吉川は笑いながらそっと包みを置くと、秋野に椅子を勧めた。従業員の休憩室を兼ねているその小さな空間にも、店内に流れているBGMが微かに聞こえている。吉川のジャズ好きは殆ど病気の域だと、その方面に疎い秋野はいつも半ば尊敬し、半ば呆れる。
「尾山さんは元気か?」
「相変わらず」
「全然来てくれないんだよ。今度お前からも言っておいてくれ。うちのやつも楽しみにしてるんだ」
 吉川の残念そうな顔を見て秋野は思わず吹き出した。吉川のいかつい風貌でそういう表情をすると、必要以上に哀れっぽく見えるのだ。
「あの人辛いの苦手なんだから、仕方ないだろ。タイ料理なんて無理だよ」
「そうだけどさ」
 吉川はかつて尾山興業に勤めていたが、会社が経営するクラブのホステスだったタイ人女性と結婚し、彼女の夢だったタイ料理屋を開いた男だ。秋野が吉川と知り合ったのは尾山の会社でだったが、三年程前に独立し開店した店は好調のようだ。タイ料理屋ながらジャズが流れシックな内装を施したこの店は、若者に人気があるらしい。
「この間はうちの娘が迷惑かけたなあ。どうしても店を抜けられなくて」
 吉川は坊主頭を撫でながら済まなそうに呟いた。
 秋野はついこの間吉川の娘ミツルを家に連れ戻す手伝いをした。彼氏のアルバイト先から無事に連れ出したは良かったが、何と彼女は帰りに見かけた哲にうっかり恋をしてしまったというオチがある。母親似の娘をこよなく愛する吉川には口が裂けても言えないことで、秋野はその話に触れるのは嫌だったが、とりあえずミツルは父親には新しい恋を報告していないらしかった。
「別に……。本人も反省してたからいいんじゃない」
「まあな」
 吉川は腕を組んで頷いたが、思い出したように顔を上げた。
「この間加納くんが来たよ。またお前に何か頼むんだって言ってたぞ」
「ああ……。会ったよ」
 途端に浮かない顔になった秋野に苦笑して吉川は語を継いだ。
「どうしてそう馬が合わないかねえ。加納くんにお前を紹介したことを一生恨まれそうだ」
「そんなことはないけど、感謝はしない」
 口の端を曲げて皮肉に笑う秋野の表情に吉川は頭を掻き、広い肩を窮屈そうに縮めて見せた。
「ミツルにとってはいい兄貴なんだけどなあ。父親同士が知り合いってだけなのに随分気にしてくれてな。今でもしょっちゅう会ってるよ」
 秋野は思わず顔をしかめた。吉川が怪訝そうに見つめてきたが、何でもないと首を振る。哲の名前は加納には言わなかったが、ちょっとあちこちつつけば錠前屋の名前くらい出てくるはずだ。
 ミツルが新しい恋に浮かれて加納に哲のことでも喋ったら、何かと面倒な気がしてならない。具体的に何がと言うわけではないが、余計な心配をしたくはなかった。
 吉川に暇を告げて立ち上がりながら、ミツルの少女特有の熱っぽい眼差しを思い出した。秋野は正直うんざりしてそっと溜息を吐いた。あの年頃の女の子は、とかく恋に関しては黙っているということができないものだ。
 食欲をそそる香辛料の香りに背を向けて、秋野はもう一度深い息を吐いた。