仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 2

 かつてプリペイド式の携帯電話は犯罪者にとって素晴らしく便利な代物だった。とにかく身元確認が必要ない、口座引き落としされるわけでもない。これはなんと親切なアイテムだろうと大層重宝がられたものだが、その便利さもとうに終わった。
 というより、そんなふうに使えていたほうがおかしいと言えばおかしいのだが、どちらにしても残念極まりないと臍を噛んでいる者は多い。加納の話はその状況ゆえに、秋野に助けて欲しい、というものだった。
「携帯電話、三十台必要なんだとよ」
「へえ」
 秋野は相変わらず無表情で、冷めてしまったと思しき豚肉ときくらげの炒め物をつついていた。箸は持っているが、殆ど手をつけていない。
「けど今はプリペイド式も身元確認あるだろ? だからさ、安全な携帯をそんだけ用意するってのは結構大変なんだよな」
「だろうな」
「で、物は相談だ。十五台用意してくれたら、半々」
 秋野は薄茶の眼で加納の顔を一瞥し、箸を置いた。哲は置かれた箸を見て、話が長くなるのなら帰ってしまおうかと思った。腰を浮かし掛けた途端、テーブルの下で秋野の足に脛を思い切り蹴飛ばされた。
「……ってぇ」
「え?」
 怪訝そうに覗き込む加納を無視し、哲は顔をしかめながら座りなおす。秋野は哲をまるで無視して加納を見た。余程その足に三倍返しをしてやろうかとも思ったが、一応商談中だと思えば我慢するしかなかった。哲は憮然として腕を組む。加納はちらちらと哲を見ていたが、秋野の声に顔を上げた。
「期限は」
「明後日」
「十五は無理だ」
「頼むよ……」
 拝む真似をする加納を見て、秋野は眉を寄せた。
「無理だ。道端で高校生に名義貸しを頼めばいいってわけじゃないんだ。十なら何とかする」
「……だったら六、四だぞ」
「別に、俺は構わん。それと俺の名前を出すな」
「了解」
 加納はがっかりしたような顔で立ち上がると、秋野を見下ろして悲しげに溜息を吐いた。
「明後日、連絡する。マナちゃんとこに」
「ああ」
 踵を返しかけた加納は、何を思ったか哲のほうを向いてにっこり笑うと大袈裟に手を振り、またも無視されて肩を落として去って行った。秋野は箸を取り上げ、冷めた炒め物に取り掛かり始める。哲はすかさずその足を思い切り踏みつけた。

 

 耀司は化粧を落とし、ジーンズによれたスウェットを着て、タオルで顔を拭きながら現われた。真菜が出したコーヒーに早速口をつけながら、口を開く。
「俺、吉川さんには悪いけど加納ってあんまり好きじゃない」
 加納が聞いたらがっかりしそうなことを言うと、さっきまでマナちゃんであった男はソファに腰を下ろし、幸せそうに溜息を吐いた。真菜は気を利かせて別の部屋にこもっており、ここには秋野と耀司だけだ。
「俺だって別に好きじゃないさ」
 秋野は煙草の煙を天井に向けて吐き出した。
「吉川さんの知り合いでなきゃ別に付き合わん。あいつはどうも腹の中がわからん」
「お前に言われたくない思うけどね。ヨアニスと同じで似ているゆえの反発かねえ」
 にやにやしながら言うと、耀司はマグカップをテーブルに置き、タオルでまた顔を擦った。
「悪い奴じゃないんだろうけど、何でもはっきり言わないのが嫌なんだよね。得になることは隠しておこうっていう……」
「まあ、そういう意味では正直なんだろう。今回は銃じゃないからまあいいさ。たかだか携帯の十台くらい、別にどうってことない」
 秋野は小さく欠伸をすると煙草を揉み消した。コーヒーを啜って、溜息を吐く。
「俺のした事を北沢に漏らすって脅しやがった」
「それって……」
 耀司が言葉に詰まって、秋野の顔色を窺うようにじっと見る。
「どうもあいつには好かれないな。何をしたってわけでもないのに、頼みごとをしてくる割には毎度突っかかってくる」
「まあ、気に食わない奴、ってのは誰にでもいるからねえ。でも、そんな理由で昔のことほじくり返されるって、理不尽じゃない」
「仕方ないさ。まあ今更何があったか分かったって、北沢がどうするとも思えんな。第一かなり昔の話だし、単純な嫌がらせだろう。元々このあたりが地元らしいから、誰かから聞いたんだろう」
「誰かって誰だよ」
「知らないよ。だけど、誰にも知られない秘密なんてのはないんだよ、耀司」
 見つめる秋野の薄茶の目を心配そうに眺めながら、耀司はうう、と唸った。マグカップを取り上げかけ、思い直したように腕を組んでソファに背を預ける。
「まあ、確かに今更だけどね——。哲には」
「あいつが知る必要があるのか?」
「……お前らはそうだよな」
 重い溜息を吐いた耀司は、短い髪をかき上げて秋野を見た。
「まあ、無視するのが一番だね。携帯渡して済めばいいけど」
 秋野は口の端を曲げて笑うと、自分の組んだ指を見下ろした。
「どうだかな」

 

「佐崎さんの携帯ですか」
 途切れがちな電波の向こうから聞こえてくる声は、誰のものなのかよく分からない。昼を過ぎたばかり、起きぬけの哲の耳は、頭以上に機能を取り戻していないようだ。
「あんた誰」
 欠伸と共にそう訊ねると、電話の向こうの声が残念そうにトーンを下げた。
「この間会った加納です」
「……」
 まるで誰だか分からず沈黙していると、声はより一層暗くなった。
「あんた仕入屋と一緒にいた佐崎さんだろ? この間炒飯食べてた」
「ああ……」
 そういえば秋野に携帯十台とか何とか言っていた男がそんなような名前だった、と思い出す。二人の話などろくに聞いていなかったし、声だけで誰か分かれと言われても無理な話だ。それでなくても腹の一物を無理に隠すようなにやけた面がどうにも気に入らなかったのだから尚の事だった。
 ぼんやりと浮かんだ加納の顔は短くした黒い髪と鋭い輪郭だけで、顔の造作は曖昧だ。
「何であんた俺の携帯知ってんの」
 煙草を銜え、灰皿を探しながら疑問を口にすると、加納が笑った。
「なあ、ちょっと出て来れないか」
 馴れ馴れしい加納の口調が癇に障ったが、面倒なので指摘しなかった。加納は地下にでもいるのか、時々電波が切れ、声が不意に遠くなる。
「何で俺が出てかなきゃなんねえんだよ。用があんならてめえで来い」
「だって、住所——」
 哲はやっと探し当てた灰皿を引き寄せながら、加納のいかにも困惑したといった声を不愉快に聞いた。どうしても上っ面と腹の底を分けたい男なのか、それならそれでもっと上手くやれと言いたくなる。煙草に火を点けながら低い声で吐き出した。
「名前と携帯の番号分かってて住所が分かんねえわけあるか、馬鹿」
 切った電話を布団の上に放り投げ、哲は苛立たしげに頭を掻いた。