仕入屋錠前屋32 それはまるで恋のように 1

「秋野ー、今何してんの」
 耳元から、緊張感のない耀司の声が聞こえてくる。バックの音は相変わらずオカマと女の奇声、派手な音楽、そこにたまに男の笑い声も混じる。
「飯食おうとしてる」
「あれえ、哲。店あがったの? お疲れ様。秋野は」
「注文して便所」
「そっか」
 定食屋の中は、耀司の後ろから聞こえる物音以上にざわついてる。汚くて狭い店内は雑多な客で一杯で、禁煙席を設けようなどと言う観念が端から欠落した空間は紫煙でむせ返るほどだ。間違いなくその一端を担っている手元の煙草の灰を払いながら、哲は携帯を耳に当てなおした。
「すぐ戻ってくるだろ、腹壊してなきゃ」
「悪いけど哲さ、伝えといてくんない? 俺今お客さん待たせてて、すぐ切らなきゃ」
「別にいいけど、何だよ」
 耀司は仕事の話だから、と前置きして早口に並べ立てた。
「加納って人がこれから秋野に会いたいって言ってんだよね。そこどこ?」
「俺の仕事場の近くの定食屋。前にお前が中華料理屋みたいだっつってた」
「あーわかったわかった! じゃあ今からそっち行かせるから」
 耀司の早口を聞いていると秋野が戻ってきた。哲の向かいに腰掛けながら携帯を見て眉を上げる。
「おい、耀司、秋野戻って来たぞ」
「いや、いい! よろしくっ!」
 贋物とは言えオカマには似つかわしくない男らしい低音の挨拶を残して、耀司の電話は切れた。哲は携帯を秋野に渡しながら肩を竦めた。

 

 秋野は仕入屋、と呼ばれる。そもそも哲と秋野が知り合ったのは、秋野の仕事がきっかけだった。金庫の錠前を開けるのにあちらから声が掛かって、なぜかそのままつるむようになった。
 必ずしもお互いの仕事にお互いが必要なわけではないし、友人と言うのともちょっと違う。それでも互いに何かしら思うところがあって、結局は肩を並べることが多いのが現状だ。
 哲は向かいで煙草に火を点ける秋野の顔を一瞥した。
 ついこの間、人が寝ているところをしつこい電話で叩き起こし、お前が欲しいとか訳の分からんことをぬかしやがった馬鹿男。何を考えているのか未だによく分からない部分もあるが、あの電話以来、憑き物が落ちたような顔をしているのが面白い。
 だからと言って言動も中身もまるで変わらないのだから更におかしいが、変わってほしいわけではないからそれはいい。何にせよ、仕入屋は今日も変わらず仕入屋だった。
「加納ってのは、昔からの知り合いに紹介された男で、俺と似たようなことを商売にしてる奴なんだ。まあ、厳密に言えば違うがね」
 秋野は椅子の背に凭れて煙を吐き出した。
「けどあいつにはないルートをたまたま俺が持ってて、何回か会った事がある」
「へえ」
 哲は気のない返事をしてグラスに入ったカルキ臭い水を飲んだ。不味いが、飲めないということもない。はっきり言って上水道から出てきた水なら何だって気にしない。
「部外者はいないほうがいいんじゃねえのか」
「いいよ、別に。聞かれたくない話をするならこんなとこに来ないだろう」
 秋野が煙草を揉み消したと同時に、哲の背後から声がした。
「よ、どうも。悪いね、食事中に」

 加納は、秋野と違っていかにも崩れた雰囲気の男だった。秋野は酷く変わって見えることもあればごく普通に見えることもあるが、加納は多分そう見えることはないだろう。
 格好だけ見れば特におかしいところはないものの、明らかに普通の人、とは言えない何かを発散している。年齢は二十代後半か三十代だろうが、若くも老けても見える。短くした黒い髪も精悍と言っていい顔も、取り立てて目立つものではないから尚更不思議だった。暴力の匂いはしないが、にやけた表情の下で考えているのは多分まったく別のこと、と言った感じだ。
 隣のテーブルから勝手に椅子を引き出してくると、加納は先ほどからそこにいました、と言ったような顔をして席に着いた。
「久し振り。その節はどうも」
「ああ」
 加納は妙に愛想がいいが、秋野はこれといって表情がない。見事に何を考えているのか分からない顔になっている。哲は変なところで感心した。さすが、こういうことをやらせたら質の悪さで右に出る奴はいない。
「今回はマナちゃんに会えなかったよ、残念ながら」
 哲は思わず吹き出しかけて必死の思いでそれを堪えた。秋野の連絡係も勤める耀司はゲイバーでバイトをしていて、マナという源氏名を使っている。耀司が本来はオカマどころか立派にストレートだということ、マナは耀司自身の彼女の名前だということは親しいものは誰でも知っているが、加納はそうではないのかもしれない。
 哲が吹き出しかけたのは別に加納を嗤ったわけではなく、耀司が聞いたら何と言うかと思ったからだ。是非ともこの男にマナちゃんと呼ばれる耀司を見物したいものだ。秋野はそんな話には慣れていておかしくもないのか、平気な顔をしている。
「何かあったのか。もうあれは受けないと言ったと思うが」
「……って、彼の前で話していいのか?」
 加納が急に哲に顔を向けた。哲が一瞥をくれると、僅かに首を傾げて見返してくる。秋野が投げやりに言った。
「同業——ってわけじゃないが、似たような商売だ。お前が気にしないなら俺は構わん」
「ああ、そう。宜しくね」
 意外と人懐こそうに笑う加納から顔を背け、哲は厨房へ目をやった。ここの店主は一人で調理をするので、料理が出てくるのが遅い。おまけにどんなに混んでいても手前勝手な煙草休憩を取る。案の定、店主は鍋の具合を見ながらガス台の前で煙を吐き出していた。それでもまだ手が動いているだけマシな方だ。
 哲に無視された格好の加納は気にしているのかいないのか、何も言わずに秋野に向かって話し始めた。
「本当、前はお陰様で助かったんだ、あんたには感謝してるよ。今回の用はそっちじゃないが……もう扱わないのか?」
「基本的には」
「そうか。最近北沢組があっちに力入ってるんだってな。中国に工場ぶっ建てたとか聞いたが」
 秋野は嫌そうに顔をしかめて首を振った。
「いや、建てたんじゃなくて、ぶんどったってのが本当だろ」
 加納は意外そうに眉を上げ、秋野の顔を窺う。
「あそこの組長、兼田の若頭か何かだったか? そんな大物と付き合いがあるなんて聞いてないぞ」
「付き合いなんかない。あそこの直参を一人知ってる。……知りたくもなかったが」
 秋野がなぜが哲を眺めて溜息を吐いた。ナカジマのことを言っているのだろう。哲とて好きで知り合ったわけでもなければ——どちらかというとそれに関しては秋野のせいだ——好きで気に入られたわけでもない。
 睨み返すと素知らぬ顔で視線を逸らされた。
「だから、係わりあいたくないんだ。こっちが一丁二丁の話でも商売がかぶるのは面倒で」
「そりゃそうだな」
 加納は腕を組んで頷いた。店主の他にはたった一人の従業員であるおばちゃんが料理を両手に現われた。加納に無愛想に注文は、と訊く。加納が首を振ると、彼女は鼻息も荒く戻って行った。
 哲はれんげを取り上げ、炒飯についていたスープをすくう。目の前の二人の物騒な話に別に興味はなかった。
「じゃあ今度からお願いする時は、その直参を紹介してくれってことにするよ」
 加納が不意に、崩れた、酷薄な笑い方をした。しかし、それに対して秋野は表情一つ変えない。
「それでお前が得をするのか? 昔のことを手土産にして北沢に取り入ってどうしたい? 大体あっちは小物の過去に興味はないし、逆にお前が骨までしゃぶられて終わるんじゃないか」
「……まったく、いつでもそうやって隙がない」
 溜息を吐いた加納は、一瞬纏った空気をきれいに剥ぎ取り、残念そうに肩を竦めた。
「そんなことはない」
「いや、そうだろう。大体、あんたに弱みなんかあるのか?」
「——俺の弱みは今そこで大口開けて炒飯食ってるよ」
 話に興味なさげに目の前の炒飯に集中する哲にちらりと目をくれて、秋野はぼそりと呟いた。哲は炒飯、という単語に反応して目を上げた。
「ああ? 何だって?」
「いや、何でもない。黙って食ってろ」
「……何だてめえコラ、指図すんな」
 一見険悪な雰囲気で睨み合う二人を見て、加納は目を瞠っている。恐る恐るというふうに横合いから口を挟んできた。
「それにしては、……仲が悪い、のか?」
 哲は鼻を鳴らすと炒飯の続きに取り掛かった。添えられた紅しょうがの山を乱暴に崩す。秋野は平然とした顔で加納を見た。
「いや? すこぶるいいが」
「死ね」
 すかさず吐き出された低音の合いの手に、加納は益々目を丸くした。