仕入屋錠前屋31 呼吸の合間 2

 秋野は自然、渋い顔でコーヒーを啜った。
「なんていうのかなあ、乱暴なひとが好きなわけじゃないんだけど」
 ミツルは熱に浮かされたように喋っている。しかしよりによって哲はないだろう、と秋野は胸の中で重い溜息を吐いた。別に哲に女がいようが出来ようが知ったことではないが、ミツルは友人の愛娘なのだ。おまけにまだ十八、自分では大人になったと思っているだけに始末が悪い年頃だ。
「ミツル」
「はい?」
「あれは、俺はお勧めしない」
 ミツルは落胆を隠さず酷く悲しそうな顔をした。そういう顔をされると苛めているような気分になっていたたまれなくなってしまう。
「悪いやつじゃないが、凶暴すぎる」
「そうかなあ、そんなことないと思う、私」
 恋する乙女は盲目だ。秋野は目頭を指で揉んだ。
 確かに哲は人目を引くような容姿ではないが、だからと言って人より劣るわけでもない。身長もそこそこあるし、ミツルがかっこいい、と思ってもおかしくはない。
 だが、十代の少女の手に負える男ではないし、それに最悪なのは、哲は口は悪いが基本的に女子供には冷たくないと言う事だ。いくら守備範囲外だと言っても、ミツルが懐けば邪険にするとも思えない。
 それでミツルが本気で哲に熱を上げたら、秋野はミツルの父親に顔向けできなくなってしまう。哲が相手なら、まだバーに勤める二十三歳のトモキくんのほうが安心だった。
 そんな秋野の胸中をよそに、ミツルのテンションは上がるばかりだ。
「ねえ、秋野さん、お願い紹介して!」
「ミツル、お父さんになんて言われるか」
「だって、会うだけ! 友達になるだけだもん、ねえ、いいでしょ?」
 口を開きかけた秋野に畳み掛けるようにミツルは言った。
「だって、あんなふうに笑うひと見たことないよ! 怖いけど、すっごく気になる!」
 ミツルの必死な顔に、反論は出来なかった。秋野は思わず唸りながら、携帯を取り出した。

 

 目がハートと言うのは、単なる例えではなかったらしい。秋野はそんなふうに思った。ミツルは正に言葉の如く、とろんとした目で哲を見ている。哲は相変わらずどうでもよさそうな顔をしてはいるが、彼女を慮ってか、あからさまに興味なさげ、と言ったふうではない。

「はあ?」
 電話の向こうの哲は気の抜けた声を出した。
「俺が何?」
「だから」
 秋野は溜息を吐いた。ガラス越しのミツルは期待に目を輝かせて秋野を見ている。
「この間の子がお前に恋したんだと」
「……俺は未成年に興味はねえ」
「知ってるよ。知ってるが、悪いが顔だけ見せてくれ。しつこくてかなわん」
 秋野は無理矢理ミツルに笑って見せるとカフェに背を向け、公園で遊ぶ罪のない親子連れの背中を睨みながら語を継いだ。
「適当に三十分くらい居てくれりゃいい」
「面倒臭えな。飯奢れよ」
 いきなり切れた電話を耳に当てたまま、秋野は誰もいない砂場に向かって悪態を吐いた。

 そんなやり取りの中身は伝えず、哲が来ることだけを告げた。ミツルはやれ服がいい加減だの、メイクがヤバイだの散々喚いていたが、いざ哲が来てみると嘘のように大人しく座っている。
 煙草を銜えた哲は、おかしな沈黙に耐えかねたのか、口を開いた。
「幾つ?」
「じゅうはちです……」
 ミツルのぼんやりした返答に会話が続かず、また沈黙が降りる。秋野は本気で帰りたくなったが、さすがに哲にミツルを押し付けて帰るわけには行かない。
「お前な、ミツル。黙ってたら何で呼んだか分からんだろうが」
 秋野の声に我に返ったように振り返って、ミツルはまた心なしか赤くなった。
「ええと、えー、と、佐崎さんは、彼女いるんですか?」
 余りにも直球な質問に哲がちょっと笑った。ミツルはその笑顔に益々顔を赤くする。
「いますよね! いますよね! そりゃそうですよね! うわ私何言ってんだろもうやだあ」
「いないよ」
 哲が煙草を銜えたままあっさりとそう言った。秋野は内心哲を罵ったが、勿論言えるはずもない。ここでいると言ってくれれば、ミツルも少しは落ち着くだろうに。
 案の定ミツルは更に興奮したようで、半泣きになっている。それにしても十代とはこういうものだっただろうか。どちらかと言うと人並みと言い難い十代を送った秋野には少し懐かしくも、興味深くもあった。
 それなりに女と付き合ってきたが、多香子に対してすら熱病のような恋心を抱いた覚えはない。ミツルのそれは、まさに風邪のようなものだろう。しかしそれは微笑ましく、ある意味羨ましくもあった。
「そうなんですかっ」
 勢い込んだミツルに、哲はのんびりと頷いた。

 ミツルは赤い顔に断固たる決意を滲ませて背筋を伸ばした。秋野はもうどうにでもなれという気分で傍観者に徹することを心に決めた。今更口を出した所で、盛り上がりきったミツルは後には引かないだろう。
「じゃあ、じゃあ、好きなひとはいますか」
 哲はいいや、と首を振る。
「……私、私——佐崎さんのこと、好きかも、です」
 ミツルはテーブルの上の両手を握り締めながら、そう絞り出した。耳の先まで赤くして俯くと、長い髪がさらさらと顔の周りに零れ落ちる。好きかも、と言う曖昧な言い方を選んだ割には真剣な表情に、秋野は内心溜息を吐いた。
 そりゃあ、どうも。哲が思いのほか優しい声で呟いた。言っていることは普段と同じだが、相手が子供だと思うせいか、物言いは柔らかかった。ミツルは俯いて拳を握り締めたままこくりと頷く。その頭のてっぺんの辺りを眺めながら、哲が呟いた。
「息する合間に、思い出す奴ならいる」
「え?」
 ミツルは赤い顔を上げ、大きな目で哲を見つめた。
「人間は、生きてりゃ息してないことないよな。だから、まあ言っちまえば殆ど思い出さないってことなんじゃないかとも思うんだけどな」
「……はい」
「俺はそいつで手一杯なんじゃねえかと、思う時があるよ」
「それって、息する合間にそのひとのこと考えるから、息継ぎも出来ない、ってことですか」
 ミツルが目を瞬いて哲を見つめた。哲は片頬を歪め、ミツルから顔を背けて煙を吐いた。
「——好き、とは言わねえな」
「……ですね」
 ミツルがか細い息を吐き出した。
「好きって、恋してるって言うのは、呼吸してる間ずうっと、そのひとでいっぱいになっちゃうことだと思います、私。合間じゃなくて、呼吸してるとき、ずっとです」
 真剣な顔でそう言うミツルに、哲は小さく微笑んだ。

 

 ミツルは自分の白いスニーカーの足先を見つめながら、先ほどから無言だった。哲が帰った後に注文したケーキセットのモンブランとやらを黙って口に運びながら、しきりに溜息を吐いた。秋野が話しかけてもはあ、とかふう、とか言うばかり、やっと席を立ったが、相変わらず黙っている。
「ミツル、そう気を落とすな」
 秋野は先ほどから何度目かになる慰めの言葉をまた繰り返した。
「あんなのよりいい男は山ほどいるから」
 これはかなり本心だったが、ミツルは更に大きな息を吐く。それでもいい加減黙っているのに飽きたのか、あーあ、と小さな声を出した。
「私、とても本当に好きになっちゃったみたいです」
 おかしな日本語だったが、ミツルの顔が真剣なので、つまらないことを指摘するのはやめておいた。
「佐崎さんの大事なひとってどんなひとなんだろう。好きじゃないって言ってもきっとすごく大事なんだよね。美人かな。やっぱり素敵なおとなの女なんだよね、きっと。秋野さん知ってる?」
「さあ、あいつの女と会ったことはない」
 前に一度、哲がミキという子と一緒のところを見かけたことがあった。しかし、あれは厳密には彼女ではないから、言及は避けた。十八歳の夢多き少女に余計なことを教えても仕方がない。
 ミツルはまた溜息を一つ、今度は諦めたように漏らして秋野の腕に腕を絡めた。
「あーあ、ふられちゃったよう」
 秋野は腕にへばりつくミツルの頭を軽く撫でた。ミツルは顔を上げ、にっこりと子供のように笑う。東南アジア系の母親の顔立ちがいい方に出て、ミツルは結構な美少女なのだ。
 あともう少し年齢が上だったら、哲も真剣に考えたかも知れない。そう思うとミツルが可哀相だったり、彼女の父親の事を考えてやっぱり駄目だと思ったり、秋野も心中複雑だった。ミツルは秋野の内心は知らず、もう一度、少し大きな声であーあ、と言った。
「でも、私もうちょっと頑張る!」
「は?」
 見下ろしたミツルの顔は晴れやかに笑っていた。
「だって、佐崎さん、そのひとのこと好きじゃないって言ってたもん。まだ恋してないうちに、私が先に佐崎さんを射止めてやる! ね、秋野さん、また佐崎さんに会わせてね。携帯の番号なんか教えてくれたら、すっごい嬉しいんだけどなぁ!」
 立ち直りの早い十代にはますますもってついていけない。秋野はそう思って、腕にぶら下がる少女に向かって苦笑した。

 

「呼吸の合間?」
 後日、哲の顔を見るなりそう言うと、哲は眉を寄せて「ああ?」と語尾の上がる品のない返答を寄越した後、今度は「ああ」と語尾を下げて、自分の発言を思い出したことを表した。
「てめえといると時々息が詰まる。そういう意味だ」
 哲はそう言うと秋野の脛に強烈な蹴りをくれ、鼻を鳴らして歩き出した。結構な痛みに顔をしかめながら、秋野は本気でその首を絞めてやりたくなった。
 呼吸が止まっている間、哲が自分のことを考えていると言うのなら。