仕入屋錠前屋48 朝は苦手。

 今日は酷く天気がいい。降り注ぐ太陽の光が看板に跳ね返って目を射し、アスファルトの照り返しが足元を焼く。
 だから日陰は確かに歓迎だ。だが、折角の晴れた日に薄暗い映画館に籠ると言うのはどうだろうか。映画ファンならいいだろう。だが哲は生憎大して詳しくないし、テレビ放送になってからで問題ない。
 それなのに昼間っから映画館、しかも上映されているのは文学的アクションとかいうわけのわからないコピーのついた映画である。おまけに隣はでかくて邪魔くさい仕入屋で、既に上映期間が終わろうとしているマイナー作品には他に三人しか観客がいなかった。
 定年退職後なのか、六十代と思われるジャケットの男性。友人同士と思われる若い女の子の二人組。どちらも真剣にスクリーンに見入っており、始まってからずっと欠伸をしているのはどうやら哲だけのようだった。
 そもそも、男二人こんなところに来たいわけではなく、仕事のためと思って我慢をしているだけである。今回秋野に紹介された解錠の仕事で、依頼人がこの映画館に非常勤勤務しているのだ。その依頼人——既に六十を幾つも越えてなお精力的に仕事をしているらしい——がこの映画を見ないと仕事はやらんと言うのだから仕方がなかった。
 要するに孫だか姪だか、海外で役者をしている身内がちらっと出演しているそうなのだが、そんなことを言われても哲にはそれがどれだか分らない。さっさと終わらせて帰りたいが、依頼人が映写技師だというのだから、この上映が終わるまで仕事も始まりはしないのだった。
「あー眠てえ」
 呟いた声はタクシーが爆発した音にかき消されたと思ったが、隣の秋野がこちらに眼を向けた気配がした。最後列なのをいいことにだらしなく座った仕入屋は、哲が顔を向けると面白くなさそうな顔のままスクリーンに眼を戻す。画面が明るくなると薄茶の瞳が光を映して淡く光った。
「哲」
 低い声は、隣でようやく聞き取れるくらいの音量だった。続けて秋野が何か言ったが、盛り上がる画面に比例してでかくなる音の洪水に、何を言っているのか聞き取れない。
「何?」
 身体を傾けると、耳元で秋野の声が低く呟く。
「眠るなよ」
「何で」
「俺一人でこれに耐えろっていうのか」
「耐えろよ」
「薄情な奴だな」
 溜息が耳の中に入ってこそばゆさに背が粟立つ。哲は秋野の足を思い切り踵で踏みつけて、同時に顔を寄せて威嚇するように唸りを上げた。大体依頼人は秋野の知人で哲のではない。
「うるせえ、俺が寝ようが寝まいが」
 歯を剥く哲の後頭部を秋野の掌が包んで引き寄せる。まさかこんなところでされると思っていなかっただけに無防備に開いた口の中に、秋野の舌が滑り込んできた。
 確かに、観客は後ろを向かないだろう。だが、それこそ映写技師はどうなのだ。冗談ではない。
 秋野の腕を掴んで力任せに引っ張ったが、仕入屋の馬鹿力は哲の比ではない。遠慮の欠片もない、まるで犯すような口付けに、憤怒で目の前が暗くなる。暗くなったのは画面が暗転したせいかも知れないが、そんなことはどうでもいい。
 角度を変える度に僅かに出来る隙間から罵って、出来うる限り暴れてみる。それでも人目を気にして出来る抵抗には限度があって、気付けば身体まで引っ張り寄せられ、秋野の上半身に覆い被さるような姿勢になっていた。
「…………大きい声出すなよ。迷惑だから」
 にやつく秋野に機先を制して釘を刺され、怒鳴りかけて思い直した。二組の客は映画に夢中で、山場の音楽は耳を聾するほど大きい。秋野の様子からすると、映写室は忙しくて客席を見ている余裕などないのだろう。
 いいだろう、そっちがそういうつもりなら、泣き寝入りしてやる義理はない。
 起こしかけた上体を元に戻し、哲は間近の瞳を覗き込む。秋野が怪訝そうに眉を寄せた。
「哲?」
「そんなにやりてえのか」
「——さあ、どうかな」
 秋野は薄茶の眼を細めて哲を見つめ、唇の端を曲げて笑うとゆっくりと一度瞬きする。哲は秋野の耳に顔を寄せた。
「あと一時間くらいあんだろうが? 後ろでやってたって、誰も気付きゃしねえよ」
「何言ってんだ、お前」
「ここで、俺に挿れたらどうだ」
「哲」
「床の上なら見えねえぞ」
「そんな隙間ないだろう、馬鹿だね」
「じゃあ俺がお前に乗っかりゃいい」
 さすがに口を噤んで眉を顰めた秋野に気をよくし、哲は秋野の首に手を回した。
「なあ、想像しろよ…………秋野」
 耳の中に囁きながら耳朶を舐める。身じろぎした秋野を回した腕で拘束し、哲は更に声を低くした。
「どういう気分なんだよ、男に突っ込んでる時ってのは」
「どうしようもないこと訊くな」
「挿れてると思えば答えられんだろ」
 自分から更に身体を寄せ、殆ど上に乗っかる格好になる。もし誰かが振り向けば、大変心外だが自分が襲っているように見えるだろう。そう思えば些か挫け気味にもなるが、とりあえず今は置いておく。
「哲」
「何だよ」
「ふざけるのも大概にしろ」
「始めたのはてめえじゃねえか。どうせ暇なんだから答えろよ」
「……答えたら何かいいことあるのか」
「ないんじゃねえの」
「じゃあ答える意味がないだろう」
 呆れたように溜息を吐き、秋野が呟く。画面が少し暗くなって、肩越しに見たスクリーンの上は月の光に照らされた山の遠景だった。馬鹿でかいフルオートの機関銃を背負った女と、手榴弾を体中にぶらさげた男が抱き合って愛を囁きあっている。まったく、自分と仕入屋の関係と同じくらい意味が分からない。
「意味なんかどうでもいいじゃねえか。なあ、女とやるのとどう違うのよ」
「——お前」
「ぁあ?」
「その気もないのに煽るな」
「その気がないから煽ってんだよ。分かってねえな」
 にたりと笑った哲に秋野の手が突如として伸びてきて、顔を容赦なく骨ごと掴む。掌に塞がれる格好になった口はどうでもいいが、頬骨が砕けそうに痛かった。
「…………知りたいか?」
 地獄の底から響くような低音が、もがく哲の顔の間近で吐き出される。軋る歯の間から押し出されるしわがれた声は、ややもすればまた始まった爆音に掻き消されそうになりつつも、哲の耳をざらりと這った。
「女とどう違うかって、そんなもん突っ込めば大して変わらん。お前だって幾らでも想像出来るだろうが。要するにそこまでたどり着けるか、挿れるまでちゃんと興奮してられるかってそれに尽きるだろ。意味、分かるか? 聞いてるか」
 決して早口ではないが、切りつけるような秋野の言葉の羅列に哲は仕方なく頷いた。顔を掴む指を剥がそうと手を掛けたら、もう片方の手で呆気なく払い除けられる。
「お前に挿れてる時はどうかって? 興奮して理性は吹っ飛ぶ寸前で目の前は真っ白だ。せめて怪我だけはさせないようにと思うが思った傍からお前は齧りついてくるからこっちも歯止めが利かなくなる。悪態ばっかりつきやがって色気もクソもない男相手に冗談じゃないとも思うがね、実際どうにもならないんだから仕方がないな、俺のせいじゃない」
 顔を捻って手を外そうと足掻いてみる。目の端に見える画面の中で、女の愛する男が手榴弾ごと敵の本拠地に特攻して自爆した。ところが奇跡的に男はまだ生きていた。何て映画だ。益々もって最悪だ。
「挿れたまま揺さぶったら、喉を反らして唸るのがいい」
 低い声は、からかうような響きを僅かに含んでいる。
「暴れるのを押さえつけて抱くのが好きだ。激しくしたら感じて声が掠れるのも、いくときに滅茶苦茶に俺を罵るのも、何回も死ねって喚くのもな。お前の全身舐めまわして、手も足も食い千切っちまいたいよ」
 哲はゆっくりと離れていく指の先に眼をやった。形のいい爪の先には、見えない鉤爪が仕込んであるに違いない。鈍痛を訴える頬を撫で、哲は顔をしかめて秋野を睨む。哲の身体を掌でゆっくりと押しやって、秋野は痩せた虎のような笑みを浮かべ、薄茶の眼を眇めて哲を見た。
「もっと細かく聞きたいか?」
「…………」
 結局、性質の悪さでは勝てはしないのだ。座席に深く沈みこみ、仏頂面を隠しもせずに前の席の背に両脚を載せた哲に一瞥をくれ、秋野は何も言わずにスクリーンに眼を戻す。ご都合主義で生き残った男が何か高尚な愛について叫んでいた。

 

 希望の象徴であろう朝日が昇る。
 女と男が戦いを終え、抱き合いながら爽やかな朝の陽射しの中お互いをどれだけ愛しているか主張し合った。
 元々、朝は苦手だ。夜の仕事で終わりが遅いから畢竟起床は昼近くなる。スクリーン上の眩しい朝日はエンドロールの背景を飾り、愛と平和の象徴として惜しみない光をがら空きの客席に届けていた。朝日こそが美しい愛の始まりだと言うのなら、これほど自分と縁遠いものもない。
 秋野が立ち上がり、腰を伸ばす。ようやっと仕事が出来ると立ち上がった哲の腕を掴み、秋野は哲に顔を寄せた。
「あまり舐めた口をきくな、錠前屋」
 二組の客は、まだスクリーンのほうを向いている。屈んだ秋野は哲の顔の傍で、愛など欠片もない低い声で囁いた。
「本気で泣かすぞ、ガキが」
 肉食獣のような男はそう言って、さっさと劇場を出て行った。

 

 あの虎野郎め、クソ忌々しい。客席を三度蹴っ飛ばし、哲は呻いて髪を掻き毟る。
 戻れるものならあの日の真夜中に戻りたかった。
 ——もっとも、同じ過ちを繰り返さないと、断言は出来ないが。

 どうか秋野と共に朝を迎えることがないように、と信じてもいない神にこんな時だけ本気で頼みながら、劇場の重いドアを押す。暗がりに慣れた目にはロビーの明かりが朝日のように眩しかった。
「哲」
低い声が哲を呼ぶ。哲は光に向けて、くそったれ、と不機嫌に吐き出した。