仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 6

 人が一人死んでも、世の中は回る。言ってしまえば十人死んでも百人死んでも回るのだろう。普段と変わりなく仕事に出て、料理を作り、休憩に裏口に出る。そこに秋野の姿を見つけるのも、秋野を見るたびにざわめく自分の腹の底も普段と何ら変わりはなく、一人のヤクザと女の死には些かも影響されることではない。

 翌日のニュースで見た樺山の事件は、暴力団同士の抗争ではないかとの見方が濃厚、という報道内容で、多分そういう方向でうやむやになるのだと秋野は言った。
「弘瀬の依頼人はヤクザじゃない。そういうことだ」
 そう言って秋野は哲の黒い前掛けの端を引っ張った。
「曲がってるぞ。しかしあれだな、一緒にいた女が二十歳の子じゃなかったっていうのは良かったのかな。少なくとも若い子が死ぬよりは」
「触んなよ、うるせえな。女がどうしたって?」
「夕方のニュースでやってたんだよ。二十歳の女の誕生日とか言ってたろ? 死んだ女は五十四歳だって」
「はあ? そりゃあまりに違いすぎねえか」
「どんな情報だったんだか、いい加減もいいところだな。女は確か杉原寿美子って名前で、年は間違ってたが愛人っていうのは合ってたらしい」
「……すみこ?」
 不意に耳の奥にハスキーヴォイスの笑い声が甦った。そんな偶然があるのかと思いながら秋野の手を払い除けて繰り返し、立ち竦む。秋野は哲の変化に気付いたのか、声のトーンを変えて知ってるのか、と呟いた。
 右手に持った煙草の灰が地面に落ちる。哲は落ちた灰の残骸をぼんやり見ながら、澄子と旦那の顔を記憶の底から掘り起こそうと努力した。秋野が携帯を取り出して誰かに電話を掛けている。ぼんやりそれを認識しながら、どこからか流れてくる油の匂いに何とはなしに眉を顰めた。
「ああ、そうだ——娘? 娘の誕生日か。じゃあ、…………」
 聞こえてくる途切れ途切れの言葉に、何となくだが推測はつく。二十歳の女は愛人ではなく樺山と澄子の娘だったのか。母親の家での誕生祝、娘だけが別の場所に帰ったということか——。
 いつの間にか電話を終えた秋野の指が哲の右手から煙草を取り上げる。短くなった煙草を銜えた秋野の大きな掌が頭蓋を掴んだ。
「知り合いか」
「分かんねえ」
「今聞くか」
「聞く」
「哲」
「大丈夫か、なんて訊くんじゃねえぞ。大丈夫じゃなくても、お前には関係ねえ」
 睨み上げ、歯軋りして言うと秋野は煙草を地面に吐き捨て、哲の頭を掴む指に力を入れた。
「死んだ女は杉原寿美子、元ホステスで樺山の愛人だ。今はホストクラブを三つ持ってて、使ってる名前は月原澄子。本名は寿に美しい子、こっちは水が澄むのほう」
「……お前」
「何だ」
「おんなじ例え方すんのな、澄子さんと」
 秋野の手首を掴んで強く握り締め、爪を立てて引き剥がす。表皮がむけるほど力を入れているのに、秋野の表情は毛ほども動かず、薄茶の虹彩に囲まれた黒い瞳孔が哲の眼を覗きこんだ。
「——勝手に踏み込むな。どいつもこいつも、図々しい」
 思わず口から出た意味不明な台詞にも表情を変えず大人しく手を下ろし、手首に食い込んだままの哲の指を見て、秋野は片方の眉を上げた。
「放してほしいのか、違うのか。どっちなんだ」
「訊くな、阿呆。前者に決まってるだろうが」
 哲は秋野の手を力任せに振り払って踵を返し、後ろ手にドアを閉めた。叩きつけるように閉めかけて、ここは店の裏口だと思い出す。すんでのところでドアを押しとどめ、手首の力でゆっくりと閉めて寄り掛かった。
 澄子と会ったのはたった一度、それも僅かな時間、ファーストフードでくだらない話をしただけだ。彼女が死のうがどうしようが、正直哲にはどうでもいい話だ。悲しい、と思うほど自分は人格者ではないし、心優しい人間でもない。ただ、真夜中に運命と邂逅すると呟いた彼女の声。紅い唇から零れた言葉の響きがやけに切なく、胸に沁みた。
 澄子の運命は、占った男に部屋のドアの錠前を開けられ見知らぬ誰かに撃たれて死ぬことだったのか。シャワーを浴びるのに拳銃を用意していたという占い師。彼女はどこかから切り取った運命の端きれを握り締め、何を見て拳銃を用意したというのだろう。
 頭を切り替え、仕事に戻ろうと扉に凭れた背を浮かせ、哲は小さく息を吐いた。
 真夜中に運命に邂逅するはずの人間が二人、一人は死に、一人は包丁を握って魚の頭をぶった切る。
 下品な化粧の愛娘の誕生日に誰かのために料理をして死んだ女、不特定多数の誰かに食わせる料理を坦々と作り続けてまだここに立ついかれたちんぴら。少なくとも哲の死は、今はまだ訪れる気配もない。
「服部ぃ!」
 哲が怒鳴ると、厨房から鍋をひっくり返したような音がして、服部が犬のように走ってきた。
「はいっ!! 何すか佐崎さん!」
 はあはあと息を切らした顔は正に躾のいい犬そのものだ。思わず笑いそうになったが堪え、せいぜい真面目な顔をしてやる。
「ちょっと抜ける。十分もかかんねえから鍋、煮立たないように見といてくれ。味は分かんなかったら水田さんに訊け」
「え、別に今そんな混んでないしいいですよ」
「いや、大した用じゃねえから」
「はい、じゃあ、いってらっしゃーい」
 服部の気の抜けた台詞に多少気力を削がれつつ、哲は路地を真っ直ぐ進み、一つ曲がって店の表に出た。斜め向かいのホストクラブの看板の電気は点いていないが、どうせ開店時間はまだだった。今日は店が開くのか、それとももう二度と開かないのか。興味はあるが、どちらでも別に構わなかった。
 人の流れの中、仕入屋は大抵頭一つ飛び出ているから探さなくても直ぐに分かる。知り合いと思しき男に声をかけられて立ち止まる長身を、若者のグループが避けていく。男に手を上げて二、三歩進み、今度は背中の大きく開いた青い服の女に腕を取られ、僅かに屈むようにして何かを喋っていた。
「おい」
 女から離れて数メートルで追いつき声をかけると、秋野は振り返って驚いたように目を瞠った。
「哲? 店は」
「抜けてきた。すぐ戻る」
「電話くれれば」
 言いかけた秋野の背後から来た派手な柄シャツの酔った男が哲の横でよろけて肩先がぶつかった。酒と油の匂いが鼻につく。さっきもどこかからした油の匂い。胸が悪いのはこのせいなのか。
「痛えな、邪魔くせえんだよガキ! 突っ立ってんじゃねえぞっ」
「……俺も痛えよ。でかい顔近付けんなオヤジ、泣かされてえか、ああ?」
 低い声に、男はそれ以上何も言わずに離れていった。秋野は肩を震わせ、何しに来たんだと一頻り笑う。色とりどりのネオンが秋野の薄茶の瞳に映り、不思議な色に瞬くのを何の感慨もなく見つめ、そういえばそうだった、あれは真夜中だったかと不意に思った。
「真夜中ってのは、何時から何時なんだ?」
「何だいきなり。今時真夜中っていったら十二時は過ぎてると思うが……」
「占い師が言ったんだよ。自分も俺も、真夜中に運命と邂逅するってな」
「占い?」
 不思議そうな秋野を見て哲は何となく可笑しくなった。頬を歪めた哲を見て、秋野は益々怪訝そうになる。
「お前占いなんか興味——ああ、この間弘瀬のところで言ってたあれか」
「澄子さんな、占いもやる——やってたんだってよ」
「…………」
 秋野は前髪をかき上げると、指の間から零れた黒い前髪の隙間から、黙って哲を見下ろした。澄子の名に合点がいったような顔をしている。着古したカーキのアーミージャケット、裾が擦り切れたジーンズ。
「真夜中ってのは、いつの真夜中なんだ。占ってもらった日か」
「知らね。言ってなかった」
 哲は秋野の脛を一つ蹴飛ばして背を向けた。何故ここまで秋野を追ってきたのか、自分でもよく分からない。人の流れに逆流し、擦れ違った若いお姉ちゃんにエプロンのお兄さん遊ばない、と言われて苦笑する。
「佐崎さん」
 低く深い声が、確かにそう言った。
 足を止めて振り返ると、秋野が唇の端を曲げて笑っていた。痩せた虎のような獰猛な笑みが削げた頬に血の色の陰を落とす。
「あれは、真夜中だったかな」
「……二度目は」
「——強くなくてもいいのか」
「うるせえ、俺の勝手だろ」
 言い捨てて背を向け、歩き出す。呼び止める声はもう聞こえず、哲は店に向けて足を速めた。
 佐崎さん、あんたに頼みがあるんだ。
 居酒屋で、得体の知れない男だと思いながら秋野の仕事を請けた日のことを思い出す。佐崎さん、と二度目に呼ばれたのは差し向かいでビールを飲んでいた真夜中のあの時だ。
「俺の知らねえどこかで野垂れ死ね、くそったれ仕入屋が」
 唸りながら歯噛みして、苛々と歩を進めながら空を仰いだ。煌くネオンの嘘くさい、下品な光が空を白く煙ったように見せていて、星も運命も澄子の顔も、何もかも見えなかった。
 かつて哲、と呼ばれて動揺した自分は今は、苗字を呼ばれて動揺している。正確には苗字を呼ばれたことにではない。弱さも強さも身に詰め込んだ秋野という存在の得難さを、今更痛烈に感じているのを見透かされたということに、だ。

 自分のしたことすべてを飲み込んで悪夢も寄せ付けず真っ直ぐ立つ、そういう意味では弘瀬は秋野より遥かに強靭なのだろう。
 弘瀬という、ある部分では自分より強い男を前にして張り合うでもなく、自らの脆弱さを曝け出すために隣で眠れと強要した秋野。
「——だから俺は弘瀬じゃなくてお前がいい。分かってんのか」

 

 運命とは、何だ。
 生き死にか、それとも出会いか。
 赤い唇が一体何を言わんとしたのか、今となってはもう分からない。

 解錠したことを、後悔はしない。それでも震える指を力任せに握り締め、足元の看板を蹴っ飛ばす。哲は秋野の悪夢の切れ端を、極彩色のネオンの波間にほんの一瞬、しかし確かに垣間見た。