仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 5

 樺山の女の部屋は築年数の経った今となってはそれほど高級とは言えないが、二十歳の一人暮らしの女が住むような物件でもなかった。最も今時の親は子に甘いと言うから、哲の感覚は既に古いのかも知れないが。秋野の運転でマンションの前の通りに車を停め、三人して目的の建物を見上げた。
「しかし、若い女の部屋にしちゃ古臭くねえか」
「人の好みってのは千差万別だぜ」
「あんたが言うと説得力ある」
「そりゃどうも」
 煉瓦色の赤茶が、暗がりの中で濃い灰色に見える。エントランスだけは電気が灯っており、その周りにだけ壁本来の温かみのある色が確認できた。三時半という時間のせいか、窓に明かりの灯っている部屋はひとつもない。
 弘瀬に促され、車を降りる。秋野は運転席から気のない仕草で手を振って寄越した。弘瀬と連れ立ってのんびり歩きながら、ふと気になって空を見上げる。天気予報に反して雨の気配はまるでなく、月明かりが眩しいほどだ。夜陰に加え雨まで降れば人目につかないという意味では好都合だが、そうは問屋が卸さないというわけか。
「日頃の行いか」
「は?」
 弘瀬が振り返って足を止めた。横に並んで歩きながら、哲はいや、と首を振った。
「何でもねえよ。それより、誰も廊下に出てこねえか」
「多分な。万が一見つかったら走って逃げる」
「やる前に?」
「当然。捕まってまですることじゃねえ」
 そうか、と呟き、何食わぬ顔でエントランスに足を踏み入れる。弘瀬が受け取った情報では管理人は通いの中年男で、この時間は既にいないらしい。確かに管理人室らしい部屋の小窓は閉められており、その奥は暗かった。
 マンション内は互いの呼吸音をはっきり感じ取れるほど物音がなく、確かに建物全体が寝静まっているのだと実感するような静けさだった。
 ロビーを抜け階段を昇って廊下に出ると、公営住宅のようにドアが四つ並んでいる。もっとも屋外にむき出しではないし、その辺は些か古臭くとも当時はそれなりに高価であったことをうかがわせる造りだ。哲は手袋を嵌め、ポケットからピックとテンションが何種類も入った、巻物のような革の入れ物を取り出して広げた。よく大工が工具をしまっているようなそれは祖父の英治のものである。
「……職質かけられたら一巻の終わりだな」
「じいちゃんの形見だって言うさ」
「通じねえだろう、そんなの」
 小声は二人の間の微かな距離でも聞き取れないほど微かで低い。ごく弱い風のようにそよそよと空気を渡り、口を噤んだお互いの前髪すら揺らさずに消える。
 哲は衝立のように自分を隠す位置に立つ弘瀬を一瞥し、ドアの前に立って錠を検分した。所謂アンチピッキングという言葉が冠されるピンタンブラー錠だが、要は道具と慣れの問題で、解錠が不可能なわけでも何でもない。
「なあ」
 弘瀬の極低い声が耳元で聞こえ、哲は顔を声に向けた。覆い被さるように身体を傾け、斜め上から覗き込む弘瀬のつり上がったきつい目が、錠前を見る自分のそれのようにこちらを見下ろしている。
「あんた、仕入屋の何なんだ」
「あんたに何の関係があんのよ」
「——あいつがゲイだって話は聞いたことないけど、世話になってるし、念の為な。俺はベッドの上で言うこときかねえのは男も女も好きじゃねえが、あんたはぎりぎり守備範囲じゃねえかと思うんだよな。なあ、マジでやってみねえか。男同士も慣れりゃ女とするのと変わんねえぞ」
「これから仕事って時にくだらねえ話すんなよ。気が散るじゃねえか」
 薄いゴムの手袋に包まれた指でダイヤモンドピックを選びながら、哲は弘瀬の胸を肩で押しやった。案外大人しく離れていく弘瀬に顔は向けず、テンションを選んで道具入れは尻のポケットに押し込んだ。鍵穴に顔を近づけながら息を吐き、目だけ動かして弘瀬を見る。
「あんたは自分で殺した相手の夢、見るか?」
「夢?」
 弘瀬が眉を寄せて小声で聞き返す。哲はピックを指で回しながら語を継いだ。
「あの馬鹿、昔殺した男の夢見てしょっちゅううなされるんだとよ。それ見られんのが嫌で、俺と寝ても一緒には眠らねえって、そう言いやがる。もっとも俺にしてみりゃ何が理由だろうがあんな物騒なものの横で眠る気はまったくねえが」
 弘瀬が軽く眼を見開き、何か言いかけて口を閉じた。
「俺があいつの何かなんて、俺が知るわけねえだろう。あんたに関係ねえように、俺にも関係ねえんだよ、そんなこと」
 哲はそう吐き捨て、弘瀬を意識から締め出した。弘瀬が何か言った気もしたが、どうでもいい。鍵穴にピックを突っ込みピンの位置を探るこの瞬間。女に突っ込むより、あの馬鹿に突っ込まれるより、何にも変えがたく興奮するこの瞬間。
 今は哲の意識の中には他の誰も存在せず、指先の金属の感覚だけがすべてだった。ひっかかりを捉え、圧をかけ、ずれを産み出す。
 シリンダーが回った瞬間黄色い光が二つ眼窩の奥で閃いて、哲は知らず、唇の端を歪めて誰かを罵った。

 

 玄関の三和土には、靴が二足並んでいた。焦げ茶の男物、黒い女物のピンヒール。行儀よく並んだその二足に、弘瀬の決心が鈍ることはないのだろうかと何となく疑問に思う。弘瀬は玄関に踏み込むと、ジーンズの腰に挟んでいた拳銃を取り出した。
 一旦弘瀬の部屋を出たときに秋野が言っていたが、弘瀬が今持っているのはグロックという自動拳銃だそうだ。拳銃には子供がテレビで見て憧れる以上の興味がない哲としては、名前を聞いてもどこかで聞いたことがあるなと思う程度に過ぎなかった。しかし拳銃、という曖昧な言葉にメーカー名である固有名詞がついた時点で、その曖昧な言葉が現実に人殺しの道具となって存在感を持った気がしてならなかった。
 秋野は今回のことに関して勧めもしなければ止めもせず、言って欲しいわけではないが気をつけろと声をかけてくるでもなかった。
 遠因とはいえ自分がしたことで誰かの命が消えるというのがどういうことか。子供ではないから言わなくてもお前は分かるだろうと、口に出さずに言われた気がして思わず見上げた秋野の双眸。古くてのろいエレベーターが一階に着くまでの短くて長い時間、箱の隅に追い詰められて腰が抜けそうな口付けをされながら、おばちゃんが乗っていなくてよかったと、その時はそんなどうしようもないことばかりを考えていた。
 打ち合わせどおり、哲は秋野の待つ車に戻るべくドアを閉めた。ここから先を見ようが見まいが、哲がしたこととその結果に変わりがあるわけではない。弘瀬が音もなく家の中に消えていくのがドアの隙間から一瞬見える。ピンヒールの尖ったつま先をドアに挟めて隙間を残し完全に閉まらないようにすると、哲はドアに背を向けて、来た廊下を戻り始めた。

 哲が何食わぬ顔で車に戻って助手席に腰を落ち着けてすぐ、座ったと思ったら弘瀬が猫のように現れて後部座席に滑り込んだ。秋野は何も聞かずにそのままゆっくり車を出し、暫く行ってからライトをつけてスピードを出した。法定速度プラスきっかり十キロで何事もなかったように走りながら、ルームミラーで後ろを見て、何か問題あったのか、と低い声を出した。
「女が起きてて、そっちもやっちまった」
 弘瀬は掌で額を擦って溜息を吐く。動揺した素振りがないのは、想定の範囲内と言うことなのだろう。そもそも二人でいる男女の部屋に押し入って、一人だけ片付けるというのもなかなか難しい話なのではないだろうか。おまけに得物は拳銃で、枕を押し付ければ誰にも気付かれないなどと言うのはお話の中だけだと、哲ですら知っている。
 撃ったことがないから実感としては知らないが、銃というのは音も反動もそれなりのものらしい。スパイ映画のようにまったく音がしないサイレンサーなどあるとは思えず、一発撃てば隣に眠る人間が眼を覚まさないわけはない。
「シャワー浴びてたらしい。水音してたんで、却って好都合だと思ってたんだが。何をどう思ってたのか、バスローブ引っ掛けて拳銃持って転がり込んできたから反射的に撃っちまった」
「シャワー浴びるのに拳銃か? 女がか」
 秋野が眉を上げてミラーに映る弘瀬を見た。弘瀬は脚を助手席の背もたれ側に投げ出して後部座席に深く沈む。
「分からねえが、実際持ってたからな」
 哲が視線を感じて肩越しに振り返ると弘瀬と目が合った。弘瀬は目にかかった茶色い前髪を払い除けて薄く笑う。哲が顔をしかめて前を向いても、弘瀬は何も言わなかった。
 無料風俗案内の前に車が停まると、弘瀬は無言で車を降りて手を上げかけ、思い直したように助手席のドアの窓ガラスを軽く叩いた。降りて来いというジェスチャーに哲は渋々外に出てドアを閉めた。
「何だよ」
「俺は、夢は見ない。殺した相手の顔なんかすぐに忘れる。そうしないと俺が潰れる」
 弘瀬は夜風にふわりと舞う髪をそのままに、つり上がった眼を細めて哲を見る。秋野と同じような仕草に、親近感と苛立ちを同時に覚えた。
「だから、何だよ」
「別に。訊かれたから、答えただけだ」
「——そうか」
「仕入屋に飽きたら電話くれよ」
 弘瀬は薄く笑って肩を竦め、そのまま哲に背を向けた。