仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 4

 秋野に連れられて例の雑居ビルに足を踏み入れたのは三日後の昼間だった。どの店も閉まって半日、人通りが少ないこの時間のこの辺りはやけにのどかで、別の場所のように静かだ。こんな街中をどこから来たのか通り過ぎる猫を見て哲が思わず歯を剥いて低く唸ると、秋野が吹き出し哲の頭をかき回すようにぐしゃりと撫でた。
「どうどう」
「気安く触んな、くそったれが。俺は馬か」
 猫は哲の声に驚いたのか、毛玉のように跳ねて消える。頭を振って手を退けて、秋野の長い脛を蹴っ飛ばす。軽く避けた秋野はエレベーターに向かわずに、階段に足を向けた。
「そういやこの間聞きそびれたんだけどよ」
「何だ」
「エレベーター止まってんの?」
「いや、動いてるが。お前ここにいる間に乗らなかったのか」
「乗ってねえ。何となく、最初階段だったから」
 壁に貼られた一昨年の夏の害虫駆除のお知らせに目をやって、哲は秋野の後をゆっくり昇った。
「——前に一度エレベーター使ったら怖い目に遭ってな」
 秋野が振り返って立ち止まる。いつもより更に高いところにある顔は、心なしか青いような、別にそうでもないような。
「おばちゃんが乗ってたんだよ」
「幽霊話か?」
「違う。実体のないものなんか怖くない。そうじゃなくて、普通のおばちゃんが乗ってたんだ。こう、柄のスカートに柄のシャツ着ておばさんパーマの」
「ああ、よくスーパーで見かけるな。チェックのズボンに花柄のセーターとか着たおばちゃん」
「俺は四階で降りて弘瀬と小一時間話し込んだんだが、帰ろうと思ったらおばちゃんがまた乗ってたんだよ」
「暇なのか、おばちゃんは」
「知らんよ」
「それが?」
「触られてな」
「は?」
「痴漢? 女の場合は痴女っていうのか? いやー、怖かったぞあれは」
「痴女……」
 階段をまた昇りながら秋野が言う。
「四階分が永遠だったよな。女だから殴り飛ばすのもどうかと思ったし。いやしかしエレベーターのおばちゃんと弘瀬とどっちを取るかってのもかなり厳しい選択だな。ここにはそんな生き物しか棲んでないのか」
「そんな選択誰も迫んねえだろ」
 弘瀬の部屋のドアを拳で叩きながら、秋野は嫌そうに顔をしかめて振り返った。
「そりゃそうだが——お前ならどっちがマシだ?」
「どっちも嫌だ」
「何の話だ」
 ドアが開いて弘瀬の眠そうな顔が突き出された。秋野は溜息を吐いて弘瀬を押し退け部屋の中へ入っていく。
「害虫駆除の話」
 哲が言うと、弘瀬は何度か瞬きし、怪訝そうに眉を寄せた。

 

 樺山某という六十代半ばの男がいるそうだ。
 ナカジマが所属する北沢組は兼田組という広域指定暴力団の系列だが、兼田組と規模を同じくしながら主勢力を置く地域が異なるその組は、最近このあたりに勢力を伸ばしてきたらしい。樺山は表向きはイベントプロデュース会社だか何だかの社長だが、実際はこの辺りに食い込むための前線基地を任された支部長、と呼んでもいい立場らしかった。
「そいつが目標?」
「そうらしいな」
 弘瀬は肩を竦めてペットボトルから水を飲んだ。寝起きなのか、髪は乱れているしシャツの胸元はだらしなく開いている。開いた襟元から手を差し入れて首筋を掻きながら、弘瀬は椅子にどっかりと腰を下ろした。
 小さなテーブルは以前秋野が蹴り飛ばしたものだ。その周りに三脚の椅子。弘瀬のはパイプ椅子、秋野が座っているのは恐らく昔は応接セットの一部だった一人がけソファ、哲が腰掛けているのはダイニングチェアというやつだ。哲がここにいたときには部屋の隅にあってダンボール箱が載っていたが、何故か今日はここにある。
「兼田組からの依頼なのか」
「知らねえな。関係ねえから聞いてねえし、聞いても教えちゃもらえねえし。けど、ヤクザが依頼主じゃねえことは確かだ。俺の担当者がどこの誰かは知らねえが、元々あんたの紹介だし、な?」
 弘瀬が隣の秋野を見る。秋野は弘瀬に眼を向けて軽く眉を上げたが何も言わない。
「へえ」
 煙を吐き出す哲を眺め、弘瀬は軽く笑ってペットボトルを両の掌の間で移動させた。秋野はペットボトルを面白くもなさそうに見つめていて、特に話には入ってこない。
「樺山ってのは組とは関係ない自分のビジネスもやってるらしい。金貸しだかなんだか、よくは知らねえけどな。組への忠誠心は間違いないってんで、大元も好きにやらせてんじゃねえのかって。それがどこかの迷惑になったか、目こぼしの限界を踏み越えたか、大方そんなとこだろうな」
 どこか、目こぼし、という単語がひっかかるが、追及したところで意味はない。納得できる答えが返ってくるとは思えないし、そもそも弘瀬自身に知る気がなさそうなのだから、幾ら訊いても無駄なことだ。
 誰が弘瀬にそれをさせているのかは問題ではないのだろう。弘瀬にとっては「どうやって」が重要で、雇用主の顔が見えたところで何をどうする気もないということと哲には思えた。
「で、俺がいるってのは一体何でだ」
「それが、朝いちの電話で叩き起こされて俺も訊いたばかりなんだが、樺山の今日の予定が分かったっていうんで」
 樺山の予定が分かるのは直前だそうで、それも当然の話ではある。幾ら強面のお兄さん達が大勢ついているとは言え、わざわざ行動を吹聴して回るほどには、樺山は身綺麗ではないだろう。
 自宅はそれなりに金を掛けたセキュリティに守られている樺山を消すには、移動中が手っ取り早い。だが、移動中には当然お供がついているから一人になる機会はそれほどない。そんな折に依頼主からの追加情報がもたらされたというわけだった。
「今日は囲ってる女の誕生日だってんで、そこに行くらしい」
「誕生日だぁ? その女、幾つだよ。祝うような歳なのか」
「二十歳だってよ」
「お盛んだねえ」
 秋野が呆れた顔で煙を吐く。弘瀬は羨ましいぜ、と呟いて箱から出した煙草でテーブルを軽く叩く。弘瀬が並べたのか、テーブルの上には色とりどりの百円ライターが八本、倒れる前のドミノのように立っていた。
「で、そこはマンションだが、今時のセキュリティシステムはない。古い物件でオートロックもついてねえ。ってわけで樺山がドアの錠をつけ替えさせたらしくて、これがなかなか手強いらしい」
 だからと言って自分が呼ばれるのは嬉しくないが、仕方がないと言えば仕方がない。他を当たってくれと言ったところで聞きそうにないのが弘瀬という男だった。
「……開けんのはいいけどよ」
 哲が言うと、弘瀬はもう一度煙草で箱を叩いて眼を上げた。
「良心の呵責を覚えるってんだろ?」
「まあ、ないとは言わねえが」
「俺だってデリケートな心が痛んでんだぜ」
「俺が開けなくても誰かが開けんなら結果は同じか」
「そういうこと」
 弘瀬の声ががらんとした室内にわざとらしく明るく響く。室内は哲がここにいた二週間の間と何ひとつ変わっておらず、ここで人が寝起きしているという形跡は寝乱れたままの寝具と灰皿の吸殻くらいのものだった。
 何が目的でこんなことを生業にしているのか知らないが、陽の光の下で見る弘瀬の顔は思ったほど荒んでおらず意外な気がした。目元がきつくつり上がった顔は見ようによってはなかなか男前だ。空虚でもなく人並みに光を宿した目をじっと見つめると、弘瀬は僅かに首を傾け哲を見返す。
 秋野はこちらには一切興味がないという顔をして携帯をいじっており、メールか何かを見ているのだろう、舌打ちして画面に低く文句を呟いた。
「開けるには開けるが、フォローはしねえぞ」
「了解。解錠以外何かさせる気はねえから、安心してくれ」
「俺に言うな」
 弘瀬の台詞の最後の部分は秋野に向けてのものだった。秋野は顔を向けた弘瀬を無視して携帯の画面を見たまま答える。僅かな間をおいて薄茶の眼が画面から逸れ、哲にきつい一瞥をくれた。一瞬の後、また携帯に眼を落とすと脚を組み直して煙を吐く。その秋野を弘瀬がぼんやり見つめていた。
 多分、慣れてしまえば酷く呆気ないものなのだろう。
 かつて誰かをその手にかけ、今も初めに奪った命の重さに喘ぐ秋野の薄茶の瞳の残像を見つめながら、浮かんだ思いはそんなようなものだった。
 命と言うのは、重たいものであるはずなのに、驚くほど簡単に終わらせることが出来てしまう。親が子を殺し、子が親を殺す。何かを苦にして自分を殺す。興味があったというだけで他人を平気で切り刻む。どれもこれも、理由が何で手段がどうであれ、結果はひとつ、行き着く先は誰かの死だ。
 弘瀬が生業にしていることも、そういう行為のひとつでしかないと、哲は思う。誰が指示し、報酬を払うのか。そんなことは知らないが、例え殺されるのがヤクザでも汚職役人でも、それを是とする気は哲にはない。だが、だからと言って弘瀬を責める気もまるでない。要するに自分がどうするかということで、他人がどうであってもそれは他人の問題だった。
 テーブルの上に並んだ百円ライターが二本、灰皿を引き寄せる秋野の袖に触れ、バランスを失って立て続けにぱたりと倒れる。弘瀬は残りのライターも指で弾くと、最後の一本、薄いオレンジ色の透明のライターを掌の中に握りこんだ。