仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 3

「大体、雨が降ってるってのに何で急がないかね、お前は」
 部屋についた途端に風呂場に押し込まれて強制的に湯をかけられた。一頻り罵って蹴飛ばしたら呆れたように肩を竦めて消えたから帰ったものだと思っていたら、床に敷いたマットレスに転がって眠っているのを発見した。バスタオルでがしがしと頭を拭くと、下着とパジャマ代わりのカーゴパンツを穿く。哲は物を出し入れする音にも動かない秋野を頭の上に立って見下ろした。
「おい、人の布団で寝んな、邪魔くせえ」
 肩口を蹴っ飛ばすと、薄茶の目が開きこちらをじっと見る。丸腰ではあるが獰猛な雰囲気は、銃を持った弘瀬との勝負なら総合点でイーブンだろう。同じ人間がいるわけはないから比べることこそ無意味だが、どちらも強く危なそうなことに変わりはなく、類は友を呼ぶのかと、取り敢えず自分のことは棚上げして哲は秋野に向けた顔をしかめた。
「帰れよ。俺は寝る。占い師のおばさんの次はあのわけの分からん男だ、疲れた」
「あれは、殺し屋ってやつだ。そう言うと笑いたくなるくらい陳腐だけどな」
 いきなり足首を掴まれて、不意打ちに膝が折れる。それこそ獣のような動きで身体を起こした秋野に腰を掴まれ、そのまま身体の上に倒れ込んだ。見下ろす体勢はマウントポジションともこちらが襲っているとも取れるものだが、実際のところは体勢は関係がない。
「どうして俺がやりたくねえ時に限って盛るんだ、てめえは」
「お前は年中無休でその気じゃないだろう。だったらいつ盛ったって俺の自由だ」
「これじゃあそこに残って尻の穴の心配してても同じ——」
 首を荒々しく掴まれて引っ張られ、支えきれずにそのまま上半身が密着した。裸の皮膚に秋野の上着のボタンがえらく冷たい。
「この……」
 哲は腕を突っ張って身体を起こし、食い千切るように口付けてくる秋野の上で、苛立ちのままに低く唸った。四つん這いの体勢で唸っていると、本当に犬になった気がしてくる。
「——強いのは好きだよな。弘瀬はどうだ? あいつは俺より強いぞ。腕力の話じゃないが」
「男が好きなわけじゃねえ」
 何をトチ狂ったことを言っているのか。間近の薄い色の瞳を睨みつけると、すぐそこにある唇から微かに笑う気配がもれる。
「それは知ってるが、だったらどうしてあいつは拒否して、俺からは逃げない」
 秋野が喋るたびに、唇が微かに触れる。
「哲、お前何で俺と寝る?」
 答えずにいると、秋野はあっさり哲から手を離して前髪をかき上げた。上着のポケットを探り、寝たまま煙草を銜えると火を点ける。真上の哲を避けて煙を吐き出し、秋野は笑みを消した顔を煙の方に向けたまま、低い声で呟くように語を継いだ。
「お前が俺に興味があるのは、強いからだって前に聞いた。強いってのが何かはよく分からんが、俺より強い誰かが現れたらお前の興味はどこへ行くのかって思わなかったっていえば嘘になるな。けどまあ、それこそ興味はあるが、本気で心配したわけでも何でもない」
「お前馬鹿なんじゃねえの」
「かもな」
「いや、馬鹿っつーか……くだらねえこと考えてんのな」
「くだらないか?」
 秋野の削げたような頬が歪み、他の誰にも見せない獰猛な何かが笑みの裏に一瞬閃く。人当たりのいい穏やかな表皮が剥がれた瞬間、秋野は本来の顔になるのだといつも思う。その顔を見て感じる得体の知れない興奮に、哲は歯噛みして震えを飲み込んだ。
「俺にとって大事なのはお前だが、お前に大事に思ってもらいたいと思ったことはないんだよ」
 秋野はフィルターをきつく噛んで、歯の間から更に煙を吐き出した。
「自分さえよけりゃいいってことか? 自分でもよく分からんな。結局お前がどう思ってようと斟酌する気は俺にはないんだ。行きたきゃ行けばいいしそうなったら追う気もないが、その理由が何であれお前が俺から逃げない限り、俺はお前を手放さんぞ」
「……俺はお前のものじゃねえ」
「お前が言う意味は分かる。俺もお前は俺のものじゃないし、そうなって欲しくないと思ってるよ。そういうお前が欲しいってことは、俺は永遠にお前を手に入れられないんだろうが、それでいいんだから俺の勝手だ」
「禅問答か、これ」
 哲は秋野の歯の間から煙草を引き抜き、一口吸う。秋野の唇に煙草を戻すと指ごと思い切り齧られた。
「独占欲でも感じりゃ弘瀬と吼えあってもいいがね。どうもそういうんでもないというか、お前にいいとこ見せようとも思わんし、弘瀬と張り合う気にもならん」
「羽膨らませて雌の気を引く鳥じゃねえか、そんなの」
「だからそうはならなかったって言ってるだろ。まあ、とか何とか言いながら、あいつがあんまり調子に乗るから一瞬本気であそこで始めてやろうかと思ったけどな」
「……やっぱりただの馬鹿だろ、お前」
「かも知れんよ、お前なんかにいかれちまって」
 唇の端を曲げて秋野が笑う。眇められた目に、哲は大きく舌打ちした。突然吸ってろ、と煙草を口に突っ込まれ、気がついたら体勢を入れ替えられている。
「眠てえって言って…………くそ」
「弘瀬と一緒に寝るよりかましだろう」
「抜かせ……!」
 カーゴパンツの布越しに触れる手を押さえながら脚を振り上げる。無理な角度で入れた踵は狙った背中ではなく秋野の肩の下に当たり、秋野が喉を鳴らすように低く笑った。
「仕方ないな、まったく。灰が落ちる、煙草寄越せ」
取り上げた煙草を一口吸いつけ左手で灰皿に押し付けながら、秋野は哲に覆い被さる。口付けながら罵ると、秋野はもう一度低く笑った。

「畜生——」
 セックスをするのは二週間振り、正確に言えばそれ以上だ。
 そもそも腕を怪我した日以来、秋野と顔を合わせるのは今日が二度目だ。考えてみれば腹が立つことに、最近は秋野以外と——要するに女と——寝ていない。まったく癪に障るというか、俺は一体何をやっているのだと呆れもするが、今更新しい女と何か面倒な駆け引きを始めるのも億劫で、現状維持が続いている。
 突き上げられて歯軋りし、シーツに荒い息を吐き出し前髪を擦り付ける。背中の筋が攣りそうだった。行為にはそぐわない悪態をそこら中に撒き散らし、哲は汚い言葉を怒鳴りすぎて嗄れる喉から更に文句を絞り出した。
「この…………殺す気か」
「こんなんで人は死なんよ」
「やられたこともねえくせに知った風な口きくんじゃねえ」
「まあ、そう言われりゃそうか」
「他人事だと思って、このクソ虎が」
 哲は文句を垂れ流しながら頭の中で先程までのことを反芻した。秋野の言っていることはよく分からなかった。大体、この男は何事も考えすぎの嫌いがある。確かに自分は余りにも何も考えていないと思うが、考えても分からないことで頭を悩ませてもどうせ時間の無駄ではないか。そんなことで悩むなら、大してよくなくてもこうしているほうがまだ幾らかマシというものだ。
 敏感な一点を何度も刺激するように出し入れされて不機嫌な呻きが漏れる。今すぐ抜いて消え失せろと罵っても、秋野が素直に退くはずもない。
「哲」
 腰を掴む秋野の手に力がこもる。表情が見えないこの姿勢は、興奮よりも寧ろ怒りを掻き立てた。
「ぐちゃぐちゃいらねえこと喋ってたと思ったらこれかよ……」
 上がる息の隙間からそうやって詰りながら、喧嘩の延長でしかないと思うこの行為の意味を、改めて自問した。今更訊くな。訊かれたって答えようがねえ。
「だからだよ」
「何が」
「散々要らんこと考えてる頭で、お前の顔を見てられない」
「何で」
「さあ。勢いで愛の告白でもしちまったら困るだろ」
 笑いを含んだ秋野の声が、耳元を舐めるように通りすぎた。
「納まりいいところに逃げるためにか? そんな愛なんかお前、どっかの女にくれてやれ……っ」
「受け取って貰えないのか、寂しいねえ」
 まだ降り続く雨の音が、言葉と裏腹に笑うのを堪えているような秋野の声にかぶさって響く。
 誰が強いのか弱いのか、そんなことは知らない。ただ、すべて食い尽くすように何もかもを手に入れたがる秋野の咆哮、噛み付き食らい合わないかと言う甘い誘いに逆らうことが出来ないだけだ。
「愛も恋もねえくせに、よく言う——てめえは性質が悪ぃんだよ」
 押し込まれて背を仰け反らせる哲の肩に食い込んだ秋野の歯の間から、軋むような唸りが漏れる。秋野の肌の匂いに、肩から滲む血の匂いが微かに混じって金気臭さが鼻をつく。哲は指が痛くなるほどきつくシーツを握りしめた。
「そりゃ、悪かったな」
「そういうとこが……ああ、くそ、やばいって——」
 皺の寄った布の間に吐き捨てた、掠れて消えた最後の形容詞が一体何に係るのか、自分でも分からない。思いつくまま唇に乗せる悪罵が部屋を埋め、刺々しい空気に鳥肌が立って興奮に瞼の裏が赤くなる。顔が見えない秋野が哲の肩口で吐くざらついた息が、雨音のように低く、深く、部屋に満ちた。

 

 飲んだ後に秋野が泊まっていくのは珍しいことではないが、セックスの後一緒に眠ることはない。秋野の部屋なら哲がソファ、秋野がベッドで、哲の部屋なら哲がベッドで秋野は床だ。大体においてベッドが狭いし、それ以前に朝一番に見るのが秋野の顔では幸先悪い。
「離せよ」
「嫌だ」
 何故今日に限って駄々をこねるのか、秋野の長い腕はしっかりと哲に絡んで離れない。散々暴れてみたが拘束は解けず、そうこうしているうちに眠くなって哲はうっかりそのまま寝入った。
 背後の秋野の浅い呼吸に目覚めたのは、慣れない感覚のせいかもしれないし、そうではないのかも知れない。
 よくない夢を見ているのは何となく分かった。お互いの部屋に泊まった時に何度か目にした秋野の様子、傍目にもはっきり分かるほどではないが恐らくうなされているのをこれほど間近で見るのは初めてだ。寝返りを打ち秋野と向き合って顔を眺めていると、突然薄茶の目が開いて本気で驚く。
「いきなり目開けんじゃねえよ! 俺のか弱い心臓が一時停止したじゃねえか」
「か弱い? スワヒリ語か? うなされてたか、俺」
 思わず出た哲の手を軽く受け、秋野は他人事のようにそう呟いた。雨は止んだのか、壁を叩く雨音は聞こえず、時折車のタイヤがアスファルトを擦る音がするだけだった。
「漫画みたいにうんうん唸ってたってわけじゃねえけど、幸せそうには見えなかったぜ」
「——最初に殺した奴の顔だけは、忘れられないんだよな」
 目の前の顔を改めてじっと見ると、薄い色の瞳が細められる。秋野は仰向けになって掌で顔を覆い、珍しく沈んだ声を出した。
「調子が悪いと毎晩夢を見る。最初に撃ち殺した奴が、腹から血を流しながら歩いてる夢だ。眼窩には目玉がなくて空ろな穴がある。そこに憎悪が見えないのが俺は怖い。憎んでくれ、呪ってくれって喚いても、そいつはただ悲しそうな顔をして俺の周りを足を引きずって歩くだけだ」
 肘枕をして秋野の声を聞きながら、哲はぼんやり天井に眼をやった。
「そんなもんだ、実際のところ俺なんて」
 秋野の低い声が止んだ雨の代わりに滴になってひそやかな音を立てる。
「これさえなきゃ、俺はお前を抱えて朝まで眠ったって別にいいんだ。……要するに、意気地がないんだよ」
 弘瀬は夢など見ないのだろう。
 そういうことかと腑に落ちて、哲は一瞬秋野に眼を向けてまた平らな天井に眼を戻した。秋野が不意に身を起こし、帰る、と呟いて立ち上がる。引き止める理由はどこにも見当たらない。衣擦れの音、水道の音、煙草の匂い。どれくらい経ったのか、秋野の気配はいつの間にか消えていて、哲は知らぬ間に眠りに落ちていた。